異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵

文字の大きさ
36 / 72
第2章:新たな漂流先――森の離宮

第36話:呼び名の距離

しおりを挟む
 焼きたてのパイを手に戻ると、居間の空気がどこか和らいでいた。
 オーギュスト様と殿下が、何やら懐かしそうに笑い合っている。
「うっすらと面影が残ってるな」とかなんとか言って。
 私の姿を見るなり2人とも口を閉じたけれど――シャルル様のことかしら?
 殿下にそっくりだものね。
 それにしても、あの2人。
 皇族の叔父と甥にしては、ずいぶん距離が近い気がするけれど……ま、いっか。

「はーい。マロンパイが焼き上がりましたよ~」
「お菓子作りも得意だというのは本当だったんだね?」
「オーギュスト様、冗談だと思っていたんですか? 酷い!」
「はははっ。すまない」
 焼きたてのパイを切り分けて、お皿に盛りつける。
 甘い香りが部屋に広がり、途端に空気が柔らかくなった。
 一番初めに、シャルル様へ差し出した。
 けれど、シャルル様はお皿を前に、ためらうようにクリステル様の顔を見た。
 
 ――あ、そうだった。
 以前、サンドイッチを渡したときも、警戒されたんだった。
 お皿を下げようとしたその瞬間――

「ヘレナの料理なら、問題ない」
 殿下が低く言い、私の手から皿を取った。
 そして、ためらいもなく口に含む。
「……栗の甘みが濃い。ヘレナの手料理は、料理長も一目置くほどだ。美味いぞ」
 殿下はお皿をシャルル様へ渡しながら、柔らかく瞳を細めた。
「森の香りがするだろう?」
「……ほんとだ。なんだか、外で食べてるみたいです」
「ヘレナの手ならではの……自然の味だ」
 シャルル様は目を輝かせてうなずいた。
「エレナ様、ありがとうございます!」
「どういたしまして」

「よかったわね、シャルル。――ありがとう、アルフォンス」

 ……そっか。クリステル様は殿下のことを”アルフォンス”って呼ぶんだ。
 私は、殿下のことを『殿下』以外で呼んだことなんてない。
 いや。一度だけ「あなた」って呼んだことがあったっけ。
 離宮へ行く前、泣きながら叫んだとき。
 あれは、黒歴史ってやつね。
 私が殿下を愛称で呼ぶ日なんて、きっと来ないんだろうなぁ……。

 ところで、”アルフォンス”の愛称って何になるんだろう?
「アル? フォンス? それとも、ルフォン? ……ま、どーでもいいけど」
「どーでもいいところ悪いが、ルフォンはないだろう」
「えっ!? 殿下ってもしかして……心が、読めるの?」
「そんなわけあるか。さっきから、心の声が口に出てるぞ」
「うっそぉ!? いつから?」
 
 離宮で暮らすようになってからというもの、ますます独り言が増えた気がする。

 カツン、とフォークを置く音が響いた。
 アルフォンス殿下がふと口を開く。
「そういえば、カミーユは戻ってこないのですか?」
「西国の学友たちの別荘で過ごすらしい」
「……良いのですか? 好き勝手にさせて」
「思春期の女の子だからね。父親と過ごすより、友達と一緒の方が楽しいんだろう」
「ですが――」
「嫁ぐまでは自由にさせてあげたいんだ。それに、馬鹿なことはしない子だと信じている」

 辺境伯の一人娘にして、皇帝陛下の姪。
 恋愛結婚など望めない立場だろう。
 それでも、父親として娘を信じ、一時の自由を与えている。
 オーギュスト様って、父親としても素敵……。
 
 ……もしかして。
 陛下も、そうだったのかな。
 正妃わたしを娶るまでは、殿下に自由を与えようと公妾を――。
 そこまで考えて、対面に座るクリステル様とシャルル様へ視線を移すと、
 シャルル様がじっと私を見つめていた。
 
 なんだろう?
 不思議に思って首を傾げると、シャルル様がおずおずと口を開いた。
「……あの、エレナ様、ここ……どうなされたのですか?」
 シャルル様が、自分の頬を指さす。
 ――しまった。栗拾いをしたときの汚れ、まだ取ってなかった!

