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第2章:新たな漂流先――森の離宮
第36話:呼び名の距離
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焼きたてのパイを手に戻ると、居間の空気がどこか和らいでいた。
オーギュスト様と殿下が、何やら懐かしそうに笑い合っている。
「うっすらと面影が残ってるな」とかなんとか言って。
私の姿を見るなり2人とも口を閉じたけれど――シャルル様のことかしら?
殿下にそっくりだものね。
それにしても、あの2人。
皇族の叔父と甥にしては、ずいぶん距離が近い気がするけれど……ま、いっか。
「はーい。マロンパイが焼き上がりましたよ~」
「お菓子作りも得意だというのは本当だったんだね?」
「オーギュスト様、冗談だと思っていたんですか? 酷い!」
「はははっ。すまない」
焼きたてのパイを切り分けて、お皿に盛りつける。
甘い香りが部屋に広がり、途端に空気が柔らかくなった。
一番初めに、シャルル様へ差し出した。
けれど、シャルル様はお皿を前に、ためらうようにクリステル様の顔を見た。
――あ、そうだった。
以前、サンドイッチを渡したときも、警戒されたんだった。
お皿を下げようとしたその瞬間――
「ヘレナの料理なら、問題ない」
殿下が低く言い、私の手から皿を取った。
そして、ためらいもなく口に含む。
「……栗の甘みが濃い。ヘレナの手料理は、料理長も一目置くほどだ。美味いぞ」
殿下はお皿をシャルル様へ渡しながら、柔らかく瞳を細めた。
「森の香りがするだろう?」
「……ほんとだ。なんだか、外で食べてるみたいです」
「ヘレナの手ならではの……自然の味だ」
シャルル様は目を輝かせてうなずいた。
「エレナ様、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
「よかったわね、シャルル。――ありがとう、アルフォンス」
……そっか。クリステル様は殿下のことを”アルフォンス”って呼ぶんだ。
私は、殿下のことを『殿下』以外で呼んだことなんてない。
いや。一度だけ「あなた」って呼んだことがあったっけ。
離宮へ行く前、泣きながら叫んだとき。
あれは、黒歴史ってやつね。
私が殿下を愛称で呼ぶ日なんて、きっと来ないんだろうなぁ……。
ところで、”アルフォンス”の愛称って何になるんだろう?
「アル? フォンス? それとも、ルフォン? ……ま、どーでもいいけど」
「どーでもいいところ悪いが、ルフォンはないだろう」
「えっ!? 殿下ってもしかして……心が、読めるの?」
「そんなわけあるか。さっきから、心の声が口に出てるぞ」
「うっそぉ!? いつから?」
離宮で暮らすようになってからというもの、ますます独り言が増えた気がする。
カツン、とフォークを置く音が響いた。
アルフォンス殿下がふと口を開く。
「そういえば、カミーユは戻ってこないのですか?」
「西国の学友たちの別荘で過ごすらしい」
「……良いのですか? 好き勝手にさせて」
「思春期の女の子だからね。父親と過ごすより、友達と一緒の方が楽しいんだろう」
「ですが――」
「嫁ぐまでは自由にさせてあげたいんだ。それに、馬鹿なことはしない子だと信じている」
辺境伯の一人娘にして、皇帝陛下の姪。
恋愛結婚など望めない立場だろう。
それでも、父親として娘を信じ、一時の自由を与えている。
オーギュスト様って、父親としても素敵……。
……もしかして。
陛下も、そうだったのかな。
正妃を娶るまでは、殿下に自由を与えようと公妾を――。
そこまで考えて、対面に座るクリステル様とシャルル様へ視線を移すと、
シャルル様がじっと私を見つめていた。
なんだろう?
不思議に思って首を傾げると、シャルル様がおずおずと口を開いた。
「……あの、エレナ様、ここ……どうなされたのですか?」
シャルル様が、自分の頬を指さす。
――しまった。栗拾いをしたときの汚れ、まだ取ってなかった!
