伝九郎は留守にて候

葉城野新八

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 寺がない耕末邑では時の鐘が鳴らないのでよくわからないが、おそらく夜四つになったころだろう。
 ひさびさに若い酒の相手を得てうれしかったものか、閑助が、

「もう少し、いや、もう少し」

 と粘るのにつきあっているうち、とうとうこんな時間になってしまった。
 とっくに芙希は奥に下がって休んでいる。
 飲みなれていない武次郎は、あまり酒が強いほうでもない。すっかりしたたかに酔ってしまった。舟をこぐように体が揺れ、なんとか正気だけはつなぎとめてあるが、閑助の顔が二つにも三つにも見えた。
 酒は喜怒哀楽を増幅さすもので、ふと、何かの拍子に昼の一件を思い出してしまった。抑えきれぬ感情が行き場をもとめて胸奥をかきむしり、喉を突き破るように這いでてきて、ついに情けなくも涙の堰が決壊した。
 ポロポロ、またポロポロと。

「あれ……どうしたのだろうか、ハハ、目に虫が入ったらしい……」

 気が強い武次郎は、普段めったなことで泣かない。おそらく童のとき以来になる。
 声を押し殺して、閑助から見られぬよう下を向いていたが、そうしたら余計に熱い涙が溢れてきて、ぬぐってもぬぐっても出てきてしまう。悔しいのか、悲しいのか、絶望したのか、涙の名前は知れない。
 いっぽう閑助は、きわめて酒が強かった。芙希曰く、ザルだそうだ。何も尋ねずに静かに盃をあおっていたが、ポツリと、

「大河内様、あれをご覧になってけらしぇ」

 と言った。
 どこかを見上げている視線をたどってみると、その先には花が添えられてあった。
 四角く太い柱に掛けられた竹筒に、白い山百合が三輪、生けてある。華やかさはなかったが、薄暗い室内で確かな存在感を放っていた。
 不思議なものである。そこにあると知ってしまえば、百合の香りが鼻腔にとどいてくる。
 あれは昼に芙希が手にしていたものだと思い出した。

「芙希どのは、多才だ……」

 閑助がいかにもと頷く。

「孫ながら、こんたな山奥さ置いでおぐには惜しいほどでがす。おそらぐゆくゆくは別な咲き場所を……まぁ、それはあえて言ますまい」

 首を振り、静かな声音で、一人語りのようにつづけた。

「花っこはなぜ咲くのが……といえば、自分がら咲こうど思って咲くのではありますねぇ。ほどよい季節が来たるがら咲くのでがす。いぎなり種がら咲ぐのではねがす。まず種がら芽を吹き、しかど根を張り、茎を伸ばして葉を広げ、水と栄養をとりこみ燦々どお日さまを浴び続げでその時を待つのです。そして生けごろを迎えだ花っこは、芙希の手によって新たな命をふきこまれ、あそごさ在るのでがす」

 いきなりやぶからに何の話をしているのかと思ったが、これまで武次郎が想像してみたこともなかった話だった。

「……オラだぢ人もまた同じ。人には人それぞれの咲きごろがござりす。たまたま向こうにある花が先に咲いたがらどいって、むやみに焦ったり、落ちこんだりする必要はないのでがす。ましてや咲くのをやめでしまったら、花が花どして、人が人どして今生を授がった甲斐がなきものどなります。それは最もなりません。今日咲かぬ花っこも、明日には咲ぐがも知れね。春に咲ぐ花、夏に咲ぐ花、あるいは雪の中に咲ぐ花ど、種類によって咲き時は色々でがす。人もまた同じこど。そうは、思いませぬが?」

 ハッとさせられた。
 閑助が昼のことを知っているはずもないのだが、それを言いさしているように聴こえた。
 考えてもみれば、斬り合いの経験がない武次郎が躊躇するのは当たりまえのことだ。刀という武具の恐ろしさは、幼少のころから骨の髄まで叩き込まれている。だからこそ恐くて抜けなかった。ひとたび抜いてしまえば、彼我のいずれかがその場にたおれるまで刀を振らねばならぬ。
 だが年長である奴らは、すでにどこかで斬り合いの場数を踏み、抜刀するまでの応酬と手順を心得ていた。

――そうだ、そういうことだ。俺にはまだその季節が来ていなかっただけのこと。むしろ固意地を張ってあの場で抜いていれば、必ずや俺の今生は終わっていた。本目録などという飾りを得てからの俺は、すっかり一人前の剣士のつもりで勘違いをしていたが、なんということはない、まだまだ種か苗にすぎなかったのだ。

 そう悟った武次郎が顔を上げてみると、いつの間にか閑助老人の姿はそこになかった。
 酔いすぎて視界が回っている。もしかすると座したまま眠り、一人で夢を見ていただけなのかも知れない。
 あらためて武次郎は、柱に掛けられた山百合をまっすぐ見つめ、盃になみなみと満たされてあった酒を一気に飲み干した。
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