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第3章:漂流の寄港地ー学園編
第48話:正妻の色
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台所に併設されている小さなテーブルで、向かい合って食事する。
殿下はフォークを取りひと口運ぶと、噛みしめるように呟いた。
「……美味いな」
「野菜だけだから、味気ない?」
思わず探るように問いかけると、殿下は湯気越しに目を合わせてきた。
その瞳に、冗談めかした様子はない。
「いや。個人的には、このくらいシンプルな味付けの方が好ましい」
「ほんとう?」
お世辞じゃないの? とまだ胸の奥で疑ってしまう。
「嘘などつかない。……ありがとう」
その声音があまりに柔らかくて、思わず視線を逸らしてしまった。
なによ、今日はやけに素直じゃないの。
「――サンマリア地域にも、皇族専用の保養地があるんだ」
「サンマリア……南の海に面しているところですよね?」
「ああ。魚介の水揚げが豊富で、パスタの種類も驚くほど多い」
「新鮮な魚介のパスタ……想像しただけでよだれが出ちゃいそう!」
「くくっ。森も悪くないが、海の恵みも格別だ。今度、連れて行ってやる」
「え……」
「ん?」
「いえ。――楽しみにしています」
『今度』なんて日はやってこないんだろうけど。
でも。少しだけ、うれしかった。
未来を約束するって、ちょっと、心がワクワクするんだもの。
食後、殿下が茶菓子を差し出した。
離宮にいた頃、”交換菓子”をしていた職人たちに託されたらしい。
口に入れると、懐かしい甘さが広がった。
……ふふっ、うれしいな。
「そういえば――」
殿下がふと思い出したように口を開いた。
「ヘレナの護衛たちの近況だが――ジャンは、新人騎士の教育係に抜擢されたらしい。
皇太子妃の護衛を務めた平民騎士など前代未聞だからな。憧れの的だ」
「まぁ!」
面倒見のよいジャンのことだもん。
きっと、頼りになる先輩になるに違いない。
あの頃、未熟な私を守ってくれた人が、今度は若者を支える指導者になる――それが、少し誇らしい。
「ジャックは……ヘレナが離宮で勉強している姿に触発されたそうだ。
騎士を退官し、文官を目指している。もともと、そちらの方が向いていたのだろう」
「そうなのですか?」
ジャックったら。
さりげなく私の防波堤役になってくれていたものね。
彼の細やかな気配りに、何度救われたか分からない。
文官になるなんて。
やっぱり彼は、“言葉で戦う人”だったんだ。
「それからジョンは、来月から貴族学園の出納係に赴任する。事務次官に弟子入りを請うたそうだ」
学園の財布を預かる仕事だなんて、商魂たくましいジョンにぴったり!
数字に強くて、抜け目がないくせに、誰よりも仲間思い。
ジュストに弟子入りだなんて。
もう立派な、”未来を担う人”じゃない。
みんな、それぞれの道を歩んでるのね。
それに、殿下ってば。ちゃんとみんなの名前、覚えてくれてたんだ。
クッキーを噛みしめながら、嬉しさで心がじんわり温かくなる。
私も、わたしの道を――そう思いかけて、ふと手が止まった。
来年、私が成人したら離縁となる。
その先、私はどこへ戻ればいいのだろう。
公爵領? 宮殿? それとも――まだ見知らぬ、どこか?
