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1巻
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しおりを挟む「ほらほら皆、お客様をお送りしないと。急いだ急いだ」
奥から利助の声がした。文吾も佐久に軽く頭を下げて板場へと向かう。
そこから慌ただしく、けれど心を込めて接待し、板場にいる文吾と弥多以外の皆で街道を行く客を見送った。
空は白み出し、ようやく朝というところだ。そんな中をみねが頼りなげに歩いてきた。
みねは何か、すっきりとした顔をしていた。心の整理がついたのだと、佐久はその落ち着いた様子に少しだけ安堵する。みねは体をふたつに折って深く頭を下げた。
「あたしはこれから村へ戻ります。ご親切にしてもらって、このご恩は忘れやしません」
「力になれなくてごめんなさい。またおすえちゃんを連れて遊びに来てくださいね」
すると、みねは力が抜けたように微笑み、もう一度会釈をしてつばくろ屋の面々に背を向けた。すえはむずかっていたものの、やがて二人は遠ざかる。
袖振り合うも多生の縁とはいうけれど、もう、そうそう会うこともないだろう。それでも健やかに過ごしてくれるのなら、それでいい。
「ああ、また埃が立ってますね」
朝一番に清めたけれど、客の出立や荷駄の行き来で砂埃が舞っている。留吉が箒を取りに中へ入った。みねの背中を見送りながら皆が中へと戻る。その時ふと、昨日の女の言葉が思い起こされた。
暖簾を潜ろうとした藤七の背に、佐久は問いを投げかける。
「ねえ、『七つ前は神のうち』ってどういうことなのかしら。七つを超えるまでは病にもなりやすくて儚い命だから、大切にしなくちゃってことじゃあないの」
すると、藤七はぴたりと動きを止めた。振り返った顔つきが何故か怖い。
「どうしたんですか、お嬢さん」
「どうって――」
藤七はひとつ鋭く息をついた。
「子供は神様からの授かりものですが、七つ前の子供は神様に返してもいい――つまり、罪とも思わずに子を間引きする連中がいると聞きます」
「そんな――」
「貧しい農村では育てられぬ子供をそうして殺めるそうですが」
この時、佐久の顔はひどく青ざめていたのだろう。藤七の顔も強張った。
まさかと思う。けれど、絶対にないとは言いきれない。
佐久はぽっくりを履いた足で駆け出した。着物の裾が割れないように手を添えていたけれど、次第にそれどころではないという気になった。佐久の剣幕に街道を行く人々が振り返る。
「お嬢さんっ」
後ろから藤七と、藤七が頼んだのか弥多が追いついてきた。佐久は思わず叫ぶ。
「おみねさんを追って。お願いっ」
弥多は唇を引き結ぶと、佐久を追い越して走り出した。藤七は佐久に合わせながら先を急ぐ。
道の先から幼子の、すえの泣き声がした。走ったせいで着物の前をはだけさせた弥多が、みねに何かを言っていた。その姿を見て、佐久はほっと胸を撫で下ろす。息を整えるとみねに近づいた。
「お嬢さん、何かあたしに御用でしたか」
と、みねは小首をかしげた。佐久はまず、なんと言うべきか慎重に言葉を選んだ。
「あの、これからどうされますか」
すると、みねの顔が怪訝そうに動いた。
「村に帰ると言いませんでしたか」
「お聞きしましたけれど、村に帰ってからどうされるのかと」
佐久のまどろっこしい言い方に、藤七が痺れを切らした。
「村に帰って、ちゃんと子供四人、女手ひとつで育てられるのかと言うのです。娘を妓楼に売ったり、その背中の子を間引いたりせずに」
佐久がハラハラと見守る中、みねは言った。容易く口にするには恐ろしい内容であるのに。
