異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

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第2章:新たな漂流先――森の離宮

第34話:暖炉の火は誰のため

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 アルフォンス殿下からは、森の離宮に移ってからというもの、文の一つも届いていない。
 年末で護衛を引き上げたくらいだもの。
 私のことなんて、もう気にかけていないのだろう。
 
 離宮に送られたのは、優しさだったのかもしれない。
 でも、警護を外された。
 議会の決定だということくらい、わかっている。
 けれど――そのことを殿下の口から、一言でも聞きたかった。
 それすらなかったのが、寂しかった。

 セヴラン先生からは、「殿下は筆まめな方だ」と聞いていた。
 だから、彼の誕生日には少し奮発して万年筆を贈ったのに――お礼の手紙すら届かなかった。
 ……やっぱり、私のことなんてどうでもいいんだ。
 そう思った瞬間、心の距離が、すーっと開いた気がした。

 何が「叔父のように思ってくれたらいい」よ。
 まったくの無関心じゃない!
 ……たしかに、食事の献立には細かい指示があったし、あのネックレスも、私に託してくれた。
 でも、それが何だというの?
 私は帝国人みたいに空気なんて読めないし、ちゃんと言葉にして伝えてくれないと分からない。

 だから、私も年末年始を辺境伯領で過ごすとは、一言も伝えていない。
 必要なら、誰かが伝えるだろうから。
「どうせあと1年ちょっとで他人に戻るんだもの。お互い、無干渉なのがいいのよ、きっと」
 ……なのに。
 こんな等身大の弱さを、心の中でぶつけられる相手は、殿下しかいない。
 そのことに今さら気づかされて、余計に嫌になった。


 翌朝。
 オーギュスト様が自ら手を差し伸べて、私を馬に乗せてくれた。
 乗馬は得意だけど、わざと深窓の令嬢のふりをして身を委ねる。

 馬上で揺れるたび、背中に逞しい胸板が触れ、彼の体温がじんわり伝わってくる。
 風に乗ってふわりと鼻孔をくすぐる、彼の纏うエキゾチックな香り。
 腰を支えてくれる腕に、強さよりも穏やかさを感じる。
 揺るぎない安心感が、私を包み込んでいた。
 その温もりに甘えてしまう自分に気が付いて、理由もなく心が揺れた。

 ……こんな感覚、初めて。
 誰かに甘えるなんて――家族以外ではなかったのに。
 これが……恋、なのかしら。

「オーギュスト様、マロンパイはお好きですか?」
「甘いものはあまり食べないんだが、実は大好物だ」
「じゃあ、私に作らせてください!」
「作れるのかい?」
「はい。こう見えて、お菓子作りも得意なんですよ?」
「そうか。それは楽しみだ」
「……オーギュスト様は、再婚を考えたりすることはありますか?」
「ん?」
「いえ、もしそういうことを考えることがあったら――」
「そうだなぁ。家に帰ったら、奥さんが自分のために甘いお菓子を焼いてくれている……そんな暮らしに憧れるかな」
「本当ですか?」
「あぁ」
「じゃあ、私、立候補しちゃおうかなぁ?」
「ははは。冗談でもうれしいよ」
「本気ですよ?」
「はいはい。人妻に立候補されてもなぁ」
「人妻!?」
 しまった。
 結婚している実感がなさすぎて、人妻だということを忘れていた。
 でも――オーギュスト様の腕に支えられていると、それすら障害にならない気がしてしまう。
 折を見て殿下へ、「離縁したらオーギュスト様のもとへ嫁ぎたい」って相談してみようかな。
 なーんて。


 その日もよく晴れた。
 領地の視察に出かけるオーギュスト様を見送り、侍女と森へ入った。
 落ち葉をかき分けると、艶やかな栗が顔を覗かせる。
「どうして分かったんですか?」と驚く侍女に、森で育てば特別な嗅覚が育つのだと笑って返した。

