傷物令嬢の七度目の婚約

花雨宮琵(かうみやび)

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1巻

1-3

 彼が驚きの目で私の横顔を見つめていたのは気配で分かったけれど、あえて視線は向けなかった。だから彼がどういう表情をしていたかまでは、分からない。
 軽蔑か、呆れか、はたまた嫉妬――それはあり得ないわね。ま、どう思われても構わない。
 しばらく夜風に吹かれていたら、「疲れたんじゃないか」と訊かれ、ソファーへと座らされた。

「右のかかとせてみろ。さっきから気にしているだろう? 痛むんじゃないのか?」

 実は、先ほどから右足の踵がヒリヒリしている。慣れないヒールで四度もダンスを踊ったのだから無理もない。彼が床に片膝をつき、立てた方の膝に踵を乗せろと言ってくる。

「手当なら自分で行います」
「婚約者なんだ。素足を見せても問題ない。……擦りむいているな。少ししみるぞ?」
「こういった手当、慣れてらっしゃるんですね」
「ん? 仕事柄、怪我はつきものだからな。まあ、こういうのは貴女の方が上手だろうが」

 自分について知ってくれているのが意外で、胸がこそばゆくなった。
 これまでの婚約者は、私が医学を学んでいることに無関心か、変な対抗意識を持って嫌味を言うかのどちらかだった。

「こういうの、久しぶりです。子どもの頃に戻ったみたいで……ふふっ、嬉しい」
「嬉しいか?」
「はい。昔、兄や姉たちに、よくこうして手当してもらっていました」

 彼は小さく笑うと、「お転婆てんばだったんだろうな」と言って、そっと足をハイヒールへ戻した。
 なんだろう。この人は、ともすると冷徹で他人の感情に無関心な印象を与えるけれど、芯に優しさを持っている気がする。それに、もう触れられることに抵抗を感じない。
 お料理をつまみながら舞踏会を眺めていると、会場のどこかでワッと大きな歓声が上がった。

「楽しそう……」
「もうすぐ社交シーズンが終わるからな。別れを惜しんで話が弾んでいるんだろう」
「令息も、ご友人たちとはお話しできましたか?」

 彼は短く「あぁ」とだけ答えると、会場へ視線を向けたままこう言った。

「王国に居場所がないのなら、これから作っていけばいいだろう? 貴女が居場所を作る、その足がかりくらいにはなってやる」

 もしかして、あの独り言を聞かれていたの? だとしても、どうしてこんな優しい言葉をかけてくれるんだろう。初対面なのに。意地悪なことばかり言うのに。
 気がつけば、心がふっと温かくなっていた。


 帰りは、公爵家の馬車で庶民街に借りているアパルトマンまで送ってもらうことになった。
 噴水広場に着いて起こされると、なぜか向かいに座っていたはずの令息が隣に腰かけている。

