異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第8話:メドゥーサと洗礼の杯

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 肉料理が下げられると、銀のワゴンにフロマージュが並んで運ばれてきた。
 これこれ。帝国ではデザートへ行く前に、チーズを食するのよね。
 濃厚な香りを胸いっぱいに吸い込み、いよいよ甘味へ――そう思った矢先。

「皇太子妃殿下。本日のめでたい席に、妃様の生まれ年のワインをご用意いたしました」
 そう言って近づいてきたのは、絹のドレスに身を包み、巻き髪も爪も隙なく整えられたエレガントな女性――法務大臣だった。
 彼女もどうやら、ロレーヌ派の手先らしい。

 石化の女神――メドゥーサ。……いや、天然のくるくるパーマ?
 王国ではまず見かけないその髪型に釘付けになっていたら、殿下がボソリとつぶやいた。
「心の声が漏れてるぞ」
「うっそぉ!」

 背筋が石化したようにこわばる。けれど、笑みは崩さない。
「まぁ、嬉しい」
 ラベルを確認すると、確かに私の生まれ年。
 王国の天才醸造家による銘柄だ。
 けれど、その年は霜害で飲めるワインはほぼ絶滅。
 残ったのは、ウェストヒルズ村の一部だけ。市場に出回ることはあり得ない。

「……最悪」
 王国語でぼそりとつぶやいた。
 まさかと思う間に、濁った深紅の液体がグラスの縁まで注がれた。
 その色合いはどこか不吉で、毒を思わせる。

「――大臣、テイスティングは?」
「ぜひ、妃様へ最初に」
 塗りこめた口紅の端が、意地悪に吊り上がる。
 ……められた。

「まぁ。それでは、ありがたくいただきますわ」
 そう言った瞬間、殿下が耳打ちした。
 ――俺が飲む。

 メドゥーサの瞳を見ながら、グラスを少し持ち上げ、しおらしく睫毛まつげを伏せる。
「わたくし、未成年ですから。お酒はまだ――飲めませんの」
「本日は特別な日ですから、細かいことはよろしいではございませんか」
「それは、法務大臣としていかがなものかしら」

 伏せていた顔を上げ、視線をまっすぐ彼女へ向ける。

「権力を持つ者こそ己を律すべし――帝国貴族法典前文第1項。帝国に嫁いだ者として、恥じぬ振る舞いを心がけたいと思っておりますの。ね、殿下?」

 こてん、と首を傾げて賛同を請う。
 殿下が静かにグラスを持ち上げると、ざわめきが凍り付いた。
「妻の代わりにいただこう」
 その瞬間、法務大臣の濃く縁取られた目元が引き攣るように歪んだ。
「殿下っ!」
 彼女の手が、制止するように宙を切る。
 が、もう遅い。

「っ、何だこれはっ!?」
 殿下は口を押さえ、グラスをダンッとテーブルに叩きつけた。
「殿下っ! ご容体は!?」
 衛兵が駆け寄り、異変を確かめようとする。

「まさか、毒……」
 ざわめきがぜ、披露宴は混乱のまま中止となった。

「毒じゃないわよ、ただまずいだけ」
 ため息交じりに言いながら、畳んだナプキンをテーブルへ置く。
「はぁ――これからデザートだってときに!」
「あのメドゥーサを石にするとはな。……やるじゃないか」
 殿下が手にした完璧に磨かれたワイングラスに映った法務大臣の顔は、見事に凍りついていた。

「殿下だって。ワインのこと――ご存じだったんでしょう?」
 殿下はわずかに口元を緩めただけで、肯定も否定もせずに言った。
「披露宴は、花嫁の舞台だろう?」
 その余裕ある一言が、私に勇気を与えてくれる。

 もちろん、帝国の貴族法を読み込んでいたわけじゃない。
 あの儀礼官が、「未成年は酒を飲むな」と持ち出した条文を、ちょこっと拝借しただけ。
 ――嫌味って、意外と役に立つのね。

 けれど、笑っていられるのも束の間だった。
 場のざわめきは収まるところを知らず、衛兵の鎧の音や宮廷医の呼び声が交錯する。

 その喧騒とは裏腹に、私の直感が静かに告げていた。

 ――これはまだ、序章にすぎない。

 帝国の真の顔は、これから現れるのだと。

 削られた名、祝福なき婚姻、揺れる馬車、礼を欠く大臣――
 次なる洗礼はいかなる形で訪れるのか。
 試練のときこそ微笑みを。
 祖母の教えを胸に、私は再び背筋を伸ばした。
 それは、新たな戦いへの合図だった。
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