異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

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第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第12話 泣いてくれた人。笑わせてくれる人。

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 夜になり、湯浴みを済ませると――女官たちに昨夜と同じ夫婦の寝室へ案内された。

「……どうして? 今夜は私室で休みたいんだけど」
「お飾りの妻とはいえ、結婚された以上は、夫婦の寝室でお休みいただくのが“慣例”でございます」

 “お飾りの妻”。
 単語帳にこっそり書き留めておいたのに。
 きっと、殿下か、気づいた女官が捨てたんだ。

「まあ、殿下がこちらにお越しになることは、まずございませんので」

 わざわざここに寝かせるのは、独り寝の寂しさを味わわせたいから?
 あの女官たちってば、ほんとに性根が悪い。

 私は大きなベッドに飛び乗り、クッションを抱えて真ん中に座った。
「夫婦の寝室、かぁ……。ランスロットはもう、ヴィクトリア様とそういうことをしてるのかな」

 彼らの結婚式は、直前に花嫁が代わったけれど、予定どおり行われた。
 ランスロットが初恋の相手ヴィクトリアと結ばれたことを祝う気持ちはある。
 でも――やっぱり私は傷ついた。
 ランスロットが私ではなく別の人を選んだことも、王家にあっさり切り捨てられたことも。

「私が純粋な王国人じゃないから、王家には相応しくないと思われたのかなぁ」
 だとしたら、帝国で幸せになりたいところだけど。
 こっちに来たら来たで、「元敵国から来た花嫁」なんて言われている。

 結局、どちらの国でも余所者よそもの扱い。
 根無し草。
 それが、今のわたし。

 風に吹かれれば、どこへでも運ばれる。
 根を下ろす場所もない――そんな、根のない花嫁。
 咲いた証の花びらでさえ、風にさらわれて消えていく。

 ……あの頃もそうだった。
 私とランスロットの婚姻に反対する保守派の声が、一段と大きくなっていって。
 帝国の財務大臣――ロレーヌ公爵の長女が嫁いだ家の近縁も、その中にいた。
 理由は分からない。ただ、あの時から何かが動いていた気がする。

 あーぁ。
 “ここにいてもいい理由”って、どうすれば見つかるんだろう?

 もう、嫌になっちゃう!
 どうして今頃になって、涙が出てきちゃうのかな。

 私はクッションを抱えたまま、わんわん泣いた。

 ランスロットは、私の代わりに泣いてくれる人だった。
 恋じゃなかった。
 でも、家族みたいに、心の奥で繋がっている人だった。
 だから、今みたいに涙が止まらない夜には、“ランスロットがいてくれたら”って思ってしまう。

「ランスロットの、バカ――っ! どうしてこんなとき、そばにいないのよ!」

 クッションを投げつけた瞬間、ベッドが揺れた。
 ……え?

「殿下!?」
「――こんな時間に、ひとりで枕と格闘か」

 よく見たら、殿下の前髪が乱れている。
 どうやら殿下の顔にクッションを投げちゃったみたい。
 慌てて頬をこすり、涙の跡を隠した。

「……別に」
「夫婦の寝室で元婚約者の名を叫ぶのは、如何なものかと思うがな」
「殿下に言われたくない。公妾だか愛妾だか側室だかがいるくせにっ! いつまで夫のふりを演じるつもり? だいたい、どうしてここに――」
「寝るためだ。婚姻後、三日三晩の共寝は慣例だ」
「慣例、慣例って。そんなにカタチが大事?」
「伝統は……帝国の理念だ。それに――そばにいてほしいんだろう? 俺では代わりにならないだろうけど」
「殿下じゃ、足りないの。……ランスロットはね、いつも私の代わりに泣いてくれたの。でも殿下は、そういうのできないでしょ?」
「王太子のくせに泣いていたのか」
「ヘタレだもん……。あれ? ヘタレって、帝国語で何て言うの?」
「意気地なし、根性なし、臆病者――そのあたりだ。……メモはするな」
「殿下って、説教するときだけ饒舌じょうぜつなのね?」
「無言の圧力が一番苦手なのだろう? だから、2番目で我慢しておけ」
「……ぷっ。ふふふっ、あはははっ!」
「――こういうのなら、できる」
「え?」
「ヘレナの代わりに泣いてやることはできないが、笑わせることなら」

 殿下はそっと顔を近づけ、残っていた涙を指先で拭い取った。
 そのまま優しくおでこを合わせる。
 昔、祖母がしてくれたのと同じ仕草に――また涙がこぼれそうになった。

 そういえば、初めて『ヘレナ』と呼ばれた気がする。
 それに。私が苦手なもの、ちゃーんと覚えててくれたんだ。
 宮殿に向かう馬車の中での、たわいもないお喋りだったのに。
 こんなことで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 でも殿下は、初夜が明ければ本当の“家族”のもとへと帰ってしまう。
 優しくされたところで、心の居場所には、なれない。

「――そろそろ休むか」
 結局、そのまま同じベッドで寝ることになった。

「……殿下の身体って、本に出てくる英雄譚の騎士みたい」
「ん?」
「強さというより……背負ってきたものの重さを感じる」
「……守れたものより、失ったものの方が多いがな」
「え?」
「いや、忘れてくれ。――灯りを落とす」
「はーい」
「伸ばすな、と言っただろう?」
「はいハイ。おやすみなさーい」
「……まったく。わざとだな」

 殿下は私の前髪をくしゃっと乱すと、背を向けてすぐに寝息を立て始めた。
「なによ……」
 女性として意識していない態度が腹立たしくて、殿下の背中にぴったりと身体を寄せて瞳を閉じた。

 皇太子って、物語に出てくる中性的な王子様のような身体をしているもんだと思ってた。
 でも実際は、鎧を脱いでもなお鎧をまとっているみたい。
 不思議ね……なんだか懐かしい。
 遠い日の記憶に手を引かれるように、眠りへと落ちていった。

 その夜――昔の夢を見た。
 赤いマントが、陽を受けて燃えるように揺れていた。
 剣だこのある硬い手のひらが、私を支える時だけは驚くほど優しかった。
「気がついたか? 可哀そうに。ちゃんと家に帰してあげるからな。それまで頑張るんだぞ?」
「心配いらない。必ず家に戻してやるから」
「ヘレナのことは、俺が――――」
 低く静かな声が、耳の奥で響く。
 けれど、いつもここで目が覚めてしまう。

 私の泪を受け止めてくれた彼は、夢の中にいた。
 笑わせてくれると言った殿下は、すぐそばにいるのに――彼の背中に耳を当てても、心の声は聞こえない。
 仕方なく、再び目を閉じる。

「……離縁したら、あの人のもとへ行けたらいいのに」
 その願いは、夢の底に沈んでいった。
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