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第1話:冷めた紅茶と健康という名の免罪符
銀の燭台に灯った火が、短くなり、不格好に溶け落ちていた。
目の前に並んでいるのは、三周年という節目を祝うための特別な晩餐だ。
鴨肉のコンフィは表面の脂が白く固まり、宝石のように透き通っていたコンソメスープは、今や冷え切って濁った水溜まりのように見える。
エルナは一人、正面の空席を見つめていた。
そこには、彼女の夫であるセドリック・ローウェル侯爵が座るはずだった。
給仕の姿はない。
この屋敷の全使用人は、エルナが「休んでいい」と下がらせた。
彼らの給与計算からシフト管理、さらには領地の魔導結界の維持に至るまで、エルナが一人でこなしているのだから、彼らに無理をさせるわけにはいかない。
エルナの指先が、テーブルクロスの上で小さく動く。
彼女の脳内では、常に多重演算が走っている。
領地の境界に張り巡らされた結界の強度、魔力の流動、そして明日の予算会議の資料。
それらを同時に処理しながら、彼女はただ、冷え切ったワインを口に含んだ。
カチリ、と玄関の重い扉が開く音が静寂を切り裂いた。
足音は二人分。
一つは重厚な騎士靴の音、もう一つは、わざとらしいほどに弱々しい、引きずるような靴音。
「――戻ったぞ、エルナ」
現れたセドリックは、正装ですらなく、騎士団の軽鎧を纏ったままだった。
その腕には、白いショールを羽織り、今にも倒れそうな様子で縋り付く女がいた。
セドリックの幼馴染であり、この屋敷に「療養」と称して居座るリリアンだ。
エルナはゆっくりと立ち上がり、無機質な視線を向けた。
「おかえりなさいませ、セドリック様。記念日の晩餐は、すっかり冷めてしまいましたわ」
セドリックは、テーブルの惨状を一瞥し、眉をひそめた。
「ああ、悪かったな。だがリリアンの具合が急に悪くなったんだ。彼女には俺しかいない。お前なら、準備など一人でできただろう?」
リリアンが、セドリックの胸元に顔を埋めながら、細い声で呟く。
「ごめんなさい、お姉様……。私はお姉様みたいに健康ではないから、一人では歩くこともままならなくて。お姉様が羨ましいわ。そんなに丈夫なら、寂しくなんてないのでしょうね」
その言葉は、刃となってエルナの胸を叩いた。
丈夫。健康。
エルナがどれほどの負荷を背負ってこの屋敷と領地を守っているか、彼らは考えたこともないのだろう。
結界の維持は、精神を削る作業だ。
夜も眠れず、血管に魔力を通し続ける苦痛は、高熱に浮かされる病よりも遥かに過酷だ。
だが、エルナの肌に赤みがあり、目に力が宿っているというだけで、彼らはそれを「余裕」だと断じた。
「……そうですか」
エルナの声は、驚くほど平坦だった。
「お前は強いからな、エルナ」
セドリックは、免罪符を得たかのように笑った。
「リリアンを部屋まで運んだら、俺は寝る。この片付けも、お前ならすぐに終わるだろう。健康な人間は、動いている方が体にいいらしいぞ」
セドリックがリリアンを抱きかかえ、階段を上っていく。
リリアンが肩越しに振り返り、勝利を確信した笑みをエルナに向けた。
エルナは、自分の右手に目を落とした。
その手首には、領地の全機能を司る「魔導鍵」が輝いている。
彼女がこの鍵に魔力を供給しなくなれば、この屋敷の灯り一つ、風呂の湯一つ、沸くことはない。
セドリックは知らない。
この屋敷の掃除が行き届いているのも、食卓に並ぶ肉が最高級であるのも、リリアンが飲む高価な薬が手に入るのも、すべてエルナの私財と労力によるものだということを。
「不健康な皆様……」
エルナは、一人呟いた。
その瞳から、最後の熱が失われる。
「でしたら、どうぞ皆様だけで、その不健康を慈しみ合ってくださいませ。私という『健康な異物』は、ここから消えて差し上げますわ」
エルナは、胸元の鍵を強く握りしめた。
三年間、一度も欠かさなかった魔力の供給を、今、この瞬間、完全に遮断する。
脳内で走り続けていた多重演算の回路が、音を立てて焼き切れた。
いや、彼女が自ら焼き切ったのだ。
明日、太陽が昇る頃。
この侯爵邸は、ただの「豪華な石の箱」へと成り果てる。
そして、エルナという歯車を失った時計が、二度と動くことはない。
エルナは冷え切ったコンフィをゴミ箱に捨てると、一通の封筒をテーブルに置いた。
そこには、侯爵夫人としての地位も、領地管理の権利も、すべてを放棄する旨が記されている。
「さようなら、セドリック様。お門違いな愛を囁く相手が、私でなくなって良かったですね」
彼女の足取りは、羽のように軽かった。
三年間、彼女を縛り付けていた目に見えない鎖が、今、完全に砕け散ったのだから。
夜風が、開け放たれた窓から吹き込み、銀の燭台の火を完全に消し去った。