「もしかして、肩を貸してくれたんですか?」
「あんな寝方をしたら、首を痛めるぞ。それに、『寝てもいい』とは言ったが、本当に寝るか?」

 初対面の男性の前で無防備な姿をさらすなど、普段なら絶対にしないのに。この人は信頼できると、直感的にそう思ってしまった。そんなこと、とても彼には言えないけれど。

「抱えるぞ」

 彼の手を借りて馬車から降りるなり、ふわりと足が宙を舞う。

「歩けますから、降ろしてください」
「貴女は見ていて危なっかしいんだ。少しの間だから、我慢してくれ」

 どうしてこんなことになったのか、状況判断が追いつかない。
 彼が纏うシダーのスパイシーな香りに包まれるたび、落ち着きを奪われる。

「ここです」
「――薬局?」

 ようやく辿り着いたアパルトマンは、王都一の薬師と名高いユベール博士が経営する薬局ファーマシーの二階にある。

「ただいま」
「ロゼ、おかえり。今日はまた一段と綺麗だわね。あら、恋人? いいわねぇ、恋する乙女!」

 博士は私たちに向かってパチンとウインクをすると、鼻歌を口ずさみながら研究室へと消えた。

「えっと、今のは薬局のオーナーのユベール博士です。少し個性的ですが、薬師としてはすごく優秀な方なんです。あははは……は」

 彼の目が笑っていない。眉間のしわが険しさを増している。
 もしかして、男と同居する阿婆擦あばずれとでも思われているのかしら。

「彼もここに住んでいるのか?」
「はい。この薬局のオーナーですから」
「なるほど。これは急いだ方が良さそうだな」

 彼が顎を触りつつ、謎めいた言葉をつぶやく。

「ですが、ユベール博士の心は女性ですから。あやまちはあり得ません」

 なんとなく彼が不機嫌な理由がそこにあるように思えて、急いで補足した。

「ん? 『過ち』とは?」

 彼が急にその整った顔を私の鼻先まで近づけて瞳を覗き込んでくるものだから、情けないことに動揺してしまう。

「くくくっ。すまない、からかった。――噂と違って、男慣れしてないんだな」
「令息って、時々すごく意地悪です。……兄様たちみたい」

 途端に苦虫を噛み潰したような顔をする。私、何か失礼なことを言ったかしら。

「二階の部屋は安全なのか?」
「はい。各部屋にも鍵はありますし、父がつけた影に監視……護衛されている気がしますので」

 彼は特別驚いたふうでもなく、「あぁ」とどこか納得したように頷くと、「一応、防犯上の問題がないか確認させてくれ」と言うので、二階の自室へと案内した。

「ここで生活を?」

 十七平米ほどのこの部屋は、公爵家の化粧室くらいの大きさだろう。けれど、洋服や書物を収納する棚に、書き物をする机と椅子、それにベッドが備わっていて十分快適だ。彼はあちこち壁を叩いたり、窓から外を覗いたりして周囲の安全を確認している。

「隣には誰が住んでいるんだ?」
「今は空室で、来月から医学アカデミーの同級生が引っ越してくる予定です。右端の部屋はユベール博士が使っています」
「ふん……」

 顎に当てた指が、何かを思案するように動いていた。そして決意を固めたように、こう言った。

「次の休みに遣いをやるから、公爵家のタウンハウスまで来てほしい」

 それだけ告げると、迷いのない足取りで帰っていった。一切の無駄のないその動きに、どこか見覚えがある気がした。
 けれど、結局思い出せないまま睡魔に襲われた。


 次の休日。
 令息が自ら薬局まで迎えに来てくれた。タウンハウスまでは、馬車で十五分ほどだという。

「貴女のファーストネームはジョゼフィーヌだろう? なぜミドルネームで呼ばれているんだ?」
「十二の頃、背中に大怪我を負いまして。その後は縁起をかついでか、ローズがファーストネームみたいに使われるようになったんです」
「呼ばれる名が変わった時は、驚いただろう?」
「それが、事故の後遺症でそれより前の記憶がすっぽり抜け落ちてしまって」

 今思い返せば、あの頃の私は、必死だった。
 幸い、前世の記憶――年齢に不相応なほどの医学と薬学の知識――は残っていたので、『傷物令嬢』などと揶揄やゆされ始めるなり婚活戦線から離脱し、オストリッチ帝国の医学校へ入学した。
 ちょうどクリス兄様が外交官として帝国に駐在していたし、北との大戦で国内情勢が不安定な時期だったから、両親は比較的すんなりと留学を許してくれた。

「大変だったな」

 令息の声が一段低くなった。
 そんな反応を引き出すつもりではなかったから、あえて明るい口調で言葉を続ける。

「そうでもないです。背中の痛みを緩和させたいと言ったら、ユベール博士を紹介してもらえて。元々習っていた武術も、身を守るためだと言えば、続けさせてもらえました。留学だって――」

 身の上話をしているうちに公爵家のタウンハウスに到着した。手入れの行き届いた見事な庭園には、色とりどりの草花が咲き誇っている。
 この景色、どこかで見たような気がする。いつだったかしら……

「そういえば、ティボーが世話になったな。丁重にもてなしてくれたと聞いている」
「当然のおもてなしをしたまでです。それに、ティボー様とのお話は楽しかったですよ?」

 彼がふっ、と嬉しそうに口角を上げて「そうか」と頷く。
 ティボーは令息が住む別邸の執事で、舞踏会の招待状を手に実家へ来てくれたのだ。ドレスを贈りたいとの申し出に、であればその費用を令息の支持する団体へ寄付してほしいと伝えた。後日、私が運営のお手伝いをしている団体に匿名とくめいで多額の寄付金が寄せられたけれど、あれはたぶん、令息だったのだろう。本当に寄付してくれるなんて。
 公爵家本邸の玄関には、二十人を超える使用人たちが並んでいた。これでも自身の悪名高さは自覚している。つい身構えた私を、彼らは拍子抜けするほど温かく迎え入れてくれた。

