異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

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第2章:新たな漂流先――森の離宮

第33話:あの時の将軍

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 辺境伯領までは、離宮から馬車で1日ほどの旅だった。
 緩やかな丘陵地帯を越え、澄んだ空気の中を進んでいくと、やがて立派な石造りの屋敷が姿を現した。

「ようこそおいでくださいました、皇太子妃殿下、セヴラン先生」
「エレナと申します。この度はご招待いただきまして、ありがとうございます」
 丁寧に挨拶をして顔を上げると、そこに立っていたのは――
 宮殿の中庭で私の料理を「美味しい」と言って食べてくれた、あの紳士だった。

「貴方様は――」
「いつぞやはご挨拶もせず、失礼いたしました」
「オーギュスト様、息災のようですな」
「セヴラン先生もお元気そうで何よりです」

 あの時は気づかなかったけれど、今こうして見ると、辺境伯オーギュスト様は30代半ばに見える落ち着いた雰囲気の中に、思わず見惚れてしまうほどの色気を帯びていた。
 地位に裏打ちされた余裕とは違う。
 理由は分からないけれど、張り詰めた静けさを纏っている。
 穏やかな瞳の奥に、刃の影が潜んでいるように見えた。

 大人の男性って、こういう人のことを言うのね……。
 それに、ちゃんと敬語で話せるんだ。

「なにか?」
「っ、いえっ」
「妃殿下には、2階の客間をご用意しております。侍女がご案内いたしますので、落ち着かれたらお茶にいたしましょう」
「あのっ! 私のことは、どうか“エレナ”とお呼びください」
「でしたら、私のことは“オーギュスト”と」
「分かりました。オーギュスト様」
「“様”は抜きで」
「そういうわけにはまいりませんわ、オーギュスト様。礼節は、帝国の理念でしょう?」
「はははっ。理念を出されるとは、まいりましたね」

 宮殿とはまるで違う、家庭的な雰囲気のこの屋敷を、私は一目で気に入った。
 着替えを手伝ってくれる侍女も、落ち着いた年齢の女性で、優しい瞳をしている。
 アルフォンス殿下のお手付きになろうと野心を燃やしていた、あの若い女官たちとはまるで違う。

「オーギュスト様の奥様にも、ご挨拶できるかしら?」
「奥様は、5年前の流行病でお亡くなりに」
「それは……ごめんなさい。何も、知らずに」
「いいえ。たしかに当時は皆、悲しみに沈んでおりましたが、ずっと落ち込んでいるわけにもいきませんから」
「そう……このお洋服。私と同じくらいのご令嬢がいらっしゃるのね?」
「カミーユ様です。今は、西国に留学中でして。妃殿下のおかげで、久しぶりに屋敷が明るくなった気がいたします」
「カミーユ様は、お帰りにならないの?」
「ご学友の皆さんと旅行に出かけるのだそうです」
「まぁ。楽しそうね」
「家族よりも、友人と過ごす方が楽しい年頃なのかもしれません」
「……そう」
 幼少期を家族と過ごしたくても過ごせなかった私には、その感覚が少しだけ遠く感じられた。

「……ふぁぁ」
「妃殿下? 長旅でお疲れなのではありませんか?」
「ううん、大丈夫――でも夕食まで、ちょっと休ませてもらうわね」

 結局、その日は夕食にも顔を出さないまま、朝まで眠ってしまった。
 こんなにも深く眠れたのは、いつぶりだろう。
 離宮では、眠りにつくたびに物音に耳を澄ましていた。
 誰かが忍び込むのではないか――そんな不安が常に付きまとっていた。
 殿下からの文も届かず、護衛も外され、食料は減っていく……心細さが、眠りを浅くする日々だった。
 けれど、この屋敷では違った。
 侍女の穏やかな瞳と、家庭的な空気に包まれて、警戒心がふわっと解けた。
 長旅の疲れもあったのだろうけど――沈黙ばかりの殿下に置き去りにされた心が、ようやく休む場所を見つけた、そんな気がした。
 ”守られている”という安心感に包まれて、気づけば眠りに落ちていた。

 翌朝。
 冬の小鳥たちのさえずりで目を覚まし、窓辺に立つと――。
 中庭で、上半身だけ裸になり剣を振るオーギュスト様の姿が見えた。
 冷たい朝の空気の中、彼の肌からは、うっすらと湯気が立ちのぼっていた。
 引き締まった体躯に、精悍な横顔。
 そして、左腕に刻まれた深い傷跡――それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 ヒュッ――
 刃先が額を掠めた、あの感覚が蘇る。
 冷たい鉄の衝撃。
 耳に残る怒号。
 火薬の焦げた匂いと、汗に混じる血の生臭さ。
 意識が遠のく中――赤いマントを翻して雪崩れ込んできた帝国軍。
「Général――!」
 低く、よく通る声が響いた。
 帝国語で“将軍”を意味するその言葉。

 倒れた私を支えてくれた人。
 その人を、さらに庇って斬られた誰か。
 赤いマントが視界を横切り、血が飛び散った。
 あの左腕――あの、傷痕。
「オーギュスト様……まさか、あの時の……将軍、だった?」
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