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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿
第11話:伏魔殿の朝餉
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手当が終わると、またもやずかずかと女官たちが入ってきた。
――どうしてこんなに、無遠慮なの。
帝国の“礼節”とやらは、どこに行ったのよ。
もしかして、“れいせつ”の同音異語でもあるのかしら?
「おはようございます。朝の支度をお手伝いさせていただきます」
「おはよう。……先に湯浴みをお願いしたいのだけど」
昨日、あれほど嫌だと言った香油を塗られてしまい、身体中がベトベトして不快だった。
指には包帯が巻きついてるし、どうせ自分では洗わせてくれないんだろうから、ちょうどいいわ。
洗ってもらおう。
三人の女官が当たり前のように私のガウンを脱がすと、全身に残る赤い痕を見て、同時に息を呑んだ。
互いに視線を交わしては、慌てて逸らす。
まるで“見てはいけないもの”を見てしまったかのように。
……え? そんなに蚊に刺された痕って、珍しいの?
そっか。帝国の貴族令嬢は、日光に当たるのも、蚊に刺されるのも、タブーなのね。
そんなこと、誰も教えてくれなかった。
きっと、私が知らないことが山ほどあるに違いない。
こういうとき、誰に教えを請えばいいんだろう……。
女官たちが、ぎこちなく私の腕に触れる。
「……別に、病気じゃないから感染の心配はないわよ?」
「わ、分かっております!」
やっぱり、ベランダのソファーなんかで寝るんじゃなかった。
9月といえども暑さが残る帝国には、まだ蚊がいて。
眠っている間に、結構刺されちゃったみたい。
手荒く私の腕を掴んだ女官に、思わず顔をしかめた。
「そんなに強く引っ張らないで。あちこち痛くて、早く歩けないの」
女官たちが一斉に、鬼のような形相で私を睨みつける。
……仕方ないじゃない。
昨日の馬車移動で全身が筋肉痛なんだから。
――ほんと、何なの。
誰も、私のことを知ろうとしてくれない。
無視されるより、そっちの方がずっと痛い。
お祖母様ならこんなとき、どうしただろう……。
湯浴みを済ませ、着替えも終えた。
お化粧だけは自分でやるから、と女官たちには席を外してもらった。
なのに――待てども暮らせども――いや、まだ暮らしてないけどね? 誰も来てくれない。
おかしいなぁ。
「皇太子妃様は女官が迎えに来るまでお部屋を出てはなりません」って言ってたのに。
殿下は殿下で、「すぐ戻る」なんて言ってたのに。
どこへ行ったのやら。
もしかして、忘れられてる!?
いやいや、さすがにないでしょ。――とは言い切れないのが帝国なのかも。
仕方なく、一人で食堂へ降りていくと――
殿下はすでに着席して、食事を始めていた。
「おはようございます」
「ずいぶん遅かったな。二度寝でもしてたのか?」
待つことには、慣れてるんじゃなかったの?
もしかして――”待ち人限定”だったりする?
「手当は受けたか?」
「はい」
「痛みは?」
「もうありません」
本当は、初夜の偽装がうまくいったと安堵した途端、ズキズキと痛みが襲ってきた。
けれど――そんなことを口にしたところで、殿下が助けてくれるはずもない。
言葉にするだけ、虚しい。
こんなとき、祖母だったら。
「大丈夫だよ」と言って、おまじないをかけてくれたのに。
それだけで、痛みなんて忘れられたのに。
形式だけの包帯やお薬はあるけれど――心まで癒してくれる手当は、ここにはないみたい。
席に着くと、朝昼兼用の食事がサーブされた。
ナイフを握る右手は問題ないけれど、包帯でぐるぐる巻きにされた左手では、フォークが安定しない。
ソーセージがお皿の上で逃げ回る。
カチャ、カチャ。
音を立てるたび、後ろに控える侍従たちが白い目を向けてくる。
この包帯が、目に入らないの!?
