異国妃の宮廷漂流記

花雨 宮琵 ー Kau Miyabi ー

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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第10話:証の代償

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 翌朝。
 目を覚ますと、なぜか寝室のベッドに寝かされていた。
 殿下の姿は見当たらない。
 シーツには皺が寄っているだけ。血痕はない。……当然だ。
 けれど、閨教育で「初めてのときは少し出血することもある」と聞いていた。

 政略的な婚姻でもいい。
 愛されなくても、せめて役割を果たせるのなら――そう思って嫁いできたのに。
 それすら求められないのなら、私は何者としてここにいればいいんだろう。
 だからせめて、証だけでも残さなきゃと思った。
 私がここにいる、その証を。

 ほんの一瞬、胸の奥に黒い影がよぎった。
 ――殿下も、傷つけばいい。
 気づけば、ナイフが指をすべらせていた。

 昔読んだ恋愛小説の真似をしただけだった。
 破瓜の証を偽装するために血を散らす話。
 けれど、思ったより深く切ってしまった。
 泣きべそをかきながらも、血のついたシーツを見下ろして、小さくうなずいた。
 これでいい。
 カタチだけでも、証を残せた。
 帝国ではきっと、こういうのが大事なんだろう。
 殿下も、これで少しは思い知るだろう。
 私の痛みを。
 カタチだけ取り繕うことの、虚しさを。

 ……そう思った瞬間、湯浴みを終えた殿下が寝室に戻ってきた。
 血が滴る指を押さえもせず、痛みを隠すように笑っていた私を見て――殿下が瞳を見開いた。

「おい……何をしている。出血がひどいじゃないか」
 低く押し殺した声に、怒りと焦りが滲んでいた。

 言い返す間もなく、殿下が私の右手を掴み、傷ついた左指を押さえさせる。
「しっかり押さえていろ」
 強引にそう命じられ、ただ従うしかなかった。
 殿下は足早に寝室を出て行き、すぐに消毒と包帯を持って戻ってきた。

「見せろ」
 短くそう言い、迷いのない手つきで傷口を消毒していく。
 その仕草は、驚くほど慣れていた。

「……全く、何を考えている」
「何って……初夜の偽装」
 小説の真似をしてみたと言ったら、殿下の眉間に深い皺が刻まれた。
「小説と現実を一緒にするな。
 破瓜の印で、こんなに出血するはずがない。私が未成年に無体を働いた鬼畜だと思われるだろう?」
「『きちく』? どういう意味?」
「人を人とも思わぬ残酷な行為をする者のことだ。……メモするな」
 殿下の声は淡々として鋭い。
 けれど、その奥に焦燥が潜んでいた。

「――二度と、こういう真似はするな」
「二度としませんよ。初夜なんて一度きりなんだから」
「そういうことではない。……自分を傷つけるな、と言っている」
 殿下は静かに言い切った。
 けれど次の瞬間、深く息を吐き、低く抑えた声で続けた。
「……分かってほしい」
 その声音に込められた意味を、私は理解できなかった。

「……変なの」
「何がだ」
「殿下は私を傷つけてるじゃない。心を。尊厳を。花嫁としての覚悟を。殿下は平気で私を傷つけるくせに、私が私を傷つけるのは許さないなんて、矛盾してる。やっぱり殿下は、きちくです」
 殿下の喉がわずかに震えた。
 何かを言いかけて――けれど、声にはならなかった。

 私を心配してるわけじゃないくせに。
 “皇太子が未成年の妻を傷つけた”なんて噂が立ったら困るから、必死になってるだけでしょう?
 結局、大事なのは自分の体裁ていさいだけじゃない。

「手当は結構です!」
 殿下の腕を振り払った。
 もういい、どうせ私の気持ちなんて分かってもらえない。
 苛立ちを抱えたまま自室へ戻ろうとしたその時、扉が乱暴に開かれ――
 張り詰めていた空気が、場違いな滑稽さへと転がっていった。

「初夜の証を確認に参りました」
 ずかずかと儀礼官たちが入ってきた。

 ……はぁぁぁあ!? 
 夫婦の寝室に、断りもなく入ってくるなんて!
 怒り心頭の私をよそに、儀礼官は血のついたシーツを一瞥いちべつし、口の端をわずかに歪めた。

「……血痕、確認。証拠として保存を。――公証人」
「はっ。血痕、数えて5つ。大きさは指先に等しく、形は不規則。飛び散り方は――おお、これは珍しき有様。ふむ、総じて不首尾しっぱいの証を物語るかのごとし」
 公証人がそうつぶやきながら、細かな観察記録スケッチを取っていく。

「――皇族の私生活は、公然の秘密、ってほんとなのね」
「誰がそんなことを言った」
「あそこの儀礼官。――ていうか、それって公然なの? 秘密なの? どっちなの!?」

 私の問いには答えぬまま、殿下の眉間に深い皺が刻まれていく。

 ――では。
 儀礼官たちはそう言うと、一礼すらせず立ち去った。
 ほんと、何なの?
 儀礼官から“礼”を取ったら、ただの官じゃない!
 殿下も殿下で、『すぐ戻る』、そう言って出ていった。
 彼が何をしに行ったのかは分からない。
 でも――誰も私の心を見ていないことは、明らかだった。

 静かになった寝室で、独りベッドに腰かける。
 一息ついたのも束の間――

「妃様の出血が酷いと聞きまして」
 ずかずかと入ってきた医師は、シーツの血痕を見るなり顔色を変えた。

「……っこれは……! なんということだ! ――すぐに傷口を拝見いたします!」
「こんなの、数日もすれば治るから、大丈夫」
「侮ってはなりませぬ! 膿んで感染でもしたら、命に関わるやもしれませぬぞ!」
 老齢の医師は額に汗を浮かべながら、今にも卒倒しそうな勢いで迫ってきた。

「破瓜の証がこんなに……いや、とにかく傷口を!」
「そんなに言うなら、これだけど」
 私は傷ついた人差し指をひょいと差し出した。

「……ゆ、指?」
「そうだけど?」

 医師はぽかんと口を開けたまま固まった。
 私としては、なんでそんなに慌ててるのか分からない。
 果物の皮をむこうとして怪我をした――そう言ったら、ますます変な顔をされた。

 ……ほんと、何なの。
 それに、大げさすぎるでしょ?
 指にぐるぐる巻かれた包帯を見て、思わずそうつぶやいた。
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