異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

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第一章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第9話 初夜の苦さ ―知らされぬ妻

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 披露宴が急遽中止となり、部屋へと戻されると、今度は式とは別の女官たちに囲まれた。
 ドレスを脱がされ、浴室に案内されるや否や、三人がかりで身体を洗おうとするものだから、つい叫んでしまった。
「裸を見られるのは恥ずかしいの!」
「慣れていただかねばなりません。私どもも仕事ですので」

 ……これ、なんの拷問なの!?
 羞恥と怒りで顔が赤く染まる。
 その熱を抱えたまま案内された部屋で待っていると、扉が静かに開いた。
 殿下は湯浴みを終えたばかりなのか、濡れた漆黒の髪から滴る雫が首筋を伝い、
 少し開いたガウンの隙間から覗く胸板に、思わず目が泳ぐ。

「待たせたか?」
「いえ。私も……待つのには慣れてますから」
 殿下の視線が一瞬だけ揺れ、すぐに戻る。

 今でも耳に残っている。
『俺が飲む』――あの迷いのない声。
 披露宴では確かに、背中を預け合えた。
 けれど今は、その距離が急に遠く感じられる。
 そして遅れて胸に刺さるのは、財務大臣のあの一言。
『――公務も後継も揃っている以上、名ばかりの妃に冠を与える理由など、どこにありましょう』
 その響きは、私の存在を根こそぎ否定するものだった。
 披露宴では必死に立っていたから傷つかずに済んだのに、今になって胸の奥で鈍い痛みに変わっていく。

 そのうえ――今夜の出来事が、昔の記憶を呼び起こした。
 王国では十五歳を過ぎれば酒をたしなむようになる。
 ランスロットとの婚約を祝う食事会で、正妃の座を狙っていた令嬢から贈られたワインを無邪気に飲んだ。
 舌がしびれ、三晩、声を奪われた。
 あの時のは、嫉妬の味。
 今夜のは――拒絶の味。
 口にしていないのに、胸の奥にだけ苦みが広がっていく。
 思わず心臓に手を当てた瞬間、殿下の視線がそこに落ちた。

「……緊張しているのか?」
 素直に、少しだけ肩をすくめてうなずいた。

「私達は夫婦となったが、貴女は未成年だ。成人するまでは、“白い結婚”でいようと思う」
「しろいけっこん? どういう意味?」
「つまり……夜の務めを果たさないということだ」
「……晩餐会とか?」
「……夜の営みのことだ」
「なーんだ、性交渉なしってことね。メモしておこっと」
「真面目に言っているんだが……」
 膝の上に置いていた単語帳をぱらりと開いた瞬間――
「なにをメモしている」
 殿下が手首を掴んだ反動で、単語帳が床にバサリと落ちた。

 拾い上げてぱらぱらとめくった殿下の顔が、みるみる険しくなる。
「……『クズ』『お飾りの妻』『お手付き』――“殿下にはおてつきの女官が何人もいる”――この例文……誰に聞いた?」
「女官たちです」
「……全員、解雇だ」
「そんな! 国語力に問題があるだけで解雇だなんて、大げさよ」
「そういう問題ではない」

 低く言い切った声に、笑いの余韻がすっと消えた。
 殿下は深く息を吐き、話を戻した。

「私は二十三だ。未成年の貴女にとっては……そうだな、叔父くらいに思ってくれればいい」
 殿下はわずかに視線を逸らし、言葉を探すように続けた。
「十八になったら公爵位も返上されるだろう? 王国に戻るのも自由だ」

 “戻る”――その一言が、心の芯をじわりと冷やした。
 父は戦で逝き、母は別の家に嫁いだ。
 戻れる場所なんて……どこにもない。
 名ばかりの妻でもいい。
 せめて、“ここにいていい”と思える意味がほしい。

「この婚姻は、和平のためでしょう?」
「政略に頼らず平和を保てばいいだけだ」
「……成人したら、離縁するってこと?」
「望むならそうすればいい。帝国に残るのも自由だ」
「……お世継ぎは?」
「継承については問題ない」
「皇子様のお母様も、宮殿に?」
「二人のことは――知らなくていい。儀礼官から報告を受けているだろう? 関わることはないはずだ」
 その声音は淡々としていて、まるで私を拒む壁のように響いた。

 ……確かに、そう言われた。
 式の説明に来た役人からも、初夜の支度をしてくれた女官たちからも。
『殿下には愛する女性がいて、皇子もいる』――その言葉が、胸に残っている。
 だからこそ、殿下の口から聞きたかった。
 二人をどう思っているのか。
 私はどう接すればいいのか。
 殿下が正直に気持ちを話してくれたなら、友人にはなれなくても、せめて”親戚“くらいの距離感でいられたのに。
 その説明すら与えられず、妻でありながら、誰よりも遠い場所に立たされている気がした。

 ――そういえば、さっきの披露宴。
 皇子も、公妾とされる母親も姿を見せなかった。
 わざわざ参列するほどのものでもないと思われたのだろう。

 真実を確かめる術もなく、正妻の矜持として問い返すこともできない。
 ただ、沈黙を選ぶしかなかった。
 けれどその誇りは、孤独を覆い隠す鎧のようなもの。
 仮面にすぎないことは、私がいちばんよく知っている。

 それでも――
『知らなくていい』

 たった七文字の言葉が、私と殿下の間に静かに薄い膜を張る。
 私は“知らされぬ存在”へと追いやられていく。
 殿下はそのことを、きっと分かっていない。
 そう思うことでしか、自分を守れなかった。
 ――けれど、私は知ってしまう。彼女たちの存在が、やがて私から居場所を奪っていくことを。

「数年のうちに、貴女を縛るものはなくなる。それまでは、穏やかに過ごしてほしい」
「公務は?」
「別の人間が務める。最低限の妃教育だけは受けてもらうがな」
「……」
「――アン夫人のことは、残念だった」
「祖母を……知ってるの?」
「昔、世話になった」

 思いがけず祖母の名を聞き、瞳が揺れる。

「殿下は、私に何を望むの?」
「妻という立場でいてくれれば、それでいい。……何も望まないし、期待もしない」
 その言葉に、私はもう何も返せなかった。
「……おやすみなさい」
 力なくそう言い、立ち上がった。

「女官には初夜を済ませたと思わせたい。今夜はここで寝てくれ」
「このベッドは使いたくない」
 私と離縁したら、殿下は相応しい女性を本当の妻に迎えるんだろう。
 たとえ名ばかりだとしても、前妻と使っていた夫婦の寝室なんて、嫌だろうから。

「共寝が嫌なら、私が出て行く」
「……それだけ、もらいます」
 殿下の返事を待たずに、薄手の毛布を手に取ると、裸足のままベランダへ向かった。
 南に位置する帝都は、秋でも肌寒さを感じさせない。
 夜空に浮かぶ星は、王国で見上げたものと変わらずきらめいていた。
 けれど――祖母のいない空にまたたく光は、どこか鈍くて、ほんの少し遠く感じる。
 だから、心の中で祖母に語りかけることにした。

「お祖母様。こんな私でも、少しはお役に立てるでしょうか……」
 殿下の言葉が、頭の中でこだました。
『何も望まないし、期待もしない』――その一言が、胸に突き刺さる。
 妻という言葉が、こんなに空虚に響くなんて。
 優しくされても、愛されることはない。
 その残酷さを、私はまだ本当の意味で理解していなかった。

 ――静かな夜空に、行き場を失った言葉がひとつ、落ちていった。
「お祖母様。大人になるって、思ったよりずっと苦いのね。……少しだけ、分かったような気がするわ」
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