硬い帝国のソーセージはびくともしない。
まるで、融通の利かない帝国の官僚制度そのもの。
それに、焼き過ぎなのよね。
……もう、果物だけでいいや。
ため息をついた瞬間、殿下がすっと私の皿を取って、ソーセージを切り分けてくれた。
「……ありがとうございます」
「料理長に伝えておけ。妃の食事は最初から一口大にして出すようにな」
「かしこまりました」
「悪いが、執務がある。先に行く」
「……お忙しいんですね」
「あいにく、朝の支度に何時間もかけられるほど暇ではない」
「むっ」
私だって、暇だったわけじゃない。
誰も呼びに来てくれなかっただけで――いや、暇なのか?
だって、することないんだもの。
それにしても。
女官たちには「初夜の儀は済ませた」と思わせたいくせに、身体が辛いであろう新妻をこの伏魔殿に一人残して、初日から執務室に消える夫ってどうなのよ!?
100歩譲って新婚旅行はいいとしても、普通、1週間くらいは休むもんじゃないの?
そんなことをグルグル考えていたから、殿下が話しかけてきたことに気づかなかった。
「――聞いているのか」
「え? ああ、はーい」
「語尾は伸ばすな」
「はいはい」
「『はい』は一度でいい。……子どもではないのだから」
一拍置いて、低く付け加えた。
「……夕食には戻る。食事は、きちんと摂っておけ」
「はい。ハイ。はーい! ほら、殿下。公務に遅れますよ? 行ってらっしゃいませ―」
殿下は何も言わず、指先で私の額を軽くコツンとつついた。
それが彼なりの「こら」だったのかもしれない。
一度も振り返らず、静かに執務室へと去っていった。
なによ。文句があるならそう言えばいいのに。
その直後、給仕がそっと差し出したのは、銀器ではなく、淡い花柄のアンティーク陶器だった。
「……朝からケーキ?」
帝国では、朝からデザートを食するのかしら。
「昨日の披露宴でご用意する予定だったデザートでございます。殿下より、妃殿下のお好みだと伺いましたので」
それは、ミラベルのタルトだった。
この季節にしか手に入らない、黄金色のすもも。
ほんのり甘くって、口の中で弾ける――私の大好物。
しかも、すでに一口サイズに切り分けられている。
「……ふーん。気が利くじゃない」
そう呟いて、ひとつ口に運ぶと、懐かしい風味がじんわり広がった。
甘い言葉も、優しい態度もくれないんだから――せめてこのくらいは、頂いておかなくちゃ。
そう粋がってはみたけれど、心の奥までは満たされなかった。
領地の夏は、ミラベル祭りとともに静かに幕を閉じる。
タルトを焼く日は、子どもたちが厨房に立つのが習わしだった。
焼き上がる香りに誘われて、幼子たちが駆け寄ってきたものだ。
「祭りはね、見るより参加するほうが楽しいでしょう?」
そう言って笑った祖母の声が、今でも耳に残っている。
シュッ。
テーブルの蝋燭が、静かに消えた。
記憶が、ふっと途切れる。
……甘さって、すぐに消えてしまうのね。
静かな食堂に、あの頃の笑い声はなかった。
午後は、宮殿という名の伏魔殿を歩いて見て回ることにした。
後ろには、羽根飾りを揺らす女官たちの群れがゾロゾロとついてくる。
メドゥーサといい、彼女たちといい――伏魔殿というより、動物園?
見世物は彼女たちで、私は猛獣使いってとこかしら。
……ま、誰も私の言うことなんて聞かないけれど。
「皇太子妃って、体力勝負なのねぇ」
そうつぶやきながら、筋肉痛に顔を歪めて広大な宮殿をヨチヨチ歩いていたせいか――
「初夜の儀は無事に行われた」という噂が、瞬く間に宮殿中に広まった。
――けれど、笑っていられたのはこの時までだった。
この噂が、静かな宮殿に潜む火種となり、やがて私を追い払う炎へと変わっていくことを、この時の私はまだ知らなかった。
――どうしてこんなに、無遠慮なの。
帝国の“礼節”とやらは、どこに行ったのよ。
もしかして、“れいせつ”の同音異語でもあるのかしら?