ジャンもジャックもジョンも。それぞれの未来をちゃんと持っている。
けれど私には、まだ何にも見つかっていない。
自分だけ、足踏みしているみたいで……甘いはずのクッキーが、少しだけ苦く感じられた。
その日の別れ際。
殿下から可愛らしいリボンの付いた細長い包装箱を手渡された。
「どうせ豪華な贈り物は受け取ってくれないんだろう? これくらいは受け取ってほしい」
「……ありがとうございます」
「それから――何が起ころうと、ヘレナが学園を卒業するまで離縁はしない。学生生活は一度きりだ。存分に楽しめ」
「いいんですか?」
「言っただろう? こういう時、叔父には甘えていいんだ。……妻なんだから」
叔父なのに妻って何ですか? と言葉が出かけて、喉の奥で止まった。
“妻”。
今ので4回目。
数を数えてしまう自分が、少しおかしい、だって……。
慌てて首を振って、その感情を追い払った。
「……分かりました。よろしく、お願いします」
「ふっ。素直だな」
殿下は低く笑い、わずかに目を細めた。
そのまま、殿下の指先が左の頬をすっとなぞった。
くすぐったさに思わず身じろぎする。
なのに、触れられた頬がじんわり熱を帯びていく。
まるで愛しい女性にでもするかのような仕草に、鼓動がトクンと音を立てた。
どうして今さら、こんなふうに私に触れるんだろう……。
湯に浸かって気持ちを落ち着けたはずなのに、胸のざわめきは消えてくれない。
就寝の支度を終えてから、ようやく殿下から受け取った箱を開けた。
はじめに、殿下の筆跡で書かれたメッセージカードが目に入った。
「春といえども王国は多雨で肌寒いだろうから、腹を冷やさないように」
……風邪じゃなくて、腹?
そんな言い方、普通はしない。
もしかして。あの時のこと、まだ覚えてる?
腐ったスープを飲まされて、何日も寝込んだ新婚の秋。
……殿下って、ほんとに、変なところで優しい。
帝国より北に位置する王国は、4月に入ってもまだ肌寒い。
祖母の命日に私が里帰りすることを見越していたのだろう。
年明けからは身辺警護のための護衛も外されたのに、こんなふうに自分の身を案じてくれることが意外だった。
メッセージカードの下には、それは美しい絹で織られた、紫色のストールが納められていた。
紫色――皇族の間では、正妻だけが身に着けることを許される色。
つまりこれは、「あなたは私の妻だ」と言ってるようなもの。
こんな大層なものをいただいても、使い道に困っちゃうんだけどな……。
殿下に会うたびに、彼の真意が分からなくなる。
その美しいストールを手に取ってしばらく眺めていたけれど、綺麗に折りたたむと、再び元の箱に戻して机の奥深くへと仕舞った。
……叔父で妻。やっぱり意味が、わからない。
でも――紫の布の柔らかな感触が、なぜか心に温もりを残した。
殿下はフォークを取りひと口運ぶと、噛みしめるように呟いた。
「……美味いな」
「野菜だけだから、味気ない?」
思わず探るように問いかけると、殿下は湯気越しに目を合わせてきた。
その瞳に、冗談めかした様子はない。
「いや。個人的には、このくらいシンプルな味付けの方が好ましい」
「ほんとう?」
お世辞じゃないの? とまだ胸の奥で疑ってしまう。
「嘘などつかない。……ありがとう」
その声音があまりに柔らかくて、思わず視線を逸らしてしまった。
なによ、今日はやけに素直じゃないの。
「――サンマリア地域にも、皇族専用の保養地があるんだ」
「サンマリア……南の海に面しているところですよね?」
「ああ。魚介の水揚げが豊富で、パスタの種類も驚くほど多い」
「新鮮な魚介のパスタ……想像しただけでよだれが出ちゃいそう!」
「くくっ。森も悪くないが、海の恵みも格別だ。今度、連れて行ってやる」
「え……」
「ん?」
「いえ。――楽しみにしています」
『今度』なんて日はやってこないんだろうけど。
でも。少しだけ、うれしかった。
未来を約束するって、ちょっと、心がワクワクするんだもの。
食後、殿下が茶菓子を差し出した。
離宮にいた頃、”交換菓子”をしていた職人たちに託されたらしい。
口に入れると、懐かしい甘さが広がった。
……ふふっ、うれしいな。
「そういえば――」
殿下がふと思い出したように口を開いた。
「ヘレナの護衛たちの近況だが――ジャンは、新人騎士の教育係に抜擢されたらしい。
皇太子妃の護衛を務めた平民騎士など前代未聞だからな。憧れの的だ」
「まぁ!」
面倒見のよいジャンのことだもん。
きっと、頼りになる先輩になるに違いない。
あの頃、未熟な私を守ってくれた人が、今度は若者を支える指導者になる――それが、少し誇らしい。
「ジャックは……ヘレナが離宮で勉強している姿に触発されたそうだ。
騎士を退官し、文官を目指している。もともと、そちらの方が向いていたのだろう」
「そうなのですか?」
ジャックったら。
さりげなく私の防波堤役になってくれていたものね。
彼の細やかな気配りに、何度救われたか分からない。
文官になるなんて。
やっぱり彼は、“言葉で戦う人”だったんだ。
「それからジョンは、来月から貴族学園の出納係に赴任する。事務次官に弟子入りを請うたそうだ」
学園の財布を預かる仕事だなんて、商魂たくましいジョンにぴったり!