「そ、そんなの、無理に決まっているじゃあないですか。上の二人は十と九つです。今も畑仕事を手伝っていますし、しっかりとした働き手です。でも、このすえは、うちには過ぎた授かりものだったんです」
間引けば親も子も地獄へ落ちるとして、幕府は間引きを禁止している。けれど、それを完全に食い止めるには至らないのが現状である。
大人しかったすえは、火がついたように泣き叫んでいた。すえは生きたいと願っている。少なくとも佐久にはそう感じられた。みねの心中を思うと、佐久も胃の腑がキュッと縮み上がる。
「じゃあどうしろって言うんですか。あの人が育てようって言ったから、あたしは苦しくても耐えたのに――」
みねが涙を溜めた目で佐久を睨んだ。その険しさよりも、零れる涙に佐久は言葉を失う。
すえが憐れだから、と容易には言えない。すえを育てるために一家が共倒れにならないとは限らないのだ。そうして間引かれた子供たちはどれほどの数にのぼるのだろう。
うわあんうわあん、と泣くすえの声が街道の他の音を掻き消していた。通りすがりの人々も何事かと不審がった。みねは嘆息すると、踵を返す。
「それじゃあ、あたしは帰ります」
みねが佐久に背を向けた。涙を拭くみねの、その背中に手が伸びる。
弥多だった。弥多は整った顔を少しも動かさず、みねの横からすえの体を引き抜いたのだ。
「弥多っ」
佐久は驚いて口元を両手で押さえた。藤七は眉間に深く皺を刻み、様子を窺っている。みねの大人しそうな顔が般若の形相に変わるのを、佐久は目の当たりにした。
「何すんですか、あたしの子ですよっ」
「間引くのなら要らないのでしょう」
背筋がスッと寒くなるような声だった。弥多はいつも優しい。けれど、こうして表情を消した時、整った顔には凄みが増す。みねは大きく震え出した。
「そ、それでも、あたしはすえに責があるんです。あたしの子なんです」
殺めることを責と言う。生きてほしいと願うことは責ではないのだろうか。甘いことを言うなと怒られるかもしれない。それでも、佐久はただ悲しくなって涙が溢れる。
藤七はそんな佐久を見遣ると、嘆息した。そうして、落ち着いた声音でみねに告げる。
「十日間おすえちゃんを預かりましょう。十日経ったら迎えに来てください。それからおみねさんの気持ちを伺います。今のあなたは少し頭を冷やした方がいい」
「あたしは――」
「鏡を見てご覧なさい。それが母親の顔ですか」
その鋭い藤七のひと言に、みねは顔を隠すように両手で覆った。そのまま、一度も振り向かずに駆け去る。浴衣も着崩れたその背中に、すえの泣き声はどう響いたのだろうか。
佐久の涙がぽたりと地面に落ち、土の上に濃い染みを作る。自分の情けはみねにとって、傷口に塗りたくられた塩なのではないかという気になった。
「ご亭主のことで傷ついたおみねさんに、わたしはひどい仕打ちをしてしまったのかしら」
ぽつりとそんな言葉を零すと、泣き喚くすえを抱いた弥多がそばで言った。
「物心もつかない幼子を親の勝手で殺める、そんなことは私にも我慢ならないのです。どんなことをしても子を生かそうとする親だっているのですから」
すえを抱く弥多の手に力がこもる。弥多の心の奥には、もしかすると佐久の知らない傷があるのかもしれない。なんとなくそんなことを思った。
この場で一番落ち着いていたのは藤七だ。
「ほら、戻りましょう。商い中、おすえちゃんを誰に預けるのか、もらい乳ができるところも探さなくてはなりません。これから少なくとも十日は忙しいですよ」
「う、うん」
佐久はようやく涙を拭いた。泣き顔で客を迎えることなどできない。無理にでも笑っていなければ。