 屋敷へ戻り、陽当たりの良い台所の窓辺に並んで殻を割る。
 指先に渋皮の苦みが残り、爪に茶色い影が染みつくのを、みんなで顔を見合わせながら笑った。
 使い込まれた鍋でむいた栗を煮込むと、ぐつぐつと音を立てながらほろりと身が崩れる。
 濃い森の香りが、甘さを帯びたものへと変わっていく。

 昨夜こねておいた生地に流し込み、オーブンへ。
 鉄の扉が重く閉まる音が響き、やがて屋敷中に香ばしい栗の匂いが満ちていく。
 焼き上がるまでの間、ティータイムの準備をしよう――そう思った矢先、屋敷の中がにわかに慌ただしくなった。

「どうしたのかしら?」
「旦那様がお帰りになったのでしょうか」
「もう!? いっけない! お出迎えしなくちゃ」
「オーギュスト様、お帰りなさいませ!」
 その声が、少しだけ弾んでしまったのは――誰かの帰りを待つのが、久しぶりだったからかもしれない。

 応接間へ駆け込むと、暖炉の火が柔らかく揺れていた。
 この屋敷に来てから、初めて火が入った暖炉。
 私には必要ない。王国育ちの私にとって、これくらいの寒さは日常だったから。
 でも、今日は違った。
 オーギュスト様が、家令に火を熾すよう指示していたみたいだ。
 ――大事なお客様が来るから、と。

 薪の香りが漂う一角で、オーギュスト様が客人と談笑している。

「やぁ、エレナ。ただいま。今戻ったよ」
 駆け寄ろうとして、思わず足が止まった。
 そこにいたのは――

「……殿下。お久しぶりにございます」
「息災か?」
「おかげさまで」

 声はいつも通りのつもりだったけれど、胸中は違う。
 まさか――会いに来てくれた?
 文の一つも寄越さなかった、殿下が?
 私のことなんて、もう気にしていないと思っていたのに。
 ほんの一瞬、胸がふわりと温かくなる。
 けれど、次の瞬間。
 オーギュスト様の対面に座っている人影が目に入った。

 クリステル様に、シャルル様。
 ……そっか。
 殿下はここに、“家族”と来たんだ。
 私に会いに来たわけじゃない。
 期待した自分が、馬鹿みたいだった。

 殿下が立ち上がり、頬と頬を合わせる帝国風の挨拶をしようとするのに気づいて、すっと身体を引いた。
 その瞬間、殿下の瞳がわずかに揺れる。
 カタチだけの抱擁なんて要らない。
 私が欲しかったのは、想いだった。

 元気でやってるか
 笑って過ごしているか
 ちゃんと食べてるか――そういうものだったのに。
 ……何一つ、私の元に届かなかった。

 暖炉の火が、パチリと音を立てた。
 さっきまで温かかったのに。
 その音が、胸の奥に冷たい現実を突きつける。
 オーギュスト様は、私の味方だと思っていた。
 でも、あの火は――私のためじゃなくて、クリステル様のためにくべられたものだった。

 ――男の人って、弱い女性を守りたい生き物なのかもしれない。
 クリステル様みたいに、おしとやかで、静かで、儚げで。
 そういう人は、自然と守られる。

 でも、私は違う。
 泥だらけで、腕まくりをして、笑っている。
 そんな女は、誰にも守られない。

 気にしてないつもりだった。
 強く見えるのは、私の誇りでもあったから。
 でも――ほんとうは、誰かに守られたかったのかもしれない。
 そんな望みを抱いてしまう自分が、少しだけ怖かった。

 だからこそ、今よりもっと強くあらなくちゃ。
 そうじゃないと、自分の足で立っていられなくなる。
 強さにすがるしかない、その孤独が、今の私を支えている。
 そのことが、少しだけ、悲しかった。

「……おかげさまで」
 他に言葉が見当たらなくて。
 声の震えを悟られないように、それだけを繰り返した。
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