「ははっ。仕方ないな」
 オーギュスト様が、さりげなくハンカチで私の頬を拭ってくれた。
 思わず赤面してしまい、それを隠すようにシャルル様と向き合う。
 だって、こんなふうに触れられるの、初めてだもん!
 もぉう、男慣れしてないのがバレちゃう……!

「こほん。森をお散歩していたときに付いてしまって。そうそう、先日はオーギュスト様に馬に乗せてもらったんですよ?」
「ヘレナ。叔父上と二人乗りしたのか?」
「そうですけど」
「乗馬は得意だろう? なにせ、花嫁衣裳で――」

 ちょ、ちょっと! それ、今ここで言う!?

「そぉ――だっ! シャルル様、森にはリスやウサギもたくさんいましたよ?」
 
 まったく、殿下ってば何を言ってくれるのよ。
 オーギュスト様の前では、お淑やかでいたいのに。
 人の恋路を邪魔するの、やめてほしい。はじめが肝心なんだから!

「本当ですか? いいなぁ。僕も行きたいです」
「じゃあ、今度は一緒に出かけましょうか?」
「いいのですか?」
「もちろん!」
 
 そっか。
 普段は籠の中の鳥だものね。自由もなく、常に誰かの視線に晒されている。
 5歳の子でも、そういうのには敏感なんだろうな。
 ちらりとクリステル様を見ると、困ったように微笑んでいた。

『一緒に出かけましょう』とは言ったけれど、お許しは出そうにない。
 害を加える真似なんて、絶対にしないけれど。
 信頼を得るには、共に過ごした時間が足りない。


「……そろそろ行くか」
 アルフォンス殿下の声に、クリステル様が静かにうなずき、シャルル様の口元をそっと拭った。
 その仕草が、あまりにも自然で、あまりにも優しくて――胸の奥が、きゅっと痛んだ。

 クリステル様は、こんな天使のような宝物を、殿下から授かったんだ。
 ……羨ましいな。
 透き通るようなシルバーグレイの髪も。
 白磁のような肌も。
 空色の瞳も。
 包み込むような柔らかさも。
 私は、どれも持ち合わせていない。
 
 ――もし、私に場を温かくする力があるというのなら。
 それを必要としてくれる誰かに、受け取ってほしい。
 いくらでも、喜んで差し出すのに……。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ
恋愛
社交界で“国王の妾”と陰口を叩かれる謎の公爵夫人リュミエール。彼女は王命により、絶世の美貌を誇る英雄アラン公爵の妻となったが、その結婚は「公爵が哀れ」「妻は汚名の女」と同情と嘲笑の的だった。 けれど真実は――リュミエールは国王シオンの“妾”ではなく、異母妹。王家の血筋を巡る闇と政争から守るため、彼女は真実を口にできない。夫アランにさえ、打ち明ければ彼を巻き込んでしまうから。 一方アランもまた、王命と王宮の思惑の中で彼女を守るため、あえて距離を取り冷たく振る舞う。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

公爵令嬢は結婚式当日に死んだ

白雲八鈴
恋愛
 今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。 「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」  突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。 婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。  そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。  その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……  生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。  婚約者とその番という女性に 『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』 そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。 *タグ注意 *不快であれば閉じてください。

私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~

marumi
恋愛
「あら アルヴェイン公爵がドゥーカス令嬢をエスコートされていますわ」 「ご婚約されたと噂を聞きましたが、まさか本当だとは!」 私は五年前までこの国の皇女エリシアだった。 暗殺事件に巻き込まれ、幼なじみで初恋の相手だった従者――アルヴェイン公子と共に命からがら隣国、エルダールへ亡命した。 彼の「必ず迎えに来る」その言葉を信じて、隣国の地で彼を待ち続けた……。 それなのに……。 やっとの思いで帰国した帝国の華やかなパーティー会場で、一際目立っているのは、彼と、社交界の華と言われる令嬢だった――。 ※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。 ※イメージが伝わればと思い、表紙画像をAI生成してみました。

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

処理中です...