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それから
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そうして、その翌朝のこと――
高弥が切り札と称した想念がやってきたのである。
飄々としたこの僧は、帳場格子の中に座す男に目を留め、そうして首をかしげた。
「おや、あやめ屋を訪れたつもりだったのだが」
高弥は急いで台所から飛び出した。
「そ、想念様っ」
その顔を見たかったと、高弥は想念を前にして心から思った。
なんとも言えない不思議な安心感がある。荒んだ心に風が吹き、ほっと体の力が抜けていくようだった。
そんな高弥の心境を今来たばかりの想念が知るはずもない。
「おお、高弥。元助はどうした。そこに座っておるしか能のない男のことだ」
にこやかにひどいことを言った。
しかし、想念はこれでも元助の友である。言葉の裏には親愛もある、はず。
「げ、元助さんは――」
彦佐がギロリと高弥を睨んだ。ここではできない話かもしれない。
高弥は一度引っ込むと、岡持桶を持って想念の袖を引きながら外へ連れ出した。
「買い出しに行ってきやすっ」
想念はまだ首をひねっている。元助がいるべき場所にいない理由が、久々に訪れた想念にはわからないからだろう。高弥はため息交じりに言った。
「想念様にお会いできてよござんした。実は、大変なことになっておりやして」
「ふむ。あの帳場の男、あやめ屋の御亭主に瓜二つだったな。白昼に夢でも見ているのかと疑いたくなったほどだ」
驚いていたようには見えなかったが、驚いていたらしい。
「想念様も女将さんの旦那さんをご存じなんですかい」
「少しばかりはな。気持ちのいい御仁であったよ」
二人は歩き出しながら語る。想念も忙しい身なのだ。そう長く寺を離れていられるわけではない。
高弥は手短に元助が出ていったことを語るのだった。
墨染の僧形は、この寺院の多い品川宿にあっても少しばかり浮いて見えた。想念は僧らしからぬところがあるせいかもしれない。
「元助さんと付き合いの長ぇ想念様なら、元助さんの行きそうなところに心当たりはございやせんか」
「あれが行きそうなところなんぞ、厠か湯屋か墓前くらいだ。とんと見当もつかん」
「想念様まで、そんな――」
あまりにあっさりと言うから、高弥の方がしょげてしまいそうだった。
けれど、高弥が諦めては、誰が元助を連れ戻せるというのだ。気弱になるな、と高弥は己を奮い立たせる。
「いや、でも、元助さんなら本気であやめ屋を見捨てたりできねぇんじゃねぇかと――」
そんなのはお前の願望だ、と想念ならばバッサリと切って捨てるかもしれない。想念は、言われたくない言葉を的確に、一番痛みを伴うようにして言う時がある。
目を背けたくなる事実を突きつけてくる。以前がそうであった。
しかし、その先にはなんらかの気づきがある。ただ、この場合、元助はもう戻らないなどと気づかされたくはないのだ。
想念はふと笑みを浮かべた。
「そうだな。それならば、そう遠くへは行っておらんだろう。近くにいるのなら、すぐに見つかるのではないかな」
随分と楽天的なことを言う。しかし、それならばこの数日、何故元助を見つけることができないのだろう。
そうは思うものの、想念が見つかると言ってくれたのなら見つかる気がしてきた。高弥にはその言葉が、涙が出るほどに嬉しかった。
「そう願いてぇと思いやす」
それから八百晋の前まで来ると、高弥は想念を見送った。想念は過ぎてゆく人の流れの中、去り際に一度振り返る。
「高弥」
「へ、へい」
「おぬしが今、この品川宿にいたことが元助にとっての幸いであったと、私は思うのだがな」
目を瞬かせる高弥に、想念はニヤリと僧に似つかわしくない笑みを浮かべ、それからまっすぐに伸びた背中を見せて去っていった。
本当に、幸いであったのならいい。
高弥は岡持桶の柄を握り締めて顎を引いた。
とぼとぼと八百晋の方に近づくと、晋八も由宇も困った顔をしていた。その顔を見ただけでまだ手がかりはないのだとわかった。
「政吉もいつも以上にあちこち歩き回ってるんだがなぁ」