帰り道、すえの涙も止まっていた。泣き疲れたのか、弥多の腕の中でうとうととしている。すえを抱えてつばくろ屋に戻ると、日出と利助は目を丸くした。
「えっと、しばらく預かることになったの」
「本気ですか、お嬢さんっ」
日出の大声に首をすくめた佐久を庇うようにして、すえを抱いた弥多が前に出る。
「私がしたことです。お嬢さんのせいでは――」
そんな弥多のことを、日出はぴしゃりと黙らせた。
「誰のせいでもおんなじだよ。その年の子が母親と離れて生きていくのがどんなに大変なことだと思っているんだい。猫の子じゃあないんだ、食わせていけるつもりかい」
日出も三人の子供の母である。その日出に、独り者でその上住み込みの弥多が言い返せるはずもなかった。
ただ、これは弥多を通して佐久にも言いたいことなのだと感じて、佐久は項垂れた。利助もため息をつく。
「藤七、お前がついていてなんてことだ」
「あいすみません」
藤七に頭を下げさせたことも佐久には心苦しい。
「とりあえず十日、様子を見て、その後のことはそれから考えるわ」
佐久がそう言うと、日出は厳しい目を更に険しくした。
「十日経てば、おみねさんは迎えに来ると言ったのですか」
「それは――」
「捨てたんですね。この子を」
「っ――」
「あの白い歯を見たらおわかりでしょうに。おみねさんは、歯を黒く染めるための道具さえそろえられない貧しい人ですよ。亭主がいないなら子供も育ててはいかれないのでしょう。かといって、みんな日々の生活で精一杯。人様の子を育てるゆとりはありゃしません」
しょんぼりと肩を落とす佐久と弥多だった。すると、板場から文吾が前掛けを締め直しながらやってくる。
「なんでぇ、騒がしい。おい、弥多、いつまで油売って――」
喧嘩口調で言いかけたものの、その弥多の腕の中に眠ったすえがいたものだから声を落とした。
「帰ったんじゃなかったのかよ」
「オヤジさん、実は少しわけありで、預かることになってしまいました」
預かるぅ、と素っ頓狂な声を出してしまい、慌てて口を押さえた文吾だが、すえを見る目つきは優しかった。
「そうか。うちの長屋には赤ん坊抱えた若ぇ母親がいるから、もらい乳できるか頼んでみてやらぁ。まあ、おすえちゃんはもうそろそろ乳以外のものも食っていけると思うんだがなぁ」
「それはありがたいわ」
佐久が喜ぶも、日出は深々と息をついた。
「まあ、今更何を言っても仕方ありゃしません。さあ、仕事仕事」
佐久は慌てて弥多からすえを預かる。
「とりあえず寝かせておくわ。『鶴の間』でいいかしら」
「そうですね、座布団を出しましょう」
藤七がそう答え、共に来てくれた。
「弥多、さっさと手と足洗ってきな」
「へい」
皆、遅れを取り戻すべく慌ただしく働いた。遅くなった朝餉の膳を伊平に届けてから、佐久も一緒に食事を取る。その間も皆が交代ですえの様子を気にしてくれていた。
伊平に事情を説明すると、伊平はそうかとだけ零した。昨日は厳しいことを言ったけれど、そうした事情ならば、もううるさくは言わないという心が見える。
「こうなったからには仕方がないね。そのすえという子がどうにもならないのなら、うちの養女にするかい。苦労するのはお前だけれど、お前にその覚悟があるのならあたしは構わないよ。後で連れてきなさい」
「おとっつぁん、ありがとうございます」
佐久は膳をどけて三つ指を突くと、父に向けて深々と頭を下げた。
●
すえを預かって十日が過ぎた。けれど、みねは現れなかった。
結局のところ、すえはみねにとって間引くつもりだった子だ。迎えになど来るはずがない。そう言ってしまえばそれまでなのだけれど、いざこの時が来てみると、佐久はその事実を受け止められなかった。きっと来てくれると、心のどこかでは思っていたのだ。母親がそう簡単に子を捨てられるはずがないと。
