異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

文字の大きさ
13 / 72
第1章:漂流の始まり――宮廷という伏魔殿

第13話:新婚旅行は慰謝料で?

しおりを挟む
 翌朝は、殿下と一緒に夫婦の寝室に付属したバルコニーで朝食をとった。
 昨日みたいに、儀礼官にずかずか入って来られるのはごめんだもの。
 そう思っていたのに。
 カリカリ……カリカリ……。

「――え? ひぃっ! だ、誰!?」
 バルコニーの柱の陰に、前髪で目を隠した男が座り込んでいた。
 筆が紙の上を走るたび、カリカリという音が静かに響く。
 線の一本一本まで異様に正確で――まるで犯罪の痕跡でも記録してるみたい。
 パンくずの散らばり方や、寝癖で跳ねた髪の毛一本まで見逃さず描いている様子が目に入って、思わず背筋がぞわりとした。
 ……それに、ふわりと漂った香り。
 どこかで嗅いだことがある。なのに、思い出せない。
「彼は宮廷画家だ」
「どぉして!?」
「新婚の姿でも描きたいんだろう」
「すっぴんでパンを頬張ってるのに? 普通、皇太子妃の肖像画って、こう……ビシッとポーズを決めて、聖母様みたいに微笑んでるものじゃない?」
「披露宴で素顔をさらしてるんだ、今さらだろう?」
「……ひどいっ! 乙女心を何だと思ってるのよ」
「くくくっ。ヘレナでもそんなふうに思うのか」
 何よそれ。私には羞恥心がないとでも!?
 皇族って、寝起きの顔すら歴史資料にされるのね……。

 はっ。もしかして誰かの指図で、私の“妃度数”を測量してるとか!?
 ……非力な妃力でごめんなさいね。
 その点、殿下は楽よねぇ。眉間の皺一本で皇太子としての“威厳”が増すんだもの。
 帝国の採点基準、理不尽すぎる!

「ところで殿下、公務は大丈夫なんですか?」
「今日は休みを取った」
「へぇ、意外と余裕あるんですね」
「臣下たちが、もっと妃を気遣えと」
「どうして?」
「新婚だからな……どこか出かけるか?」
「だったら……帝都の街を、ゆっくり見て回りたいな」
「いいな。視察を兼ねて出かけるとしよう」
「やったぁ!」

 パンをもぐもぐしながら、ふと思いついて口にした。
「じゃあ、新婚旅行にも行けたんじゃない?」
 殿下の手が一瞬だけ止まった。
「だって、離縁前提なんでしょう? だったら今のうちに」
「……俺は、そんなことは言っていない」
 低い声に、思わず瞬きをした。

「へー。じゃあ、“離縁前提”って誰が決めたの? 帝国議会? それとも――陛下の“鶴の一声”的な?
 ていうか、殿下の意思は反映されないの? というか、妻への意見聴取があって然るべきでしょう? ねぇ、こういうのって、ちょっと変じゃない?」

 妙に静かになった。私がパンをモグモグする音だけが響く。
 あと、カリカリも。
「あれ? 私、何か変なこと言った?」
「……至極ごもっとも」

 低く乾いた声が、柱の陰からぽとりと落ちてきた。
 殿下の声じゃない。だとしたら――
「ひぃっ!」

 殿下はしばらく沈黙したままカップを口に運び、わざとらしく視線を窓の外へ向けた。

「……ヘレナ。今城を出れば、街で話題の焼きたてパンに間に合うぞ?」
「焼き立てパン!?」
 口いっぱいにパンを詰め込んだまま見上げると、殿下はわずかに口元を緩めていた。
 パンの話題に飛びついた自分が恥ずかしくて、慌てて紅茶で流し込む。

 部屋を出るとき、私は画家に向かって小声で話しかけた。
「……寝グセはなかったことにしてね」
 そう言って笑ったあと、ふと思いついて口にする。
「画家なんて言って――どっかの密偵じゃないでしょうねぇ? さては――パトロンは陛下ね!」
 カリカリ……と鳴っていた筆先が、不意に止まった。

「え? また沈黙? それ、帝国のお家芸?」
「……ヘレナ。急ぐぞ」
 私を急かす殿下の声が、妙に硬かった。

 目立たないよう平民の服装に着替え、スキップしながら裏門へと向かう。

「準備できたか?」
「はいっ!」
「……驚くほど、普段と変わらないな」
「むっ! どうせ私は芋っぽいわよ。田舎の領地育ちだし」
「そうじゃない。――着飾ったら、誰よりも目を引きそうだと思っただけだ」
「……え?」
 殿下ってば、基本冷たいのに、時々優しいこと、言ってくるんだもん。ズルい!
 照れてしまったのを誤魔化すように、ぷいっと顔をそむけた。