「あんなでかい図体をして、かくれんぼが上手なんて、一体どういうことだって言いてぇくれぇで」
高弥と晋八はそう言い合って同時にため息をついた。
それはそれとして、秋も間近だ。南瓜が出ていた。
「あっ、南瓜っ」
「おお、初物だぞ」
初物は少しばかり値が張るが、南瓜はていと、それから志津の好物である。これならていもたくさん食べてくれるのではないだろうか。
「南瓜くださいっ」
「まいどあり」
元助は見つからないが、南瓜は嬉しい。まだ少し甘みが足りないかもしれないから、そこは味を調節しながら煮ていこう。
南瓜をふたつ、岡持桶の中に大事に入れて高弥はあやめ屋に戻る。その時、宿先をうろつくがらの悪い男がいた。なんだろう、と高弥は顔をしかめかけ、そうしてハッと気づいた。
あれは、湯屋の二階で腕押しの勝負をした男だ。高弥はそれに気づくなり、人混みを掻き分けて駆け寄った。
「兄さんっ」
だらしなく着物の合わせ目をはだけさせていた男は、高弥を見るなりほんの少し親しみやすく笑った。
「高弥、おめぇ、出かけてるとかふざけんなよ。せっかく来てやったのによ」
「すいやせん、青物屋まで買い出しに行っておりやした」
高弥も笑って返すと、男は高弥の耳を手荒に引っ張った。いでっ、と高弥は声を上げたが、男は手を放さずにそのまま高弥の耳元で言った。
「元助を見たってやつがいたぞ」
「えっ」
「馴染みの女に会いに行った帰り、高輪の飲み屋で見たらしいぜ」
「高輪ぁっ」
まさか品川の外に出ていたとは。しかし、高輪は品川のすぐ隣。遠くには行っていないと言っても間違いではないのかもしれない。
ただ、そこで見たという証言が本当だとしても、元助には足があり、自らの意思で動き回る。それを捕まえるには急がねばならないだろう。
しかし、高弥にはこの南瓜を煮るという仕事がある。宿の仕事を放り出してまで迎えに行ったら、そこは元助に叱られる。
高弥は今すぐにでもそこに向かいたいのをグッと堪えながら言った。
「ありがとうございやす。飲み屋の名まではわかりやせんか」
「名は知らねぇが、場所は聞いたぜ。品川から発って高輪北丁の最初の横道を折れたらすぐだってよ。當光寺の門前を越えたところだ」
高弥は頭の中に男の言葉を書き込むようにして覚えた。これだけが元助に繋がる手掛かりなのだ。
「助かりやす。兄さん方の男気、決して忘れやせん」
見た目は近寄りがたいが、筋は通す。約束事は必ずである、そうした男たちだ。
高弥が心から感謝を述べると、へっ、と軽く笑った。
「いいってことよ。じゃあな」
男が去っていった後、高弥はしばらくその場に立ったままでつぶやいた。
「高輪かぁ」
とっぷり日が暮れたら行けそうもない。かといって、まごついていてはまた元助を見失う。
誰かが行ってくれたら、と思うものの、その誰かとは誰なのだ。ていであればいい。しかし、弱っているていに元助を迎えに行けとは言えない。
あの日、追いすがって、それでもつかみきれなかった高弥が行くべきかと、やはりそう思う。
ただ、仕事がある以上、どのようにしてそこまで行けばいいのか――
色々と悩ましくはあるけれど、高輪近辺にいるということがつかめただけでもよかった。今はそう思うことにした。
気を取り直して宿の中に戻ると、帳場から彦佐の冷たい目が高弥を迎え入れた。かと思うと、色の薄い唇の端がツイ、と持ち上がる。胸の奥がざわつくけれど、高弥はそこから逃げず、目も背けずに彦佐に向き合った。
「只今戻りやした」
そんな態度も気に入らないのだろう。わかっているが、高弥には怯えたり目を逸らさねばならない理由もない。
すると、彦佐は目を細め、なんとも嫌な口調で言った。
「お前さん、あんな破落戸とも親しいのかい。お前さんはいるかって名指しでわざわざ訪ねてきたんだ」
「湯屋で時々一緒になりやす。見た目は怖ぇんですけど、話してみたら気さくな兄さんでござんした」
へぇ、と彦佐は高弥の言葉を鼻で笑った。それから、底冷えのする目を高弥に向け続け、ボソリと言った。
「なあ、平次はお前がいるとなかなか自分の思うような料理ができねぇ。お前さんはどうせ板橋に帰るんだから、ここの台所は平次が主立って仕切るべきじゃあねぇのかい」
