2 / 10
第2話:物理的な拒絶と崩壊の産声
深夜の執務室。月明かりだけが、整然と並んだ書類と魔導具を青白く照らしていた。
エルナは机の中央に置かれた、三つの「親鍵」を見つめていた。
一つは、この広大な屋敷の温度、湿度、照明、そして浄化を司る生活基盤鍵。
一つは、侯爵家が保有する魔導金庫と、各取引先への支払いシステムを管理する経済管理鍵。
そして最後の一つが、領地の境界に魔力を供給し、凶悪な魔獣を阻む防衛結界鍵。
これらはすべて、エルナの膨大な魔力と精密演算によって維持されてきた。
セドリックは、ただそれらを持って歩くことが「当主の務め」だと思い込んでいるが、実際はエルナという発電機がなければ、ただの飾り石に過ぎない。
エルナは、それらを一つずつ手に取った。
彼女の指先には、三年間で刻まれた、ペンと魔力伝導による硬いタコがある。
「もう、十分でしょう」
エルナは、魔力を指先に集中させた。
建設的な魔力ではなく、内側から構造を崩壊させるための対消滅術式。
かつては慈しむように注いでいた力を、今は破壊のために振るう。
パキリ、と乾いた音が静寂を打った。
まずは生活基盤鍵が真っ二つに割れる。
その瞬間、屋敷の底冷えが一段と厳しくなった。魔導暖房の火が消え、貯水槽を適温に保っていた魔法が霧散したのだ。
続いて、経済管理鍵を粉砕する。
この鍵にはエルナ独自の魔力署名が施されており、彼女以外の人間が触れても、二度と金庫を開くことはできない。
セドリックが「自分の金」だと思い込んでいたものは、すべてエルナの認証がなければ引き出せない鉄の塊へと変わった。
最後に、防衛結界鍵。
これは折らず、ただエルナの「所有権」を上書きし、深紅の魔力で封印を施した。
彼女が隣国へと足を踏み入れた瞬間、この結界は主を失い、完全に消失するよう組んである。
「……身軽になりましたわ」
エルナは、砕けた破片を無造作に床へぶちまけた。
そして、旅装に着替える。
持っていくのは、自分が実家から持ち込んだ私財と、自身の研究成果が詰まった魔導書のみ。
この屋敷の財産には、一片の未練もない。
階下へ降りると、そこには一人の老侍女が立っていた。
この屋敷で唯一、エルナの献身を知り、彼女を支え続けたマルタだ。
「準備はできております、エルナ様。馬車は裏口に」
「マルタ、あなたまでついてくる必要はないのよ。ここで静かに余生を過ごすこともできたはずなのに」
「冗談を。あのような無能な旦那様と、蛇のようなお嬢さんに仕えるなど、死んでも御免でございます。私の忠誠は、エルナ様お一人に」
エルナの唇に、微かな笑みが浮かんだ。
感情を殺して過ごした三年間で、初めて心から湧き上がった微笑だった。
二人は闇に乗じて屋敷を後にした。
国境へ向かう馬車の窓から、遠ざかる侯爵邸を振り返る。
それは、主を失って急速に冷えていく、巨大な墓標のように見えた。
◇◇◇
翌朝。
セドリック・ローウェル侯爵は、不快な冷気で目を覚ました。
「……なんだ、この寒さは。エルナ!エルナ、火を入れろと言っているだろう!」
返事はない。
いつもなら、彼が目覚める頃には、部屋は最適な温度に保たれ、枕元には淹れたての紅茶が置かれているはずだった。
だが、今の部屋にあるのは、肌を刺すような冬の空気と、重苦しい静寂だけだ。
セドリックは苛立ちながらベッドから這い出した。
「おい、誰かいないのか!エルナはどうした!」
呼び鈴を激しく振るが、音は鳴らない。
呼び鈴に仕込まれた増幅魔法すら、機能していないのだ。
彼は寝巻きのまま廊下へ飛び出した。
すると、向かいの部屋からリリアンが泣きそうな顔をして現れる。
「セドリック様ぁ……お水が出ないんですの。それに、お部屋がとっても寒くて、私、発作が出てしまいそう……」
「リリアン、お前もか。……チッ、エルナの奴、寝坊か?健康なのが自慢なんだろうが。これだから体力自慢は困るんだ。一日でも休めば、このザマか」
セドリックはリリアンを宥めながら、一階の食堂へと向かった。
そこには、昨夜のまま放置された冷たい晩餐と、一通の手紙。
そして、その横に転がっている「見覚えのある石の破片」があった。
セドリックは、その破片を拾い上げ、顔を強張らせた。
「これ、は……魔導鍵、か?まさか。そんな、そんな馬鹿な真似を」
彼は震える手で手紙を開いた。
そこには、エルナの冷徹な、しかし美しい筆致でこう記されていた。
『離縁届を置いていきます。
あとのことは、どうぞ皆様の「健康」で乗り切ってくださいませ。
なお、屋敷の管理権限はすべて破棄いたしました。
これより私は、私を必要とする場所へ向かいます。』
「ふざけるな!権限を破棄しただと?誰が許可した!エルナ、どこにいる!出てこい!」
セドリックが叫ぶが、屋敷は静まり返っている。
それどころか、厨房からは「火がつかない」「水が止まった」とパニックに陥った使用人たちの声が聞こえ始めていた。
彼らはまだ気づいていない。
エルナが去ったことで失われたのは、利便性だけではない。
この領地を守る「壁」そのものが、今この瞬間も、砂のように崩れ落ちているということに。
「セドリック様……どうしましょう、私、お腹が空いて……」
リリアンの甘ったるい声が、今のセドリックには酷く耳障りに響いた。