闇に包まれた食堂に、もう、彼女の温もりは残っていない。
目の前に並んでいるのは、三周年という節目を祝うための特別な晩餐だ。
鴨肉のコンフィは表面の脂が白く固まり、宝石のように透き通っていたコンソメスープは、今や冷え切って濁った水溜まりのように見える。
エルナは一人、正面の空席を見つめていた。
そこには、彼女の夫であるセドリック・ローウェル侯爵が座るはずだった。
給仕の姿はない。
この屋敷の全使用人は、エルナが「休んでいい」と下がらせた。
彼らの給与計算からシフト管理、さらには領地の魔導結界の維持に至るまで、エルナが一人でこなしているのだから、彼らに無理をさせるわけにはいかない。
エルナの指先が、テーブルクロスの上で小さく動く。
彼女の脳内では、常に多重演算が走っている。
領地の境界に張り巡らされた結界の強度、魔力の流動、そして明日の予算会議の資料。
それらを同時に処理しながら、彼女はただ、冷え切ったワインを口に含んだ。
カチリ、と玄関の重い扉が開く音が静寂を切り裂いた。
足音は二人分。
一つは重厚な騎士靴の音、もう一つは、わざとらしいほどに弱々しい、引きずるような靴音。
「――戻ったぞ、エルナ」
現れたセドリックは、正装ですらなく、騎士団の軽鎧を纏ったままだった。
その腕には、白いショールを羽織り、今にも倒れそうな様子で縋り付く女がいた。
セドリックの幼馴染であり、この屋敷に「療養」と称して居座るリリアンだ。
エルナはゆっくりと立ち上がり、無機質な視線を向けた。
「おかえりなさいませ、セドリック様。記念日の晩餐は、すっかり冷めてしまいましたわ」
セドリックは、テーブルの惨状を一瞥し、眉をひそめた。
「ああ、悪かったな。だがリリアンの具合が急に悪くなったんだ。彼女には俺しかいない。お前なら、準備など一人でできただろう?」
リリアンが、セドリックの胸元に顔を埋めながら、細い声で呟く。
「ごめんなさい、お姉様……。私はお姉様みたいに健康ではないから、一人では歩くこともままならなくて。お姉様が羨ましいわ。そんなに丈夫なら、寂しくなんてないのでしょうね」
その言葉は、刃となってエルナの胸を叩いた。
丈夫。健康。
エルナがどれほどの負荷を背負ってこの屋敷と領地を守っているか、彼らは考えたこともないのだろう。
結界の維持は、精神を削る作業だ。
夜も眠れず、血管に魔力を通し続ける苦痛は、高熱に浮かされる病よりも遥かに過酷だ。
だが、エルナの肌に赤みがあり、目に力が宿っているというだけで、彼らはそれを「余裕」だと断じた。
「……そうですか」
エルナの声は、驚くほど平坦だった。
「お前は強いからな、エルナ」
セドリックは、免罪符を得たかのように笑った。
「リリアンを部屋まで運んだら、俺は寝る。この片付けも、お前ならすぐに終わるだろう。健康な人間は、動いている方が体にいいらしいぞ」
セドリックがリリアンを抱きかかえ、階段を上っていく。
リリアンが肩越しに振り返り、勝利を確信した笑みをエルナに向けた。
エルナは、自分の右手に目を落とした。
その手首には、領地の全機能を司る「魔導鍵」が輝いている。
彼女がこの鍵に魔力を供給しなくなれば、この屋敷の灯り一つ、風呂の湯一つ、沸くことはない。
セドリックは知らない。
この屋敷の掃除が行き届いているのも、食卓に並ぶ肉が最高級であるのも、リリアンが飲む高価な薬が手に入るのも、すべてエルナの私財と労力によるものだということを。
「不健康な皆様……」
エルナは、一人呟いた。
その瞳から、最後の熱が失われる。
「でしたら、どうぞ皆様だけで、その不健康を慈しみ合ってくださいませ。私という『健康な異物』は、ここから消えて差し上げますわ」
エルナは、胸元の鍵を強く握りしめた。
三年間、一度も欠かさなかった魔力の供給を、今、この瞬間、完全に遮断する。
脳内で走り続けていた多重演算の回路が、音を立てて焼き切れた。
いや、彼女が自ら焼き切ったのだ。
明日、太陽が昇る頃。
この侯爵邸は、ただの「豪華な石の箱」へと成り果てる。
そして、エルナという歯車を失った時計が、二度と動くことはない。
エルナは冷え切ったコンフィをゴミ箱に捨てると、一通の封筒をテーブルに置いた。
そこには、侯爵夫人としての地位も、領地管理の権利も、すべてを放棄する旨が記されている。
「さようなら、セドリック様。お門違いな愛を囁く相手が、私でなくなって良かったですね」
彼女の足取りは、羽のように軽かった。
三年間、彼女を縛り付けていた目に見えない鎖が、今、完全に砕け散ったのだから。
夜風が、開け放たれた窓から吹き込み、銀の燭台の火を完全に消し去った。
闇に包まれた食堂に、もう、彼女の温もりは残っていない。
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