いきなりそんなことを言われた。手が岡持桶の柄に食い込むほどに強く握りしめ、高弥はなんとかして感情を押さえ込む。
「平次さんはまだ料理を初めて間もねぇんで、いきなりってわけには行きやせんが、いずれはそのつもりをしておりやす」
「いずれなぁ」
と言って、彦座は小さく笑った。その声も、何もかもが高弥の怒りを誘っているようにしか思えなかった。誘いに乗ってはいけない、と己を律する。
「平次の方がこのあやめ屋では長いんだろ。後から来たお前さんにあれこれ指図されて、本気で喜んでると思っているのかい」
「指図とか、そういうんじゃあありやせん」
知ったふうなことを言うなと怒鳴ってやりたい。頭に血が上る。
けれど、いけない。今、揉め事を起こしてはあやめ屋が駄目になる。そう思って耐えた。
「とにかく、夕餉の支度がございやすので」
高弥は軽く頭を下げると、台所へ入り、戸をピシャリと閉めた。それでも、そこに彦佐がいると思うと、心に波風が立つようであった。ギリ、と奥歯を噛み締めて気を静めていると、平次が不思議そうに高弥に声をかけてきた。
「高弥、どうした」
「――いえ、なんでもありやせん」
顔を上げ、笑ってみせる。平次は糸目を何度か瞬かせた。
平次は高弥に指図をされていい気がしないと、彦佐はそんなふうに言う。けれど、平次は指図をされるよりも何よりも、己の才覚ですべてこなせと突き放される方がつらい、そうしたところがある。もともと自ら動ける方ではなかった。だから、少しずつそれを変えていくしかない。
いつかは彦佐の言う通り、このあやめ屋の台所を仕切れるようにならねばならないのだから。
――しかし、高弥は教えているつもりで、本当は手を出しすぎているのかもしれない。
もっと平次が主体になるように、高弥は出しゃばらずに支えていかなくてはならないところを、高弥はたどたどしくて見ていられないからと手を出してはその成長の妨げとなっている。
それも少しばかりはあるのかと、高弥は彦佐の言葉に揺さぶられるつもりなどなかったのに、気づけば不安を滲ませている。
これではいけない。高弥は気を取り直して岡持桶の中から南瓜を取り出すのだった。
ていと志津、浜も南瓜をきっと喜んでくれるだろう。
高弥が切り札と称した想念がやってきたのである。
飄々としたこの僧は、帳場格子の中に座す男に目を留め、そうして首をかしげた。
「おや、あやめ屋を訪れたつもりだったのだが」
高弥は急いで台所から飛び出した。
「そ、想念様っ」
その顔を見たかったと、高弥は想念を前にして心から思った。
なんとも言えない不思議な安心感がある。荒んだ心に風が吹き、ほっと体の力が抜けていくようだった。
そんな高弥の心境を今来たばかりの想念が知るはずもない。
「おお、高弥。元助はどうした。そこに座っておるしか能のない男のことだ」
にこやかにひどいことを言った。
しかし、想念はこれでも元助の友である。言葉の裏には親愛もある、はず。
「げ、元助さんは――」
彦佐がギロリと高弥を睨んだ。ここではできない話かもしれない。
高弥は一度引っ込むと、岡持桶を持って想念の袖を引きながら外へ連れ出した。
「買い出しに行ってきやすっ」
想念はまだ首をひねっている。元助がいるべき場所にいない理由が、久々に訪れた想念にはわからないからだろう。高弥はため息交じりに言った。
「想念様にお会いできてよござんした。実は、大変なことになっておりやして」
「ふむ。あの帳場の男、あやめ屋の御亭主に瓜二つだったな。白昼に夢でも見ているのかと疑いたくなったほどだ」
驚いていたようには見えなかったが、驚いていたらしい。
「想念様も女将さんの旦那さんをご存じなんですかい」
「少しばかりはな。気持ちのいい御仁であったよ」
二人は歩き出しながら語る。想念も忙しい身なのだ。そう長く寺を離れていられるわけではない。
高弥は手短に元助が出ていったことを語るのだった。
墨染の僧形は、この寺院の多い品川宿にあっても少しばかり浮いて見えた。想念は僧らしからぬところがあるせいかもしれない。
「元助さんと付き合いの長ぇ想念様なら、元助さんの行きそうなところに心当たりはございやせんか」
「あれが行きそうなところなんぞ、厠か湯屋か墓前くらいだ。とんと見当もつかん」