だから佐久はその心に、みねが来ない理由を与えたかったのかもしれない。みねはここへ来ようとしたけれど、何か理由があって来られなくなってしまったのではないかと。きっとそうに違いない。それならば、こちらから一度様子を見に行くべきではないだろうか。
佐久はその考えを伊平に告げた。優しい父ならば、そうだね、とうなずいてくれると思っていた。けれど、伊平はいつになく厳しい顔を佐久に見せたのだ。
「お佐久、いい加減にしなさい」
「え――」
「だから、現は優しいばかりじゃあないと言っただろう。会いに行って、それで、おみねさんの口から要らないと言わせるつもりかい。どんなに自分が育てたくともそれができない、そうしたお人の口からそれを言わせたいのかい」
そんなつもりはない。ないけれど、結果としてそうなることもある。佐久の頭からは都合の悪いことはすべて抜け落ち、ただ自分が思い描いた先だけを望んでいた。その甘さを伊平が突いたのだ。優しい父がこんなにもはっきりと怒ったことが今までにあっただろうか。それほどまでに自分が浅はかであったのだ。
「ごめんなさい、わたし――」
すえは不憫だ。だからと言って、みねが不憫でないわけではない。
はらりと涙を零した佐久に、伊平の小さなため息が聞こえた。
「それでもいつか、時が経ったらまたあの二人が出会えることもあるかもしれないよ。今はそっとしておいてあげなさい。わかったね」
「はい――」
みねは自分がすえを迎えに行ったら、すえを間引くしかない。すえを迎えに行かないことで生きていてほしいと願いを託したのではないだろうか。そんな甘い考えは、莫迦だと言われてしまうかもしれない。けれど、佐久はせめてそう思いたかった。
それから、すえのことは文吾の長屋の人々がよく面倒を見てくれた。けれど、ずっと世話になるのも悪いので、一日おきにつばくろ屋に連れてきてもらい、佐久はすえを背負って仕事をした。すえは弥多が仕事の合間に作ってくれたものをよく食べた。弥多は味噌漉しを通した芋に出汁を加えて食べやすくしてみたりと、甲斐甲斐しいものである。
それでも、母を恋しがって泣くすえの姿に、皆は心を痛めるばかりであった。
そのうちに月が巡った。暦は四月。先月は慌ただしく過ぎ、ゆっくりと花見をすることもなかった。すでに街道に散った桜の花びらさえ見えなくなった葉桜の頃。
佐久たちが客を見送り終えて中に入った途端、サッと暖簾がはねのけられた。客かと思って振り返ると、そこにいたのは、平尾宿の旅籠『盛元』の跡取り松太郎であった。飯盛旅籠、つまりは妓楼の息子であるせいか、常に脂粉の臭いをさせている気がする。黒尽くめの引きずるような長い裾、合わせる小物は唐渡りか。
松太郎は、顔がだらしないとか、脂下がっていて癪に障るとか、とにかく日出から嫌われていた。女郎屋の息子という部分も大きいのだろう。帳場に座る利助も軽く挨拶したのみである。
「あら、松太郎さん」
佐久が笑顔を向けると、松太郎は小脇に抱えた油紙を佐久に差し出す。
「ほらよ」
とっさに受け取ると、少し重みを感じた。松太郎の得意満面の笑みに佐久は小首をかしげる。
「なあに、これ」
「さくだ」
更に首をかしげた佐久を見て、松太郎はケタケタと腹を抱えて笑い出す。
「初鰹のさくだ。うちの親父が買ってきたんだ、食いてぇだろうと思って持ってきてやったんでぇ」
「ええ――っ」
さく、つまり短冊状の身の塊である。
江戸といえば初鰹。風俗事典『嬉遊笑覧』によると――
江戸にて初もののもつとも勝れて賞せらるるは鰹なり。
