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番外編

番外編「散る日、照る日」二

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 松太郎には、小さな頃から父に言われ続けていたことがある。

 この旅籠『盛元せいげん』は、この板橋宿の中でも指折りの繁盛している宿だ。この勢いを決して殺してはいけない。旅人が宿代を落としていってくれる宿でなければならない。
 無情だと、言いたいやつには言わせておけ。銭がすべてを物語る。
 それ以上の真実など、この世にはない。

「――そう、あの『つばくろ屋』のような宿にだけはなるな。宿場町の旅籠として、あのやり方ではいずれ潰れる。そう、いずれ、必ずだ」

 そう言いきる父の顔を見上げるのが、あまり好きではなかった。いつも以上に厳しい、鬼気迫る面持ちでいたからだ。

 松太郎は父がつばくろ屋の話をする時は決まってうつむき、そうして聞いていた。それでも幼い耳は素直なもので、父の言葉を疑うことはしなかった。つばくろ屋は駄目な宿。それだけはよくわかった。
 だから松太郎はちゃんと返事をし、うなずいた。父はそんな松太郎をどんな顔で見ていたのかはよくわからない。


 それから、松太郎が成長し、十五になった時、なんとなくそのつばくろ屋を冷やかしに行こうかと思い立ったのだった。
 今まで行こうと思えば行けた。けれど、特に見てみたい気持ちもなく、わざわざ仲宿にまで足を運ぶことはなかったのだ。

 けれど、この日は何故だかそれをしようと思った。十五になり、いつかは自分も父の跡を継いで楼主になると感じたせいかもしれない。
 そして、それが心の中で重たくのしかかっているせいだ。あの父のように非情になることが楼主としての務めであるとして、松太郎にそれができるだろうかと。

 心の甘さは自分でも感じている。小さなことで落ち込み、引きずる。そして、それを覚られないように伝法でんぽうに振る舞ってみせる。器の小さな自分なのだ。
 だからこそ、見下せる相手は多い方がよかった。多分、そんな理由でつばくろ屋に行こうと思ったのだ。

 それは冬と春との境。朝晩はまだ冷え込む。朝はゆっくりと、昼を越してから出かけた。この時季の街道は少しばかり落ち着いている方だろうか。時刻のせいもあるだろう。

 金のある家に生まれた松太郎にはあたたかな羽織り物があり、薄っぺらな着物で過ごす貧乏人の気持ちはわからない。綿のたくさん入った羽織りの襟を合わせ、松太郎は街道を歩く。
 通り過ぎる旅人たちに目を向けることもなかった。ただぼんやりと単身歩くだけである。


 仲宿には旅籠が軒を連ねていた。その一軒一軒をつぶさに見る。
 旅籠とひと口に言っても、大小様々だった。少しばかり壁板を蹴り飛ばしただけで潰れそうなもの、綺麗に行き届いているけれど小さなもの――松太郎には我が家が一番立派に見えた。

 大きく、それでいて活気があるのだから、立派な旅籠だ。傍目にもそう映っていることだろう。
 家業が嫌いなくせに誇らしさも感じつつ、松太郎は歩き続ける。まだつばくろ屋の暖簾には行きあたらない。
 仲宿の中ほどに来て、ようやくあったのだ。その、つばくろ屋は。

 正月に一新したのだろう、『つ』と染め抜いた真新しい暖簾の二階建て。看板には『講』の文字。
 生半可な宿には許されない、宿帳に記載される安心安全な宿の証。
 けれど、そんなにも素晴らしい宿であるのなら、父は何故嫌うのだろう。あのやり方はいけないと、何度も何度も繰り返すのかがわからない。

 だから、宿講などと言っても、所詮は伝手や横繋がりのコネによるところが大きいのではないだろうか。賄賂のひとつでもあれば加盟できるのかもしれない。
 そんなくだらない組合だったら、ありがたがる必要も何もないのだ。

 松太郎はじぃっとつばくろ屋の外観を眺めていた。ただ、旅装でない松太郎は旅籠の客には見えなかっただろう。ふと出てきた女中が松太郎を見て、不躾に顔をしかめた。どっしりと太った大年増の女中だった。
 いい気がするはずもない。いくら客ではないとはいえ、いきなりあんな目つきで人様を見るとは、女中の躾がまるでなっていない。

 やはりこの旅籠はろくでもない。松太郎は客引きにか去っていく女中の背中を見送りながらそう独りごちた。
 そう、それですっきりと心が晴れたのである。

 父が言った言葉は本当だ。あんな宿はいずれ潰れるだろう。
 松太郎は、父の言葉の裏に何かが潜むような、そんな気が僅かながらにしていたのかもしれない。その何かの正体がわからなかったから、足を運んでみた。こんな寒い時に歩くのは嫌いだというのに、足が向いたのだ。
 けれど、これでよかったのだ。もうわだかまることもなく、父の言葉を受け入れられそうだ。

 ほっとひとつ息をつき、そしてつばくろ屋に背を向けた。そうして平尾宿に戻ろうと数歩歩み出した。その時であった――

「さあさ、いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。今宵のお宿はぜひこのつばくろ屋へ。美味しい料理に心尽くしのおもてなしをさせて頂きます」

 それは軽やかな、乾いた空の下で瑞々しくよく通る娘の声。
 思わず足を止め、振り向いた松太郎の目に、暖簾を背にした小柄な娘の姿が飛び込む。
 その花は、盛りを待つばかりの蕾であった。

 ――まだ、ガキじゃねぇか。
 そう思う心も嘘ではなかった。粉を塗し、婀娜に微笑む遊女たちと日々を過ごす松太郎である。つばくろ屋の前で呼び込みをする娘は、そんな遊女たちに比べれば子供であった。

 けれど、娘が溌溂と輝いているのも本当だ。桃割れの似合う幼さが可愛らしく、無理のない自然な美しさというのだろうか、少なくとも松太郎の周囲にはいないような娘なのである。

 遊女たちは幼かろうと、どこかに悲壮感を抱えている。それがあの娘にはないのだ。元気を振りまき、楽しげに呼び込みをしている。
 それは不思議な存在であった。

 あれは奉公人ではなくあるじの娘だろう。
 松太郎はなんとなく、つばくろ屋の前をさりげなさを装いながら通り過ぎる。
 呼び込みを続ける娘にとって、松太郎は客ではない。ひと目でそれがわかるだろう。あの女中みたいに胡散臭いと顔に書いてこちらを見るか、気にも留めないかのどちらかだ。

 そう思いながら歩く。娘とすれ違いざま、ふと目が合った。
 だからなんだというほどの僅かな瞬間であったけれど、その時、娘は黒目がちな目を細め、人懐っこく笑ったのであった。
 特に挨拶をするでもない。けれど、笑顔であった。松太郎は思わず目を瞬かせ、顔をそらしてしまった。

 跡取り息子である松太郎に微笑みかける女は多い。だから、女に笑みを向けられたくらいで浮かれるような自分ではない。
 けれど、遊女たちの打算尽くの笑みや秋波、媚び――そうしたものとあの娘はまるで無縁であった。まるで子犬が尻尾を振って寄ってきたような、そんな気持ちがした。

 その娘が荒くれも通る街道で客引きをしている。なんとも危なっかしい――
 松太郎はそんなことを考えつつぼうっと歩き、気づけば仲宿を通り越して、用もないのに上宿に辿り着いていた。

 折り返して戻った時、つばくろ屋の前にあの娘の姿はなかった。そのことに少しがっかりした自分を感じた。
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