のレディ・ローズだ。隣の別邸へ越してこられる。みんな、よろしく頼む」

 婚約者? それに、引っ越すなんて話は初耳だ。彼の意図が掴めなくて胸がざわつき始める。
 それでも表情を崩さずに笑顔で挨拶を交わすと、彼のご両親が戻るまでの間、二人で婚約の条件を詰めることにした。箇条書きにした書類をスッと令息の前に差し出す。

「まずは貴女の要望からだが。――傷痕のことなら承知している。何も問題はない」
「そうは言いましても、跡継ぎの問題は重要でしょう? 事前に公爵家が信頼する医師の診断を受けます。婚約を結ぶかどうかは、その結果を――」

 彼は最後まで聞くことなく、「必要ない」と言った。
 貴女のかかりつけ医は妊娠・出産の機能に問題はないと診断しているのだし、不妊の原因が女性側にあるとは限らないのだから、と。彼の兄夫婦は、子を授かるまで四年かかったという。

「婚約者や妻としての役割……これも案ずる必要はない。もとより私は次男だ。家は兄が継ぐ。貴女は私のパートナーとして必要最低限の社交をしてくれたら、それでいい」
「あの……」
「なんだ?」

 後から幻滅されても困るので、初めから打ち明けておくことにした。

「私、令嬢らしいことは何もできません。音痴だし、楽器も弾けないし、お茶会を開いたことも……」

 言いながら声が細っていく。

「くくくっ。いっそ清々すがすがしいな。別にそういうことを求めているわけじゃない。普通の令嬢にはできないことが貴女にはできるのだから、胸を張っていればいい」
「そうなんです。私、掃除、洗濯、料理は一通りできますし、場所を選ばず眠れるので、夜勤中は重宝しています」
「そういう意味ではないんだが」

 彼は口角をわずかに上げると、「一応言っておくが、寝る場所は選んだ方がいい」と忠告してきた。「もっと女性としての自覚を持て」と言われても、警戒心は強い方だ。そう返すと、「だったら男に馬車で送ってもらっても眠るなよ? の可能性もあるんだからな」とさとされた。
 送り狼……妖怪の名前しか思い浮かばない。令息がそういうことを言うとは意外だ。

「何か勘違いしているようだが。とにかく、男には用心しろ。いいな? ――次に、従軍したら婚約解消? 新しい項目だな。まあ、異論はない。ただし、の従軍は控えてもらう」

 思わず目を見開いた。

「当たり前だろう? 私の子を宿している可能性のある女性を戦場へ送るわけにはいかない」

 私とそういう関係になるということ? そもそも私たち、婚約解消が前提のはず……
 腕組みをして考え込んでいたら、「なんだこれは」という彼の声ではっと我に返った。

「朝晩のお見送り、お迎え時と就寝前にハグをする……こんな項目、以前にはなかっただろう?」

 正直にお酒を飲んだノリで加えた項目だなんて伝えたら、叱責されそうだ。

「実家ではそうしておりますの。令息もならっていただければ」

 理解しがたいといった雰囲気で、「これはいらんだろう」とつぶやく彼に、であれば婚約はなかったことにと伝えると、「善処する」と返された。

「ええ!?」
「なぜ驚く? 貴女の要望だろう?」

 まさか、こんなふざけた条件を呑むなんて。想定外の事態だわ。

「次に私からの要望だが――結婚するまでの間、貴女には私の屋敷で一緒に暮らしてもらう」
「はい?」
「薬局よりここからの方が学校に近いだろう? それに、貴女が言っていた、信頼し、愛し合える関係になれるかどうかを確認するためには、共に暮らすのが一番だと思ってな」
「それはそうですけど……」

 未婚の男女が、一つ屋根の下で暮らしてもいいものなのかしら? 
 公爵家は、伝統と慣例を重んじる家柄のはず。
 でも――確かに彼の言っていることは理にかなっている。王都の中心にある彼のお屋敷に住むとなると、学校にも職場にも近くて助かる。卒業と同時に七回目の婚約も破談に終われば、さすがの両親も私の縁談を諦めるだろう。そして令息はその間、女除けをしつつ想い人と一緒になれる道を探ることができる。
 意外とこの婚約、互いに利があるのかもしれない。そう思えば、悪くない話だ。
 こうして、私たちは婚約を結ぶことに合意し、早々に私が彼の住む別邸へ引っ越すことで話がまとまった。
 本邸の家令が差し出した婚約契約書に、まずは彼が署名した。
 迷いのないその手つきに、こういう時でさえ隙がないのだと感心する。
 次に自分の番となり、初めて事の重大さを実感した。思わず万年筆を持つ手を止めた私を見て、令息が紅茶のお代わりを頼んでくれた。
 これほど想いを込めて、自分の名を刻んだことはない。不思議と背筋が伸びる思いだった。