「想念様まで、そんな――」
あまりにあっさりと言うから、高弥の方がしょげてしまいそうだった。
けれど、高弥が諦めては、誰が元助を連れ戻せるというのだ。気弱になるな、と高弥は己を奮い立たせる。
「いや、でも、元助さんなら本気であやめ屋を見捨てたりできねぇんじゃねぇかと――」
そんなのはお前の願望だ、と想念ならばバッサリと切って捨てるかもしれない。想念は、言われたくない言葉を的確に、一番痛みを伴うようにして言う時がある。
目を背けたくなる事実を突きつけてくる。以前がそうであった。
しかし、その先にはなんらかの気づきがある。ただ、この場合、元助はもう戻らないなどと気づかされたくはないのだ。
想念はふと笑みを浮かべた。
「そうだな。それならば、そう遠くへは行っておらんだろう。近くにいるのなら、すぐに見つかるのではないかな」
随分と楽天的なことを言う。しかし、それならばこの数日、何故元助を見つけることができないのだろう。
そうは思うものの、想念が見つかると言ってくれたのなら見つかる気がしてきた。高弥にはその言葉が、涙が出るほどに嬉しかった。
「そう願いてぇと思いやす」
それから八百晋の前まで来ると、高弥は想念を見送った。想念は過ぎてゆく人の流れの中、去り際に一度振り返る。
「高弥」
「へ、へい」
「おぬしが今、この品川宿にいたことが元助にとっての幸いであったと、私は思うのだがな」
目を瞬かせる高弥に、想念はニヤリと僧に似つかわしくない笑みを浮かべ、それからまっすぐに伸びた背中を見せて去っていった。
本当に、幸いであったのならいい。
高弥は岡持桶の柄を握り締めて顎を引いた。
とぼとぼと八百晋の方に近づくと、晋八も由宇も困った顔をしていた。その顔を見ただけでまだ手がかりはないのだとわかった。
「政吉もいつも以上にあちこち歩き回ってるんだがなぁ」
「あんなでかい図体をして、かくれんぼが上手なんて、一体どういうことだって言いてぇくれぇで」
高弥と晋八はそう言い合って同時にため息をついた。
それはそれとして、秋も間近だ。南瓜が出ていた。
「あっ、南瓜っ」
「おお、初物だぞ」
初物は少しばかり値が張るが、南瓜はていと、それから志津の好物である。これならていもたくさん食べてくれるのではないだろうか。
「南瓜くださいっ」
「まいどあり」
元助は見つからないが、南瓜は嬉しい。まだ少し甘みが足りないかもしれないから、そこは味を調節しながら煮ていこう。
南瓜をふたつ、岡持桶の中に大事に入れて高弥はあやめ屋に戻る。その時、宿先をうろつくがらの悪い男がいた。なんだろう、と高弥は顔をしかめかけ、そうしてハッと気づいた。
あれは、湯屋の二階で腕押しの勝負をした男だ。高弥はそれに気づくなり、人混みを掻き分けて駆け寄った。
「兄さんっ」
だらしなく着物の合わせ目をはだけさせていた男は、高弥を見るなりほんの少し親しみやすく笑った。
「高弥、おめぇ、出かけてるとかふざけんなよ。せっかく来てやったのによ」
「すいやせん、青物屋まで買い出しに行っておりやした」
高弥も笑って返すと、男は高弥の耳を手荒に引っ張った。いでっ、と高弥は声を上げたが、男は手を放さずにそのまま高弥の耳元で言った。
「元助を見たってやつがいたぞ」
「えっ」
「馴染みの女に会いに行った帰り、高輪の飲み屋で見たらしいぜ」
「高輪ぁっ」
まさか品川の外に出ていたとは。しかし、高輪は品川のすぐ隣。遠くには行っていないと言っても間違いではないのかもしれない。
ただ、そこで見たという証言が本当だとしても、元助には足があり、自らの意思で動き回る。それを捕まえるには急がねばならないだろう。
しかし、高弥にはこの南瓜を煮るという仕事がある。宿の仕事を放り出してまで迎えに行ったら、そこは元助に叱られる。
高弥は今すぐにでもそこに向かいたいのをグッと堪えながら言った。
「ありがとうございやす。飲み屋の名まではわかりやせんか」
「名は知らねぇが、場所は聞いたぜ。品川から発って高輪北丁の最初の横道を折れたらすぐだってよ。當光寺の門前を越えたところだ」
高弥は頭の中に男の言葉を書き込むようにして覚えた。これだけが元助に繋がる手掛かりなのだ。