――とされ、女房を質に置いてでも食べたいとまで言わしめた。
五日もすれば値崩れを起こすというのに、その高直な時に買い求め、人に振る舞うことを粋としていたのだ。
ただし――
この時、天保十四年。
庶民の羨望の的であった初鰹も、天保期には漁獲量が増え、以前のような熱狂振りは見られなくなって久しい。とはいえ、なんと言っても初物である。鰹に限らず、初物には相応の価値がある。時季にもならぬのに初物といって値を釣り上げるなと、度々町触れが出されるほどだった。
佐久が喜びに打ち震えていると、松太郎の笑い声が気になったのか、土間の方に弥多が顔を覗かせた。何度かつばくろ屋を訪れている松太郎だが、弥多と顔を合わせたのは多分初めてのことだ。大抵の人は弥多の整った顔に気後れする。勝気に思える松太郎も、弥多の視線には言葉が出ない様子だった。
「うちの料理人で、脇板の弥多よ」
弥多が頭を下げても松太郎はそっぽを向いた。それが松太郎らしいとも思う。佐久は弥多に輝く笑顔を向けて、初鰹を差し出した。
「これ、松太郎さんがおとっつぁんにって」
「え――」
松太郎から鈍い声が漏れたけれど、欣喜雀躍せんばかりの佐久は気づかない。
「初物は寿命を七十五日延ばすって言うもの。ありがたいわねぇ」
帳場格子から抜け出してきた利助も満面の笑みだった。
「おやおや、それはありがたい。松太郎さん、旦那さんのためにありがとうございます」
と、利助が頭を下げると、どこからともなく現れた日出と藤七までもがにこにこと笑顔で言った。
「まあ、旦那さんのためにわざわざ」
「さすが松太郎さん。旦那さんもきっと喜んでくださいます」
礼を言っているはずが、どこか畳みかけるようでもある。弥多も少ぅし笑みを浮かべ、ありがとうございます、と再び頭を下げた。
「ありがとう、松太郎さん」
佐久も頬を染めて礼を言った。
松太郎は何かを言いたいような複雑な顔をしたが、結局、
「おうよ」
とだけ言い捨てて去っていった。
その直後、つばくろ屋の奉公人たちは、こらえきれぬように噴き出した。もちろん、佐久はそんな皆に訝しげな顔をしていたが。
思わぬ形で手に入った初鰹は、せっかくだから皆で食べようと伊平が言ってくれた。今日は無礼講だと、居間に皆を集めた。文吾が切ってくれた初鰹が大皿に見栄えよく盛られている。芥子味噌、芥子酢、芥子醤油、弥多がすりこ木ですって用意してくれた薬味で皆が食した。すえにはまだ無理なのが気の毒だ。
魚河岸で水揚げされて間もないものをくれたようで、透き通った赤味に臭みはない。縞模様の粋な魚は、つばくろ屋の皆の寿命を延ばしてくれるだろうか。
●
それからも慌ただしい日が続いていた。街道を行き交う人は、参勤交代の侍たち以外にも多いのである。
表で佐久が柄杓で打ち水をしていると、留吉がおろおろとし始めた。
「そいつはおいらの仕事ですよぅ」
「いいじゃないの、たまには」
「じゃあ、じゃあ、おいらは何をしたらいいんでございますか」
「そうねぇ、思いつかないわねぇ」
「そんなぁ」
からかってみても可愛い留吉ではあるけれど、真剣に困っているふうだった。後で藤七に怒られても可哀想なので、佐久は諦めて留吉に柄杓と桶を返そうとする。その時、街道を慌ただしく走る二人組の飛脚がつばくろ屋の前で足を止めた。この初夏の時季、てらてらと汗で光る日に焼けた肌を惜しげもなくさらしている。
「板橋仲宿つばくろ屋ってぇのはここだな」
「ええ」
「ほら、文吾ってお人に文だよ。渡してくんな」
「文吾にね。ありがとう」
文吾の子供たちからたまにこうして文が来る。子供とはいっても、利助くらいの年頃なのだが、息子二人と娘は江戸の神田と深川にいる。