「書類はこれでいいな。――両親が戻ってきたようだから、家族を紹介する。ついて来てくれ」

 彼に誘われて外へ出ると、優雅なアーチ型の屋根が美しい、ガラス張りの温室が目を引いた。
 あれは……
 胸の奥で眠っていた記憶が、音もなく蘇る。
 帝国へ留学する前の頃。母に伴われ、とあるお茶会に参加したことがあった。ちょうど第二王子の婚約者選びが始まり、王子に謁見した母娘がお喋りに花を咲かせている様子を、私はただ一人、離れた場所から眺めていた。あの頃は、どこへ行っても見下されるか、あわれみの視線を向けられるかだった。まさか、逃げ込んだ温室でご婦人たちの悪意に晒されるなんて思いもしなかったけれど。

「大丈夫か? 上の空のようだが」
「すみません。少し、昔を思い出してしまって。温室があるんですね」
「あぁ、母の趣味でな。南国の植物や貴重な薬草を育てている」
「薬草ですか?」
「ふっ。興味があることにはすぐ反応するんだな。――あれが父だ」

 視線の先にいたのは、二十年後の彼を思わせるような男性だった。無駄な贅肉ぜいにくひとつない引き締まった身体つきは、まるで現役の軍人のような鋭さを放っている。深みのある上質なシャツを優雅に着こなしたヴァンドゥール公マクシミリアンは、「よく来てくれた」と私をいたわり、家族を一人ずつ紹介してくれた。

「妻のヴィクトワールだ」

 公爵が夫人の腰に添えていた手を離すと、夫人は目を細め、まるで待っていたかのように優しく私を抱きしめた。

「本当に、素敵な女性に成長したのね」

 驚いて夫人の顔を見つめた私は、彼女が、十三歳の頃のお茶会で陰口の連鎖から私を救ってくれた、あの強い眼差しの女性だと気がついた。
 こんな偶然があるなんて。
 憧れの女性との再会に、あの頃の想いが込み上げてくる。思わず目頭が熱くなってしまった私に公爵はあえて触れることなく、目尻に静かな皺を浮かべて残りの家族を紹介してくれた。

「長男のステファンに、その妻のコンスタンス。それから三歳になる孫のシモンだ」
「フェルディナンの兄です。どうぞよろしく」

 大きく一歩踏み出して手を差し出したのは、夏の夜の舞踏会で、令嬢たちに囲まれていた私にそっと声をかけてくれた、あの紳士だった。

「……貴方様は」
「あの時は、弟から頼まれたんだ。自分が助け舟を出すことで令嬢たちの嫌がらせがエスカレートしたらいけないから、って。なんだよフェル、本当のことなんだ。別にいいだろう?」

 雰囲気のまるで異なる兄弟の小競り合いをよそに、太陽を瞳に宿したような女性が、快活な笑顔を私に向けてくれた。

「コンスタンスです。舞踏会でお話したかったんだけど、フェルが独り占めしたがってたから。ふふっ。睨んでも効果ないわよ、フェル。今日はお会いできてとても嬉しいわ」

 そんな大人たちの間から、ひょっこりと顔を出した男の子が、「シモンです。ろーずおねえさま、こんやくおめでとう」と言って愛らしい花束を手渡してくれた。
 無垢むくな笑顔に、心の奥がじんわりと温かくなる。
 それからヴィクトワール夫人の案内で場所を移すと、美しい庭園が見渡せるガゼボに私たちの婚約を祝う席が用意されていた。木々の間から自然光が降り注ぐ開放的な空間に、色とりどりの軽食やお菓子が並んでいる。手作りの温もりに溢れた、素敵なテーブルセッティングだ。

