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番外編
番外編「散る日、照る日」五
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盛元の跡取りになど生まれてしまったから、松太郎の心はいつももやもやとしていたのだ。女郎屋などという業の深い商いを受け継ぐのは嫌なのに、嫌だと言えない。
だから松太郎はいつももやもやとしていた。
けれど、いつからか佐久に会うとそのもやもやが晴れるように思えた。あの朗らかさが、小さなことに思い悩む自分を変えてくれるような気になる。
佐久が、お天道様のように照らしてくれる。
松太郎は用もないのに仲宿へ行き、呼び込みをする佐久に声をかける機会を増やした。そのうちにからかったりもして、佐久の反応を見るのが楽しかった。
盛元の息子ということもあり、つばくろ屋の奉公人たちはあまりいい顔をしないけれど、佐久は大事な一人娘だからそれも仕方がないのだろう。
お互い、跡継ぎだからこそ、一緒にはなれない。だから、佐久が松太郎のもとへ来てくれることはなく、それが叶わぬ願いであることは承知だった。
むしろ、松太郎が気持ちを押し通そうとすると、佐久が不仕合せになる。松太郎の父は、それを口実につばくろ屋を陥れるのではないかと、そんな心配をしたこともある。無理強いをして手に入れても、佐久はもう笑わない気がしたのだ。
そうしてついに、佐久は婿を取ることとなった。
仲睦まじく歩く二人と松太郎は正面から遭遇した。佐久が望んでのことなのだと、松太郎にもわかった。
佐久は誰にでも優しく、親しみを持って接する。それは松太郎以外にもそうであり、佐久を想う男は他にもいる。
――いつか、こんな日が来ると頭のどこかではわかっていた。知っていた。
それでも、いざその日が来た時に自分がこれほど腑抜けるとは思わなかった。
女なんてこの世に一人じゃない。そう考えてみても、女は一人だけではないけれど、自分にとってあれ以上に惹かれる存在はいなかったのだ。
虚しくはあるけれど、考えれば考えるほどに佐久はいい女房になるのだろうと思う。苦しい時も笑って寄り添い、支えてくれる、そんな女房だ。
松太郎があまりに物思いにふけるからか、はつは小さくため息をついた。
「松太郎坊ちゃん、つらい時は泣いたらいいんですよ」
泣けと。
女子供でもあるまいに、そんなことを言われる意味がわからない。莫迦にされているとしか思えなかった。
「莫迦言ってんじゃねぇよ。誰が――」
目を怒らせた松太郎を、はつはぴしゃりと畳を叩いて見据えた。それは、松太郎のような迷いばかりの道を歩く者の目ではない。いつも物腰柔らかく振る舞ってみせるものの、芯は硬く揺るがない。
「いいんですよ泣けば。あたしたちだってそうなんですから。つらい時には人知れず泣いて、そうしてまた次の日に何食わぬ顔をしているんです。泣かないから立派だなんて誰が決めたんですか。人も木も同じ、お天道様がきらきらと照って心地よい日もあれば、風がびゅうびゅう吹いて葉っぱが悲しく散っちまう日もあるんですよ」
「女子供じゃねぇんだ。泣かねぇよ」
「はいはい、そうですか」
拗ねた松太郎が吐き捨てたからか、はつはそう言って膝を浮かせた。
はつの白い素足が畳の上を滑るように歩く。その様を松太郎はぼうっと見ていた。
戸口に手を添え、はつは一度だけ振り返る。
「じゃあ、あたしはこの辺で下がりますけれど、明日にはいつもの松太郎坊ちゃんでいてくださいな」
気を利かせたつもりかと、そういうところが今の松太郎には癪に障る。
「うっせぇな」
去ったはつに届いたかどうかもわからぬようなか細い声だった。松太郎は風の入り込む障子を閉め、そうして、畳の上に転がり、大の字になった。
惚れた娘に想いを伝えることすらできなかったから、こんなにも胸の奥の痛みが引かぬのだ。
それでも、松太郎は佐久の仕合せを願っている。本当に好きだったからこそ、仕合せでいてほしい。
別の男を選んだのだから、苦労して苦労して生きていけとは思わない。惚れた女の仕合せを願える自分であったことに気づき、松太郎はどうしようもない自分であるけれど、その想いだけは唯一誇れるような気がした。