「ははっ。仕方ないな」
オーギュスト様が、さりげなくハンカチで私の頬を拭ってくれた。
思わず赤面してしまい、それを隠すようにシャルル様と向き合う。
だって、こんなふうに触れられるの、初めてだもん!
もぉう、男慣れしてないのがバレちゃう……!
「こほん。森をお散歩していたときに付いてしまって。そうそう、先日はオーギュスト様に馬に乗せてもらったんですよ?」
「ヘレナ。叔父上と二人乗りしたのか?」
「そうですけど」
「乗馬は得意だろう? なにせ、花嫁衣裳で――」
ちょ、ちょっと! それ、今ここで言う!?
「そぉ――だっ! シャルル様、森にはリスやウサギもたくさんいましたよ?」
まったく、殿下ってば何を言ってくれるのよ。
オーギュスト様の前では、お淑やかでいたいのに。
人の恋路を邪魔するの、やめてほしい。はじめが肝心なんだから!
「本当ですか? いいなぁ。僕も行きたいです」
「じゃあ、今度は一緒に出かけましょうか?」
「いいのですか?」
「もちろん!」
そっか。
普段は籠の中の鳥だものね。自由もなく、常に誰かの視線に晒されている。
5歳の子でも、そういうのには敏感なんだろうな。
ちらりとクリステル様を見ると、困ったように微笑んでいた。
『一緒に出かけましょう』とは言ったけれど、お許しは出そうにない。
害を加える真似なんて、絶対にしないけれど。
信頼を得るには、共に過ごした時間が足りない。
「……そろそろ行くか」
アルフォンス殿下の声に、クリステル様が静かにうなずき、シャルル様の口元をそっと拭った。
その仕草が、あまりにも自然で、あまりにも優しくて――胸の奥が、きゅっと痛んだ。
クリステル様は、こんな天使のような宝物を、殿下から授かったんだ。
……羨ましいな。
透き通るようなシルバーグレイの髪も。
白磁のような肌も。
空色の瞳も。
包み込むような柔らかさも。
私は、どれも持ち合わせていない。
――もし、私に場を温かくする力があるというのなら。
それを必要としてくれる誰かに、受け取ってほしい。
いくらでも、喜んで差し出すのに……。
オーギュスト様と殿下が、何やら懐かしそうに笑い合っている。
「うっすらと面影が残ってるな」とかなんとか言って。
私の姿を見るなり2人とも口を閉じたけれど――シャルル様のことかしら?
殿下にそっくりだものね。
それにしても、あの2人。
皇族の叔父と甥にしては、ずいぶん距離が近い気がするけれど……ま、いっか。
「はーい。マロンパイが焼き上がりましたよ~」
「お菓子作りも得意だというのは本当だったんだね?」
「オーギュスト様、冗談だと思っていたんですか? 酷い!」
「はははっ。すまない」
焼きたてのパイを切り分けて、お皿に盛りつける。
甘い香りが部屋に広がり、途端に空気が柔らかくなった。
一番初めに、シャルル様へ差し出した。
けれど、シャルル様はお皿を前に、ためらうようにクリステル様の顔を見た。
――あ、そうだった。
以前、サンドイッチを渡したときも、警戒されたんだった。
お皿を下げようとしたその瞬間――
「ヘレナの料理なら、問題ない」
殿下が低く言い、私の手から皿を取った。
そして、ためらいもなく口に含む。
「……栗の甘みが濃い。ヘレナの手料理は、料理長も一目置くほどだ。美味いぞ」
殿下はお皿をシャルル様へ渡しながら、柔らかく瞳を細めた。
「森の香りがするだろう?」
「……ほんとだ。なんだか、外で食べてるみたいです」
「ヘレナの手ならではの……自然の味だ」
シャルル様は目を輝かせてうなずいた。
「エレナ様、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
「よかったわね、シャルル。――ありがとう、アルフォンス」
……そっか。クリステル様は殿下のことを”アルフォンス”って呼ぶんだ。
私は、殿下のことを『殿下』以外で呼んだことなんてない。
いや。一度だけ「あなた」って呼んだことがあったっけ。
離宮へ行く前、泣きながら叫んだとき。
あれは、黒歴史ってやつね。
私が殿下を愛称で呼ぶ日なんて、きっと来ないんだろうなぁ……。
ところで、”アルフォンス”の愛称って何になるんだろう?
