伝九郎は留守にて候

葉城野新八

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 「……大河内様……大河内様、お具合はいかがですか?」

 耳慣れぬ澄んだ声に呼び起こされて、一瞬だけここがどこであったかを思い出すために頭を空転させた。そう、ここは閑助の家、娘の名は芙希だ。
 台所の土間には入り口から明るい陽光がさしこみ、反射してまぶしいほどでもある。

「これはしたり、俺としたことが寝過ごしたか」

 慌てて身を起こしたところ、頭に激痛がはしって思わず額を手で覆った。
 台所で芙希がクスリと笑う。

「夜おそくまで爺さまの深酒に付きあわせてしまいまして、まことに申しわけございません。お体は痛みませんか?」
「ああ、ここで寝てしまったのか。面目ない……」

 ゆうべはそのまま炉端で寝てしまったらしい。身には藁布団が掛けられてあった。

「いいえ、爺さまがお客人を酔い潰してしまうのは、よくあることです。囲碁仲間の肝入きもいり様は、家にくると歩けなくなっていつも泊まって行かれますから。さぁ、こちらをどうぞ、喉がお渇きでしょう」
「おお、これはありがたい。カラカラだ」

 喉を鳴らして差し出された水を一気に飲み干すと、全身隅々に水が染み渡り、生き返る心地がした。フンとひとつ背伸びさせ、洗面にまわって冷たい水で顔を洗う。いつのまにか横に芙希がいて、手ぬぐいを差し出してくれた。

「あんまりよくお眠りになっているので、お越すのがお気の毒で」
「いや、本当によく寝た。おかげで旅の疲れも吹き飛んだ」
「それはよろしゅうございました。朝餉の仕度も出来ております……と言いましても、昨夜の猪汁で作った雑炊ですが」
「それは嬉しい。ちょうどもっと食べたいと思っていたところだ」

 芙希が目尻を下げて満面の笑みを浮かべる。頬に当たる陽光が丸く光っていた。
 昨日は突然武家が押しかけたので、緊張させてしまったのだろう。今朝は慣れてくれて、くるくると表情が入れ変わる。しとやかな娘だと思ったが、存外活発なほうなのかも知れない。
 朝餉は、猪汁に粟と白米を入れ、大根の葉を散りばめただけの簡素なものであるが、よく飲んだ次の日にはありがたかった。わざわざ味を整えなおして薄めてくれたおかげで、口が飽きずに二杯三杯と進んだ。おかわりを待つあいだ、新鮮なこごみに味噌をつけてかじりつけば、やや苦味のある山菜の味が口と胃をさっぱりと雪いでくれた。
 ふと顔が思い浮かび、気になって尋ねる。

「閑助は、もう起きたのか?」
「はい、夜明けとともに野良仕事のほうへ」
「すごいな、昨夜はあんなに飲んでおきながら剛毅なものだ。忙しいのか?」
「ええ、これから野菜の作付けと、田植えと、さらに開墾と、もろもろありますから」
「そうか……よりによって多忙な時期に押しかけてしまい済まなかった」
「いいえ、ここは人の出入りがほとんどありませんから、爺さまも嬉しいかったようです。ところで……」

 雑炊の四杯目をはこんできた芙希の表情は、それまでと少し違っていた。ちょっとだけ曇ったようにも見える。何か言いにくそうにしていた。

「なんだ?」
「今日はいかがなされますか? お発ちに……なってしまいますか? それならば、御弁当をお作りしたいと、思っておりますが」
「いや、じつのところ、それなのだが……」
「はい?」
「しばらくこちらで厄介になりたいと思っておる。せっかくあと一歩のところまで来たのだ、やはりこのまま、妹葉伝九郎先生のお帰りをお待ちしたいと思う。否、そうするべきだと思い至った」
「まァ……」

 芙希は目を大きくみはり、口元を手で覆った。

「いや、もちろん、これでも一端の侍だ。じゅうぶんな宿代を持ち合わせているからタダ飯とは言わぬ。雑用も手伝う。あとで閑助に相談するつもりだが、実際に大変になるのは芙希どのだ。いかがか、厚かましいのは重々承知しておるが、頼める、だろうか……?」

 つかのま、無言の時が漂ったが、それを勢いよく破ったのは芙希だった。

「わっ……わわわ私も、それがいいと思いますの! だって妹葉様の御屋敷には無頼の浪人たちが来ていますでしょう、爺さまと二人きりですから、心配でしようがなかったのですけれど、大河内様がいて下されば安心です!」
「ハハ、ハ……そう思ってもらえるのは、ありがたいが……」

 まさか昨日、奴らから怒鳴られてそのまま帰ってきたとも言えず、手渡された茶碗の雑炊を無心でかきこんだ。
 かたわら、芙希がポンと軽やかに手を叩く。

「ではさっそく、私のほうから爺さまにお伝えしてまいりましょう。ちょうどこれから畑へ出るところでしから」
「あ、いや、それは俺のほうから……」

 ちゃんと申し出るべきであろう、と言いかけたが、すでに裏口から駆けでて行ったあとで、小鳥のさえずる声だけが無人の台所に響いていた。
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