「おはようございます。朝の支度をお手伝いさせていただきます」
「おはよう。……先に湯浴みをお願いしたいのだけど」
昨日、あれほど嫌だと言った香油を塗られてしまい、身体中がベトベトして不快だった。
指には包帯が巻きついてるし、どうせ自分では洗わせてくれないんだろうから、ちょうどいいわ。
洗ってもらおう。
三人の女官が当たり前のように私のガウンを脱がすと、全身に残る赤い痕を見て、同時に息を呑んだ。
互いに視線を交わしては、慌てて逸らす。
まるで“見てはいけないもの”を見てしまったかのように。
……え? そんなに蚊に刺された痕って、珍しいの?
そっか。帝国の貴族令嬢は、日光に当たるのも、蚊に刺されるのも、タブーなのね。
そんなこと、誰も教えてくれなかった。
きっと、私が知らないことが山ほどあるに違いない。
こういうとき、誰に教えを請えばいいんだろう……。
女官たちが、ぎこちなく私の腕に触れる。
「……別に、病気じゃないから感染の心配はないわよ?」
「わ、分かっております!」
やっぱり、ベランダのソファーなんかで寝るんじゃなかった。
9月といえども暑さが残る帝国には、まだ蚊がいて。
眠っている間に、結構刺されちゃったみたい。
手荒く私の腕を掴んだ女官に、思わず顔をしかめた。
「そんなに強く引っ張らないで。あちこち痛くて、早く歩けないの」
女官たちが一斉に、鬼のような形相で私を睨みつける。
……仕方ないじゃない。
昨日の馬車移動で全身が筋肉痛なんだから。
――ほんと、何なの。
誰も、私のことを知ろうとしてくれない。
無視されるより、そっちの方がずっと痛い。
お祖母様ならこんなとき、どうしただろう……。
湯浴みを済ませ、着替えも終えた。
お化粧だけは自分でやるから、と女官たちには席を外してもらった。
なのに――待てども暮らせども――いや、まだ暮らしてないけどね? 誰も来てくれない。
おかしいなぁ。
「皇太子妃様は女官が迎えに来るまでお部屋を出てはなりません」って言ってたのに。
殿下は殿下で、「すぐ戻る」なんて言ってたのに。
どこへ行ったのやら。
もしかして、忘れられてる!?
いやいや、さすがにないでしょ。――とは言い切れないのが帝国なのかも。
仕方なく、一人で食堂へ降りていくと――
殿下はすでに着席して、食事を始めていた。
「おはようございます」
「ずいぶん遅かったな。二度寝でもしてたのか?」
待つことには、慣れてるんじゃなかったの?
もしかして――”待ち人限定”だったりする?
「手当は受けたか?」
「はい」
「痛みは?」
「もうありません」
本当は、初夜の偽装がうまくいったと安堵した途端、ズキズキと痛みが襲ってきた。
けれど――そんなことを口にしたところで、殿下が助けてくれるはずもない。
言葉にするだけ、虚しい。
こんなとき、祖母だったら。
「大丈夫だよ」と言って、おまじないをかけてくれたのに。
それだけで、痛みなんて忘れられたのに。
形式だけの包帯やお薬はあるけれど――心まで癒してくれる手当は、ここにはないみたい。
席に着くと、朝昼兼用の食事がサーブされた。
ナイフを握る右手は問題ないけれど、包帯でぐるぐる巻きにされた左手では、フォークが安定しない。
ソーセージがお皿の上で逃げ回る。
カチャ、カチャ。
音を立てるたび、後ろに控える侍従たちが白い目を向けてくる。
この包帯が、目に入らないの!?