数字に強くて、抜け目がないくせに、誰よりも仲間思い。
ジュストに弟子入りだなんて。
もう立派な、”未来を担う人”じゃない。
みんな、それぞれの道を歩んでるのね。
それに、殿下ってば。ちゃんとみんなの名前、覚えてくれてたんだ。
クッキーを噛みしめながら、嬉しさで心がじんわり温かくなる。
私も、わたしの道を――そう思いかけて、ふと手が止まった。
来年、私が成人したら離縁となる。
その先、私はどこへ戻ればいいのだろう。
公爵領? 宮殿? それとも――まだ見知らぬ、どこか?
ジャンもジャックもジョンも。それぞれの未来をちゃんと持っている。
けれど私には、まだ何にも見つかっていない。
自分だけ、足踏みしているみたいで……甘いはずのクッキーが、少しだけ苦く感じられた。
その日の別れ際。
殿下から可愛らしいリボンの付いた細長い包装箱を手渡された。
「どうせ豪華な贈り物は受け取ってくれないんだろう? これくらいは受け取ってほしい」
「……ありがとうございます」
「それから――何が起ころうと、ヘレナが学園を卒業するまで離縁はしない。学生生活は一度きりだ。存分に楽しめ」
「いいんですか?」
「言っただろう? こういう時、叔父には甘えていいんだ。……妻なんだから」
叔父なのに妻って何ですか? と言葉が出かけて、喉の奥で止まった。
“妻”。
今ので4回目。
数を数えてしまう自分が、少しおかしい、だって……。
慌てて首を振って、その感情を追い払った。
「……分かりました。よろしく、お願いします」
「ふっ。素直だな」
殿下は低く笑い、わずかに目を細めた。
そのまま、殿下の指先が左の頬をすっとなぞった。
くすぐったさに思わず身じろぎする。
なのに、触れられた頬がじんわり熱を帯びていく。
まるで愛しい女性にでもするかのような仕草に、鼓動がトクンと音を立てた。
どうして今さら、こんなふうに私に触れるんだろう……。
湯に浸かって気持ちを落ち着けたはずなのに、胸のざわめきは消えてくれない。
就寝の支度を終えてから、ようやく殿下から受け取った箱を開けた。
はじめに、殿下の筆跡で書かれたメッセージカードが目に入った。
「春といえども王国は多雨で肌寒いだろうから、腹を冷やさないように」
……風邪じゃなくて、腹?
そんな言い方、普通はしない。
もしかして。あの時のこと、まだ覚えてる?
腐ったスープを飲まされて、何日も寝込んだ新婚の秋。
……殿下って、ほんとに、変なところで優しい。
帝国より北に位置する王国は、4月に入ってもまだ肌寒い。
祖母の命日に私が里帰りすることを見越していたのだろう。
年明けからは身辺警護のための護衛も外されたのに、こんなふうに自分の身を案じてくれることが意外だった。
メッセージカードの下には、それは美しい絹で織られた、紫色のストールが納められていた。
紫色――皇族の間では、正妻だけが身に着けることを許される色。
つまりこれは、「あなたは私の妻だ」と言ってるようなもの。
こんな大層なものをいただいても、使い道に困っちゃうんだけどな……。
殿下に会うたびに、彼の真意が分からなくなる。
その美しいストールを手に取ってしばらく眺めていたけれど、綺麗に折りたたむと、再び元の箱に戻して机の奥深くへと仕舞った。
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でも――紫の布の柔らかな感触が、なぜか心に温もりを残した。
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