「これはね、ろーずおねえさまと、おじうえのために、ぼくがかいたんだよ?」

 シモンは、テーブルの上に飾られた男女が笑顔で手を繋いでいる絵を指差して、誇らしげにそう教えてくれた。公爵は終始口数が少なかったけれど、別れ際、「息子は仕事柄、王都を離れることも多い。不在時は遠慮なく頼ってくれ」と声をかけてくれた。
 ――頼れる人がいる。
 そう思えたことで、王国での新しい生活への不安がすーっと軽くなっていくのを感じた。
 帰りの馬車の中、私は幸せな気持ちで満たされていた。誰かに守られている、と思う感覚は久しぶりだった。心がぽかぽかと温かく、無意識に足先をトントンと揺らしてしまう。
 そんな私の心中を知ってか知らずか、令息は「癖のある家族だが、皆、貴女の味方だから」と言って、初めて穏やかな微笑みを見せてくれた。


 その日の夜。
 私は薬局のアパルトマンの小さなベッドで目を瞑り、今日という日をまぶたの裏に焼きつけていた。昨日までは存在しなかったものが、今の自分には確かに存在している。机の上には、シモンが描いてくれた絵が。ベッドサイドのテーブルには花瓶に活けられた彩が。
 一人一人の顔を思い浮かべながら、たとえ期間限定であったとしても――彼の婚約者として恥じない振る舞いをしよう。そう、心に誓った。


 数日後。私は一人馬に乗り、王都の郊外にある夕陽が見える丘にやってきた。
 草原に、お酒と煙草、そして二人分の杯を並べる。
 人生で一番幸せだった日――リョウからプロポーズを受けたあの時に、二人で眺めた海に沈む夕陽を重ねながら、空へ杯を掲げた。
 リョウの陽だまりの匂いがする腕の中。広くて大きな背中。寝起きの数分間だけ二重になる、奥二重の瞳。はにかんだ笑顔……
 記憶が蘇ってからずいぶん経つのに、今でも、貴方に会いたくてたまらない。
 救えなかった後悔、守られてばかりだった負い目。その重さが消えることは、きっと、ないのだろう。
 でも――そういう弱さももろさも全部抱えたまま、前に進もうと思う。今を、生きようと。

「リョウ……私ね、婚約したんだ。今回のは、今までと違って、自分の意思で決めた婚約なの。相手の人もね、忘れられない女性がいるんだって。この先どうなるかは分からないけれど、見守っていてくれるかな?」

 今まで心の中でひっそりと抱えていた恋情を、ここに置いていくことにする。
 自分なりの、婚約者に対する誠意として。
 中途半端な自分に終止符を打つための――けじめとして。


 翌週。両家の両親立ち会いのもと、婚約式が執り行われることになった。
 準備は公爵家別邸で進められた。
 ――いずれ、ローズ様がお住まいになるお部屋です。
 そう言われてクリス兄様たちと通されたのは、陽当たりの良い角部屋だった。薄いレースのカーテン越しに午後の光が柔らかく射し込み、サーモンピンクの壁紙には小さな花柄がちりばめられている。丸テーブルの上には、大振りの白いダリアが一輪。

「今朝、坊ちゃんが手ずからお摘みになられたんです」

 私の専属侍女になるというターニャがそう言って微笑んだ。

「坊ちゃん?」
「フェルディナン様のことです。つい癖で……怒られてしまいますね」

 ターニャは、令息が赤ん坊の頃から公爵家に勤めているらしい。

「ふーん、あいつも女性のために花を摘んだりするんだな」
「『あいつ』って。クリス兄様、お知り合いなの?」
「言ってなかったか? フェルディナンは中等部の同級生だよ。な、レオポルド? って、あれ?」
「レオ兄様なら、屋敷の警備体制を確認してくるって、出ていったわ」
「はぁ? 東の将軍が住む屋敷に警備のあらなどあるはずないだろ。どこまで過保護なんだよ」

 レオポルドは私の次兄だ。第二騎士団の隊長を務めていて、令息とも顔見知りだ。婚約早々、公爵家の別邸に移ることに最後まで反対したのも、父ではなくレオ兄様だった。

「さあさ、ローズ様は準備いたしましょうね」

 私はその日、生まれて初めて白いドレスを纏った。
 九年前、姉のアントワネットが婚約した時のものだ。当時十歳だった私は、着飾った姉を見て、「自分もお揃いのドレスが着たい」と駄々をこねたらしい。
 今回、第三子の出産間近で参加できなかった姉が、約束のドレスを贈ってくれた。
 白絹の光沢は長い年月をてもなお美しく、姉が大切に保管していてくれたことが胸に沁みた。
 髪の毛をセットしてくれているターニャの手元から、柔らかな花油の香りがふんわりと広がる。