硬い帝国のソーセージはびくともしない。
まるで、融通の利かない帝国の官僚制度そのもの。
それに、焼き過ぎなのよね。
……もう、果物だけでいいや。
ため息をついた瞬間、殿下がすっと私の皿を取って、ソーセージを切り分けてくれた。
「……ありがとうございます」
「料理長に伝えておけ。妃の食事は最初から一口大にして出すようにな」
「かしこまりました」
「悪いが、執務がある。先に行く」
「……お忙しいんですね」
「あいにく、朝の支度に何時間もかけられるほど暇ではない」
「むっ」
私だって、暇だったわけじゃない。
誰も呼びに来てくれなかっただけで――いや、暇なのか?
だって、することないんだもの。
それにしても。
女官たちには「初夜の儀は済ませた」と思わせたいくせに、身体が辛いであろう新妻をこの伏魔殿に一人残して、初日から執務室に消える夫ってどうなのよ!?
100歩譲って新婚旅行はいいとしても、普通、1週間くらいは休むもんじゃないの?
そんなことをグルグル考えていたから、殿下が話しかけてきたことに気づかなかった。
「――聞いているのか」
「え? ああ、はーい」
「語尾は伸ばすな」
「はいはい」
「『はい』は一度でいい。……子どもではないのだから」
一拍置いて、低く付け加えた。
「……夕食には戻る。食事は、きちんと摂っておけ」
「はい。ハイ。はーい! ほら、殿下。公務に遅れますよ? 行ってらっしゃいませ―」
殿下は何も言わず、指先で私の額を軽くコツンとつついた。
それが彼なりの「こら」だったのかもしれない。
一度も振り返らず、静かに執務室へと去っていった。
なによ。文句があるならそう言えばいいのに。
その直後、給仕がそっと差し出したのは、銀器ではなく、淡い花柄のアンティーク陶器だった。
「……朝からケーキ?」
帝国では、朝からデザートを食するのかしら。
「昨日の披露宴でご用意する予定だったデザートでございます。殿下より、妃殿下のお好みだと伺いましたので」
それは、ミラベルのタルトだった。
この季節にしか手に入らない、黄金色のすもも。
ほんのり甘くって、口の中で弾ける――私の大好物。
しかも、すでに一口サイズに切り分けられている。
「……ふーん。気が利くじゃない」
そう呟いて、ひとつ口に運ぶと、懐かしい風味がじんわり広がった。
甘い言葉も、優しい態度もくれないんだから――せめてこのくらいは、頂いておかなくちゃ。
そう粋がってはみたけれど、心の奥までは満たされなかった。
領地の夏は、ミラベル祭りとともに静かに幕を閉じる。
タルトを焼く日は、子どもたちが厨房に立つのが習わしだった。
焼き上がる香りに誘われて、幼子たちが駆け寄ってきたものだ。
「祭りはね、見るより参加するほうが楽しいでしょう?」
そう言って笑った祖母の声が、今でも耳に残っている。
シュッ。
テーブルの蝋燭が、静かに消えた。
記憶が、ふっと途切れる。
……甘さって、すぐに消えてしまうのね。
静かな食堂に、あの頃の笑い声はなかった。
午後は、宮殿という名の伏魔殿を歩いて見て回ることにした。
後ろには、羽根飾りを揺らす女官たちの群れがゾロゾロとついてくる。
メドゥーサといい、彼女たちといい――伏魔殿というより、動物園?
見世物は彼女たちで、私は猛獣使いってとこかしら。
……ま、誰も私の言うことなんて聞かないけれど。
「皇太子妃って、体力勝負なのねぇ」
そうつぶやきながら、筋肉痛に顔を歪めて広大な宮殿をヨチヨチ歩いていたせいか――
「初夜の儀は無事に行われた」という噂が、瞬く間に宮殿中に広まった。
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