そして、起き上がる頃にはもう少し逞しい自分でありたい。
臆病な自分ではない、そう、散った葉を嘆くことのない、新たに芽を吹かせる木のように――
《了》
だから松太郎はいつももやもやとしていた。
けれど、いつからか佐久に会うとそのもやもやが晴れるように思えた。あの朗らかさが、小さなことに思い悩む自分を変えてくれるような気になる。
佐久が、お天道様のように照らしてくれる。
松太郎は用もないのに仲宿へ行き、呼び込みをする佐久に声をかける機会を増やした。そのうちにからかったりもして、佐久の反応を見るのが楽しかった。
盛元の息子ということもあり、つばくろ屋の奉公人たちはあまりいい顔をしないけれど、佐久は大事な一人娘だからそれも仕方がないのだろう。
お互い、跡継ぎだからこそ、一緒にはなれない。だから、佐久が松太郎のもとへ来てくれることはなく、それが叶わぬ願いであることは承知だった。
むしろ、松太郎が気持ちを押し通そうとすると、佐久が不仕合せになる。松太郎の父は、それを口実につばくろ屋を陥れるのではないかと、そんな心配をしたこともある。無理強いをして手に入れても、佐久はもう笑わない気がしたのだ。
そうしてついに、佐久は婿を取ることとなった。
仲睦まじく歩く二人と松太郎は正面から遭遇した。佐久が望んでのことなのだと、松太郎にもわかった。
佐久は誰にでも優しく、親しみを持って接する。それは松太郎以外にもそうであり、佐久を想う男は他にもいる。
――いつか、こんな日が来ると頭のどこかではわかっていた。知っていた。
それでも、いざその日が来た時に自分がこれほど腑抜けるとは思わなかった。
女なんてこの世に一人じゃない。そう考えてみても、女は一人だけではないけれど、自分にとってあれ以上に惹かれる存在はいなかったのだ。
虚しくはあるけれど、考えれば考えるほどに佐久はいい女房になるのだろうと思う。苦しい時も笑って寄り添い、支えてくれる、そんな女房だ。
松太郎があまりに物思いにふけるからか、はつは小さくため息をついた。
「松太郎坊ちゃん、つらい時は泣いたらいいんですよ」
泣けと。
女子供でもあるまいに、そんなことを言われる意味がわからない。莫迦にされているとしか思えなかった。
「莫迦言ってんじゃねぇよ。誰が――」
目を怒らせた松太郎を、はつはぴしゃりと畳を叩いて見据えた。それは、松太郎のような迷いばかりの道を歩く者の目ではない。いつも物腰柔らかく振る舞ってみせるものの、芯は硬く揺るがない。
「いいんですよ泣けば。あたしたちだってそうなんですから。つらい時には人知れず泣いて、そうしてまた次の日に何食わぬ顔をしているんです。泣かないから立派だなんて誰が決めたんですか。人も木も同じ、お天道様がきらきらと照って心地よい日もあれば、風がびゅうびゅう吹いて葉っぱが悲しく散っちまう日もあるんですよ」
「女子供じゃねぇんだ。泣かねぇよ」
「はいはい、そうですか」
拗ねた松太郎が吐き捨てたからか、はつはそう言って膝を浮かせた。
はつの白い素足が畳の上を滑るように歩く。その様を松太郎はぼうっと見ていた。
戸口に手を添え、はつは一度だけ振り返る。
「じゃあ、あたしはこの辺で下がりますけれど、明日にはいつもの松太郎坊ちゃんでいてくださいな」
気を利かせたつもりかと、そういうところが今の松太郎には癪に障る。
「うっせぇな」
去ったはつに届いたかどうかもわからぬようなか細い声だった。松太郎は風の入り込む障子を閉め、そうして、畳の上に転がり、大の字になった。
惚れた娘に想いを伝えることすらできなかったから、こんなにも胸の奥の痛みが引かぬのだ。
それでも、松太郎は佐久の仕合せを願っている。本当に好きだったからこそ、仕合せでいてほしい。
別の男を選んだのだから、苦労して苦労して生きていけとは思わない。惚れた女の仕合せを願える自分であったことに気づき、松太郎はどうしようもない自分であるけれど、その想いだけは唯一誇れるような気がした。
そして、起き上がる頃にはもう少し逞しい自分でありたい。
臆病な自分ではない、そう、散った葉を嘆くことのない、新たに芽を吹かせる木のように――
《了》
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