「ターニャさん、そこ。ローズは前髪をちょっと下ろした方が良いと思うんだ。あと、柔らかさを出すために、サイドの髪をゆるーく巻いてあげてくれる? それから――」

 クリス兄様は、私の保護者だった期間が長かったせいで、身支度にもいろいろと注文を出す。
 そこへ、ドアをノックする音が響く。

「――私だ。入っても?」
「坊ちゃま、殿方は入室禁止でございます。準備が整いましたら降りてまいりますから」
「……クリストフはいいのか」
「俺はいーんだよ、ローズをここまで育てたんだから! ……今日からローズのお守役はお前に譲る。最後の務めくらい、果たさせてくれ」
「……分かった」

 鏡越しに映るクリス兄様は、腕を組んだ姿勢で私の支度を見守っていた。
 帝国で親代わりになってくれたクリス兄様。社交界で評判が良くない私を引き取り、育ててくれた。もしかすると、私が気づかなかっただけで良い女性がいたのかもしれない。クリス兄様の人生の時間を少なからず奪ってしまったかもしれないのに、何も言わず、今日まで私に寄り添ってくれた。

「……クリス兄様。ありがとう」

 思わずこぼれた言葉に、クリス兄様は照れくさそうに頷いた。
 やがてレオ兄様が戻ると、「こんな日は、酒でも飲まないとやってられない」と二人で談話室へ消えた。
 準備を終えて階下へ降りると、白を基調とした将官服に身を包んだ令息が待っていた。肩章の金糸が太陽の光を受けて輝き、胸元の勲章くんしょうが彼の歩んできた戦歴を物語っている。

「よく似合っている」

 それから、小さな声で「……綺麗だ」と言ってくれた。

「令息も。素敵です」

 差し出された腕に手を添え、本邸へと向かう。思いがけない彼の言葉に、心なしか足取りが軽い――けれど、応接室の扉の前で令息が足を止めた。

「どうかされました?」
「いや……」

 一歩後ろに下がった彼がけてくれた隙間から中を窺ったところ、両親たちの柔らかな笑い声と、グラスの触れ合う音が重なった。

「フェルディナンにこんな日が来るなんて。ねぇ、あなた」

 安堵の表情を浮かべたヴィクトワール夫人がそう言うと、マクシミリアン公爵が「そうだな」と深く頷いた。その向かいでは、私の母が片手を頬に当てながら、「一目惚れから始まる恋もありますのね。素敵だわ」とため息をついている。父が母の腰に手を回し、「フローランス、私もそうだったぞ」とささやくと、母の頬がぱっと朱に染まった。その様子にヴィクトワール夫人が瞳を輝かせ、「まあ、侯爵ったら。本当に夫人の前では骨抜きになりますのね」と伝え、父は照れたような笑みを返した。
 両家の親たちが自然に打ち解けていく光景に、思わず令息と顔を見合わせて微笑んだ。

「……庭へ出ているか」
「そうですね」

 両親たちのなごやかな交流に割り込むのは気が引けて、私たちは庭へ向かった。
 ガゼボでは、令息の兄ステファンと、私の長兄フィリップが談笑していた。王宮に勤める二人は、いわゆる官僚同期だ。

「――いやぁ、まさかうちの弟がフィリップの末妹に求婚するとはね。驚いたよ」
「フェルディナン殿の独占欲の強さは、うちの父に勝るとも劣らんな。初対面の舞踏会、見ただろう? 久しぶりだったのに、ローズに声をかける隙もなかったよ」
「そうそう。コンスタンスも同じように愚痴ぐちってた」

 令息の横顔に、またしても戸惑いの色が浮かぶ。
 ふふっ。将軍様といえども、家族の前では一人の青年なのね。
 仕方なく、婚約式の時間まで令息が温室の薬草畑を案内してくれることになったのだけれど、そこにいたのは――令息の甥シモンと私の姪シャルロットだった。

「あのね。結婚の申し込みは、こうやって女の子に指輪を差し出すの」

 少しだけお姉さんのシャルロットがシモンへ指輪の渡し方を教えると、シモンが片膝を立ててひざまずき、「一生、大切にします」と宣言しながら、シロツメクサで編んだ花の指輪を差し出した。
 その無邪気な誓いに、頬が緩む。
 小さな世界を壊すわけにはいかない――私たちは笑い合い、温室を後にした。
 やがて鐘の音が響き、婚約式の始まりを告げた。

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