 それから目立たない馬車に乗り込んで市街地へと出かけた。
 香辛料の匂いが風に混じり、幼い頃に祖父母と訪れた記憶が蘇る。
「そういえば、殿下も懐中時計を持ってるのね。お祖父様とおんなじ!」

 何気なく言っただけなのに、殿下の指先がピタリと止まり、懐中時計をシャツの下へ仕舞い込んだ。
 ……あれ? 今の反応、なんだろう。
 まるで何かを隠すような、ぎこちない仕草だった。

 お目当てのパン屋に着くと、行列の末に「最後の一個だよ」と湯気の立つ袋を渡された。
「わぁ……! 本当に焼きたて!」
「よかったな」
「ね、殿下。半分こしよ?」
「ヘレナが全部食べればいい」
「だーめ! 幸せはね、分けると増えるのよ。理屈じゃないんだから、愛は」
「……愛、か」
 殿下が小さく呟いた声が、なぜか心に残った。
 もし、好きな人が何人もいたら――ひとりにあげられる愛って、少なくなっちゃうのかな。
 ……私には、よく分かんないや。

 勢いよくパンをちぎって差し出すと、殿下は一瞬だけ目を細めて受け取った。
「……熱いな」
「焼きたてだもん。ふーふーして食べてね」
 頬張ると、香ばしさが口いっぱいに広がり、思わず笑みがこぼれる。
「んんっ……おいしい! ねえ、護衛のみんなも食べてみない?」

 結局、みんなで一つのパンを分け合った。
 小さくなったはずなのに、胸の奥まで満たされるような温かさが残った。
 ――誰かと幸せを分け合うって、こんなに嬉しいことだったんだ。

「他に行きたいところはあるか?」
「……銀行に寄ってもいい? 口座を持ちたくて」
「そんなことをすれば、身分を明かすことになる。何のために変装したと思っている」
「あっ! そっかぁ……じゃあ、両替だけ。帝国の通貨に両替したくって」
「必要ない。金なら俺が持っている」
「私も持ってきたんですよー。ほら!」
 無邪気に袋を掲げると、殿下の眉間に深い皺が刻まれた。

「物騒だな。いったいいくら入っている」
「1か月分の慰謝料」
「慰謝料?」
「うん。王家との婚約がなくなったとき、祖母が『分割にして、毎月“反省料”を払わせるのよ』って交渉してくれたの」
 笑いながら袋を振ると、シャラリと鳴った。

「おかげで両替するたびに経済の勉強になるし、物価にも敏感になる。お祖母様って、やっぱり先見の明があったのねぇ」

 鼻歌交じりに銀行へ立ち寄って、喜々として両替を頼んだら――
 なんと、金貨30枚分になっちゃった!
 ふふっ。街歩き、楽しんじゃおう。

 ――けれど、この日のお出かけが、殿下と過ごした最初で、そして最後の外出になるなんて。
 この時の私はまだ知らなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ
恋愛
社交界で“国王の妾”と陰口を叩かれる謎の公爵夫人リュミエール。彼女は王命により、絶世の美貌を誇る英雄アラン公爵の妻となったが、その結婚は「公爵が哀れ」「妻は汚名の女」と同情と嘲笑の的だった。 けれど真実は――リュミエールは国王シオンの“妾”ではなく、異母妹。王家の血筋を巡る闇と政争から守るため、彼女は真実を口にできない。夫アランにさえ、打ち明ければ彼を巻き込んでしまうから。 一方アランもまた、王命と王宮の思惑の中で彼女を守るため、あえて距離を取り冷たく振る舞う。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

公爵令嬢は結婚式当日に死んだ

白雲八鈴
恋愛
 今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。 「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」  突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。 婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。  そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。  その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……  生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。  婚約者とその番という女性に 『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』 そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。 *タグ注意 *不快であれば閉じてください。

私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~

marumi
恋愛
「あら アルヴェイン公爵がドゥーカス令嬢をエスコートされていますわ」 「ご婚約されたと噂を聞きましたが、まさか本当だとは!」 私は五年前までこの国の皇女エリシアだった。 暗殺事件に巻き込まれ、幼なじみで初恋の相手だった従者――アルヴェイン公子と共に命からがら隣国、エルダールへ亡命した。 彼の「必ず迎えに来る」その言葉を信じて、隣国の地で彼を待ち続けた……。 それなのに……。 やっとの思いで帰国した帝国の華やかなパーティー会場で、一際目立っているのは、彼と、社交界の華と言われる令嬢だった――。 ※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。 ※イメージが伝わればと思い、表紙画像をAI生成してみました。

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

処理中です...