「さっそく渡してくるわ」
「あい」
留吉はこれで仕事を取られなくなったと、ほっとしているに違いない。
板場へ向かうと、すえの泣き声がした。何事かと思って戸を開ければ、醤油の甘辛い匂いと熱気がして、すえを背負った弥多が煮しめの味を見ているところだった。背中でああも泣かれて味などわかるのだろうか、と佐久は可笑しくなる。
「文吾、十七屋(町飛脚)さんが来てくれたわよ」
佐久は俎板の前の文吾に向き直った。泣き喚くすえに負けないように声を飛ばし、畳の上に文を置く。それから竈の前の弥多の背中からすえを取り上げた。佐久が抱いてやると、すえはぴたりと泣くのをやめる。
「あ――」
弥多は申し訳なさそうに首をすくめた。
そんな二人を見て、文吾はカカッと笑う。
「ガキのことに関しちゃ、ヤローが女に勝てるわきゃねぇんだよ」
「よしよし、おすえちゃんはいい子ねぇ」
きゃっきゃと急に笑顔になったすえ。その表情のなんと可愛らしいことか。自分が抱いて泣きやんでくれると、佐久も嬉しくて仕方がない。
「お嬢さんはきっといいおっかさんになりやすよ。お嬢さんみてぇな嫁をもらえる男は、そりゃあ果報モンだ。な、弥多」
「へ、へい。そう、ですね――」
急に文吾から振られたせいか、弥多は返答に困っているように見えた。声が妙に小さい。子供っぽい佐久が母親になる姿など、まだ想像もできないのだろうか。
そんな弥多に文吾はケッと吐き捨てたかと思うと、今度はニヤニヤと笑って言う。
「特におめぇはガキの扱いが下手だかんな、お嬢さんみてぇな嫁をもらわねぇとどうにもなんねぇぞ」
その途端、パリンと音がした。弥多は、手にしていた味見用の小皿を竈に落として割ってしまったのだ。弥多にしては珍しい失敗である。
「あ、す、すみませんっ」
「馬鹿野郎がっ。おめぇ、何年ここで働いてるんだ、ええっ」
文吾に叱られ、弥多は耳まで赤くしてうろたえていた。一方の文吾は、大人しくしていたすえがまたぐずりそうだったので、すぐに怒りをおさめる。
文吾はどっこらしょ、というかけ声で座り直し、さっき受け取った文を広げた。何度も何度も文を目で追い、やがて、深々とため息をつく。佐久は小首をかしげた。
「文、お子さんからでしょう」
「へい、娘のお里からでやす」
それにしては嬉しそうではない。何か厄介事だろうか。すえも大人しくなり、コトコトと煮しめの煮える音と匂いだけがする。
佐久も弥多も詳細を訊けずにいると、文吾の方からぽつりと零した。
「その、うちのがお里に文で知らせちまったらしくて」
「何をかしら」
いつになく歯切れが悪い。文吾らしくもない。
「いえ、おすえちゃんのことでさ。こうこうこういうワケアリの子をみんなで預かってるって」
「うん、それで」
佐久はまだ気づかなかったけれど、弥多は何かを察したようだ。ハッとした表情を浮かべている。
文吾はしょんぼりと言った。
「嫁にやったお里は今年で三十三になりやした。なのに、子のひとつもねぇんです」
それで離縁されずにいるとは、よほど優しい亭主と姑に恵まれたようだ。
「石女ですからね、そりゃ肩身も狭かろうとあっしら二親がいつも気が気じゃねぇのは確かでさ。うちのが先走った真似をしたのも、娘可愛さ。――お里のヤツは、ぜひおすえちゃんに会いてぇと、こう言ってやがるんですよ」
どうして、ほしいと願うところに神仏は赤ん坊を授けてくださらないのか。
文吾がそうした話をするのは珍しい。家のことを仕事に持ち込まない職人気質の人だからこそ、文吾がこの話を切り出した覚悟は相当なものだろう。けれど――
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