「助かりやす。兄さん方の男気、決して忘れやせん」
見た目は近寄りがたいが、筋は通す。約束事は必ずである、そうした男たちだ。
高弥が心から感謝を述べると、へっ、と軽く笑った。
「いいってことよ。じゃあな」
男が去っていった後、高弥はしばらくその場に立ったままでつぶやいた。
「高輪かぁ」
とっぷり日が暮れたら行けそうもない。かといって、まごついていてはまた元助を見失う。
誰かが行ってくれたら、と思うものの、その誰かとは誰なのだ。ていであればいい。しかし、弱っているていに元助を迎えに行けとは言えない。
あの日、追いすがって、それでもつかみきれなかった高弥が行くべきかと、やはりそう思う。
ただ、仕事がある以上、どのようにしてそこまで行けばいいのか――
色々と悩ましくはあるけれど、高輪近辺にいるということがつかめただけでもよかった。今はそう思うことにした。
気を取り直して宿の中に戻ると、帳場から彦佐の冷たい目が高弥を迎え入れた。かと思うと、色の薄い唇の端がツイ、と持ち上がる。胸の奥がざわつくけれど、高弥はそこから逃げず、目も背けずに彦佐に向き合った。
「只今戻りやした」
そんな態度も気に入らないのだろう。わかっているが、高弥には怯えたり目を逸らさねばならない理由もない。
すると、彦佐は目を細め、なんとも嫌な口調で言った。
「お前さん、あんな破落戸とも親しいのかい。お前さんはいるかって名指しでわざわざ訪ねてきたんだ」
「湯屋で時々一緒になりやす。見た目は怖ぇんですけど、話してみたら気さくな兄さんでござんした」
へぇ、と彦佐は高弥の言葉を鼻で笑った。それから、底冷えのする目を高弥に向け続け、ボソリと言った。
「なあ、平次はお前がいるとなかなか自分の思うような料理ができねぇ。お前さんはどうせ板橋に帰るんだから、ここの台所は平次が主立って仕切るべきじゃあねぇのかい」
いきなりそんなことを言われた。手が岡持桶の柄に食い込むほどに強く握りしめ、高弥はなんとかして感情を押さえ込む。
「平次さんはまだ料理を初めて間もねぇんで、いきなりってわけには行きやせんが、いずれはそのつもりをしておりやす」
「いずれなぁ」
と言って、彦座は小さく笑った。その声も、何もかもが高弥の怒りを誘っているようにしか思えなかった。誘いに乗ってはいけない、と己を律する。
「平次の方がこのあやめ屋では長いんだろ。後から来たお前さんにあれこれ指図されて、本気で喜んでると思っているのかい」
「指図とか、そういうんじゃあありやせん」
知ったふうなことを言うなと怒鳴ってやりたい。頭に血が上る。
けれど、いけない。今、揉め事を起こしてはあやめ屋が駄目になる。そう思って耐えた。
「とにかく、夕餉の支度がございやすので」
高弥は軽く頭を下げると、台所へ入り、戸をピシャリと閉めた。それでも、そこに彦佐がいると思うと、心に波風が立つようであった。ギリ、と奥歯を噛み締めて気を静めていると、平次が不思議そうに高弥に声をかけてきた。
「高弥、どうした」
「――いえ、なんでもありやせん」
顔を上げ、笑ってみせる。平次は糸目を何度か瞬かせた。
平次は高弥に指図をされていい気がしないと、彦佐はそんなふうに言う。けれど、平次は指図をされるよりも何よりも、己の才覚ですべてこなせと突き放される方がつらい、そうしたところがある。もともと自ら動ける方ではなかった。だから、少しずつそれを変えていくしかない。
いつかは彦佐の言う通り、このあやめ屋の台所を仕切れるようにならねばならないのだから。
――しかし、高弥は教えているつもりで、本当は手を出しすぎているのかもしれない。
もっと平次が主体になるように、高弥は出しゃばらずに支えていかなくてはならないところを、高弥はたどたどしくて見ていられないからと手を出してはその成長の妨げとなっている。
それも少しばかりはあるのかと、高弥は彦佐の言葉に揺さぶられるつもりなどなかったのに、気づけば不安を滲ませている。
これではいけない。高弥は気を取り直して岡持桶の中から南瓜を取り出すのだった。
ていと志津、浜も南瓜をきっと喜んでくれるだろう。
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