「アル? フォンス? それとも、ルフォン? ……ま、どーでもいいけど」
「どーでもいいところ悪いが、ルフォンはないだろう」
「えっ!? 殿下ってもしかして……心が、読めるの?」
「そんなわけあるか。さっきから、心の声が口に出てるぞ」
「うっそぉ!? いつから?」
離宮で暮らすようになってからというもの、ますます独り言が増えた気がする。
カツン、とフォークを置く音が響いた。
アルフォンス殿下がふと口を開く。
「そういえば、カミーユは戻ってこないのですか?」
「西国の学友たちの別荘で過ごすらしい」
「……良いのですか? 好き勝手にさせて」
「思春期の女の子だからね。父親と過ごすより、友達と一緒の方が楽しいんだろう」
「ですが――」
「嫁ぐまでは自由にさせてあげたいんだ。それに、馬鹿なことはしない子だと信じている」
辺境伯の一人娘にして、皇帝陛下の姪。
恋愛結婚など望めない立場だろう。
それでも、父親として娘を信じ、一時の自由を与えている。
オーギュスト様って、父親としても素敵……。
……もしかして。
陛下も、そうだったのかな。
正妃を娶るまでは、殿下に自由を与えようと公妾を――。
そこまで考えて、対面に座るクリステル様とシャルル様へ視線を移すと、
シャルル様がじっと私を見つめていた。
なんだろう?
不思議に思って首を傾げると、シャルル様がおずおずと口を開いた。
「……あの、エレナ様、ここ……どうなされたのですか?」
シャルル様が、自分の頬を指さす。
――しまった。栗拾いをしたときの汚れ、まだ取ってなかった!
「ははっ。仕方ないな」
オーギュスト様が、さりげなくハンカチで私の頬を拭ってくれた。
思わず赤面してしまい、それを隠すようにシャルル様と向き合う。
だって、こんなふうに触れられるの、初めてだもん!
もぉう、男慣れしてないのがバレちゃう……!
「こほん。森をお散歩していたときに付いてしまって。そうそう、先日はオーギュスト様に馬に乗せてもらったんですよ?」
「ヘレナ。叔父上と二人乗りしたのか?」
「そうですけど」
「乗馬は得意だろう? なにせ、花嫁衣裳で――」
ちょ、ちょっと! それ、今ここで言う!?
「そぉ――だっ! シャルル様、森にはリスやウサギもたくさんいましたよ?」
まったく、殿下ってば何を言ってくれるのよ。
オーギュスト様の前では、お淑やかでいたいのに。
人の恋路を邪魔するの、やめてほしい。はじめが肝心なんだから!
「本当ですか? いいなぁ。僕も行きたいです」
「じゃあ、今度は一緒に出かけましょうか?」
「いいのですか?」
「もちろん!」
そっか。
普段は籠の中の鳥だものね。自由もなく、常に誰かの視線に晒されている。
5歳の子でも、そういうのには敏感なんだろうな。
ちらりとクリステル様を見ると、困ったように微笑んでいた。
『一緒に出かけましょう』とは言ったけれど、お許しは出そうにない。
害を加える真似なんて、絶対にしないけれど。
信頼を得るには、共に過ごした時間が足りない。
「……そろそろ行くか」
アルフォンス殿下の声に、クリステル様が静かにうなずき、シャルル様の口元をそっと拭った。
その仕草が、あまりにも自然で、あまりにも優しくて――胸の奥が、きゅっと痛んだ。
クリステル様は、こんな天使のような宝物を、殿下から授かったんだ。
……羨ましいな。
透き通るようなシルバーグレイの髪も。
白磁のような肌も。
空色の瞳も。
包み込むような柔らかさも。
私は、どれも持ち合わせていない。
――もし、私に場を温かくする力があるというのなら。
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