異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

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第2章:新たな漂流先――森の離宮

第30話:壊れた馬車の予兆

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 その日、私はセヴラン先生と一緒に、年明けの編入試験に向けた勉強の追い込みをしていた。
 午前中いっぱい机に向かい、ようやく一息つけたところで、皆を呼んで昼食をとることにする。

 今日は、宮殿からやって来た、銀縁眼鏡の事務次官――ジュストも一緒だった。  
 ジュストーー帝国語で“公正”を表わす言葉。
 カリもそうだけど、名は体を示すってほんとなのねぇ。
   
 まさに“ザ・帝国官僚”――氷みたいに冷たくて、表情を崩さない人。  
 でも最近は、ほんの一瞬だけ柔らかさを見せることがある。  

「……あれ? 眼鏡の色、変えた?」
「いえ。変えておりませんが」
「そう? なんだか、柔らかい印象になった気がして」
「……それは、光の加減かもしれません」
「そうね、ここ、宮殿と違って陽当たりがすっごく良いの! ほら、私なんて、すっかり日焼けしちゃって!」
 ここには、私が庭に出るときに無言で日傘を差し出すような女官はいない。
 健康的に日焼けした肌も、結構、気に入っている。

「そうそう、ジョンたちの故郷の料理、すごく美味しいの! 毎日が新しい発見で楽しいわ。あなたのおかげね!」
 そう言ったとき、ジュストの銀縁眼鏡の奥で、まぶたがほんのわずかに動いた。
 けれど、すぐにまたいつもの完璧な官僚的微笑に戻る。

 あれ?
 感謝を伝えたのに、どうして申し訳なさそうな顔をするんだろう……。

 離宮の食卓は、今日も賑やかだった。
 護衛も使用人も、身分に関係なく皆で一緒に食事をとるのが、ここのスタイル。
 出されるお料理は、王国風から帝国の地域料理まで、実にバリエーション豊か。
 ジョンたちが異なる田舎の出身だったおかげで、彼らの故郷の味が自然と食卓に並ぶようになった。
 しかも、毒見役がいない。
 だからお料理は、いつも温かいまま出てくる。

 そして最近は、なぜか――
「視察」と称して、宮殿からの使者が毎日のようにやって来るようになった。
 昼食の時間になると、自然と食堂に現れて、さりげなく席に加わる。
 その目当てが何かなんて、言わなくても分かる。
 ……絶対、料理よね。
 でも、賑やかな食卓は好きだ。
 誰かが笑ってくれるなら、それだけでこの離宮が存在する意味がある気がする。
 そうですよね、お祖母様?

 昼食が終わり、食後の紅茶をいただいていた時。
 事務次官ジュストが、銀縁眼鏡を押し上げながら、少し言いづらそうに口を開いた。
「――皇太子妃様。実は、護衛が今月末で引き上げられることになりました。年明けからは、身の安全を保障できません」
 その言葉のあと、彼は一瞬だけ瞳を伏せた。
 まるで、言いたくないことを言ってしまったような、そんな顔だった。

「そんな……ジャンたちとお別れなの?」
 胸がぎゅっと締め付けられる。帝国で初めてできた仲間だったのに。
「……心細く、なるわね」
 ……結局、名ばかりの妃につける護衛なんて無駄金だって、そう思われたんだ。
 あーぁ。どうして、私のそばにいてくれる人は、いつもいなくなってしまうんだろう。

「申し訳ございません」
 ジュストの声はどこか自分を責めるように震えていた。

「議会の決定なら、仕方ないわよ。でも、そうねぇ……。年明けからは、個人的に護衛を雇うことにするわ」
 彼の眉が、ほんのわずかに動いた。
 驚いたような、安心したような、複雑な表情。
「それは……ご賢明な判断かと」
 そう言った後のジュストは、口元を一文字に固く結んだ。
 彼の視線が、食堂の隅に立つレオポルドに一瞬向けられ、再びテーブルへと落とされた。

 ――そっか。レオポルドも、いなくなるのね。
 でも、心細さに浸っている場合じゃない。
 ジャンたちがいなくなれば、離宮に入る荷物も人も、確かめられなくなるわけで。
 毒も、間者も――例のモノを利用しようとする盗人も、容易に紛れ込めるようになる。
 ここに暮らす皆の命が、危うくなる。
 ……どうすればいいのかしら。

 宮殿からの常連客――料理目当ての視察団――が、満足げな顔で馬車に乗り込んでいく。
 私は玄関先まで出て、彼らを見送った。
 祖母がいつもそうしていたように、私も、おもてなしの礼節は尽くしたい。
 それが、この離宮の主としての――かりそめであっても帝国の妃の――私の、流儀。

「本日はありがとうございました。妃様のご厚意に、感謝いたします」
「ふふっ。次は何を食べてみたい?」
「王国風の、煮込み料理をぜひ!」
 そんなやりとりを交わしている後ろで、ジョンたちが手際よく彼らの荷物を運び入れ、レオポルドが馬車の扉を閉める。何も言わずとも、私が祖母から受け継いだもてなしの心を、彼らがちゃんと支えてくれる。

 今なら感じることができる。
 私はちゃんと、受け入れられていると。
 この温もりがいつまでも続いてくれたらと願っていたけれど――。
 警護の問題、考えなくちゃね。

 ――玄関に飾られた絵画の前で足を止める。
 壊れた馬車。
 カリはどうしてそんな不吉なものを描いたのだろう。
 殿下が馬車を点検していた姿が、不意に思い出された。
 婚姻式の後、宮廷に向かう時も。
 お忍びで街へ繰り出したときも。
 機械いじりが趣味なのだと思っていたけれど――今では、別の意味を帯びて見える。

 賑やかなこの離宮だけれど、知らぬ間に公爵の影が忍び寄っている。そんな気がしてならなかった。
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