彼は初めて、エルナという「健康な妻」がいない朝の、耐え難い不快さを肌で感じていた。
だが、地獄はまだ、始まったばかりだ。
領地の北端。
結界が薄くなった森の奥から、空腹に飢えた魔獣の咆哮が、静かな朝の空気を震わせた。
エルナはもう、ここにはいない。
彼女が守っていたのは、セドリックのプライドではなく、この国そのものだったのだと、彼はまだ知らない。
エルナは机の中央に置かれた、三つの「親鍵」を見つめていた。
一つは、この広大な屋敷の温度、湿度、照明、そして浄化を司る生活基盤鍵。
一つは、侯爵家が保有する魔導金庫と、各取引先への支払いシステムを管理する経済管理鍵。
そして最後の一つが、領地の境界に魔力を供給し、凶悪な魔獣を阻む防衛結界鍵。
これらはすべて、エルナの膨大な魔力と精密演算によって維持されてきた。
セドリックは、ただそれらを持って歩くことが「当主の務め」だと思い込んでいるが、実際はエルナという発電機がなければ、ただの飾り石に過ぎない。
エルナは、それらを一つずつ手に取った。
彼女の指先には、三年間で刻まれた、ペンと魔力伝導による硬いタコがある。
「もう、十分でしょう」
エルナは、魔力を指先に集中させた。
建設的な魔力ではなく、内側から構造を崩壊させるための対消滅術式。
かつては慈しむように注いでいた力を、今は破壊のために振るう。
パキリ、と乾いた音が静寂を打った。
まずは生活基盤鍵が真っ二つに割れる。
その瞬間、屋敷の底冷えが一段と厳しくなった。魔導暖房の火が消え、貯水槽を適温に保っていた魔法が霧散したのだ。
続いて、経済管理鍵を粉砕する。
この鍵にはエルナ独自の魔力署名が施されており、彼女以外の人間が触れても、二度と金庫を開くことはできない。
セドリックが「自分の金」だと思い込んでいたものは、すべてエルナの認証がなければ引き出せない鉄の塊へと変わった。
最後に、防衛結界鍵。
これは折らず、ただエルナの「所有権」を上書きし、深紅の魔力で封印を施した。
彼女が隣国へと足を踏み入れた瞬間、この結界は主を失い、完全に消失するよう組んである。
「……身軽になりましたわ」
エルナは、砕けた破片を無造作に床へぶちまけた。
そして、旅装に着替える。
持っていくのは、自分が実家から持ち込んだ私財と、自身の研究成果が詰まった魔導書のみ。
この屋敷の財産には、一片の未練もない。
階下へ降りると、そこには一人の老侍女が立っていた。
この屋敷で唯一、エルナの献身を知り、彼女を支え続けたマルタだ。
「準備はできております、エルナ様。馬車は裏口に」
「マルタ、あなたまでついてくる必要はないのよ。ここで静かに余生を過ごすこともできたはずなのに」
「冗談を。あのような無能な旦那様と、蛇のようなお嬢さんに仕えるなど、死んでも御免でございます。私の忠誠は、エルナ様お一人に」
エルナの唇に、微かな笑みが浮かんだ。
感情を殺して過ごした三年間で、初めて心から湧き上がった微笑だった。
二人は闇に乗じて屋敷を後にした。
国境へ向かう馬車の窓から、遠ざかる侯爵邸を振り返る。
それは、主を失って急速に冷えていく、巨大な墓標のように見えた。
◇◇◇
翌朝。
セドリック・ローウェル侯爵は、不快な冷気で目を覚ました。
「……なんだ、この寒さは。エルナ!エルナ、火を入れろと言っているだろう!」
返事はない。
いつもなら、彼が目覚める頃には、部屋は最適な温度に保たれ、枕元には淹れたての紅茶が置かれているはずだった。
だが、今の部屋にあるのは、肌を刺すような冬の空気と、重苦しい静寂だけだ。
セドリックは苛立ちながらベッドから這い出した。
「おい、誰かいないのか!エルナはどうした!」
呼び鈴を激しく振るが、音は鳴らない。
呼び鈴に仕込まれた増幅魔法すら、機能していないのだ。
彼は寝巻きのまま廊下へ飛び出した。
すると、向かいの部屋からリリアンが泣きそうな顔をして現れる。
「セドリック様ぁ……お水が出ないんですの。それに、お部屋がとっても寒くて、私、発作が出てしまいそう……」
「リリアン、お前もか。……チッ、エルナの奴、寝坊か?健康なのが自慢なんだろうが。これだから体力自慢は困るんだ。一日でも休めば、このザマか」
セドリックはリリアンを宥めながら、一階の食堂へと向かった。
そこには、昨夜のまま放置された冷たい晩餐と、一通の手紙。
そして、その横に転がっている「見覚えのある石の破片」があった。
セドリックは、その破片を拾い上げ、顔を強張らせた。
「これ、は……魔導鍵、か?まさか。そんな、そんな馬鹿な真似を」
彼は震える手で手紙を開いた。
そこには、エルナの冷徹な、しかし美しい筆致でこう記されていた。
『離縁届を置いていきます。
あとのことは、どうぞ皆様の「健康」で乗り切ってくださいませ。
なお、屋敷の管理権限はすべて破棄いたしました。
これより私は、私を必要とする場所へ向かいます。』
「ふざけるな!権限を破棄しただと?誰が許可した!エルナ、どこにいる!出てこい!」
セドリックが叫ぶが、屋敷は静まり返っている。
それどころか、厨房からは「火がつかない」「水が止まった」とパニックに陥った使用人たちの声が聞こえ始めていた。
彼らはまだ気づいていない。
エルナが去ったことで失われたのは、利便性だけではない。
この領地を守る「壁」そのものが、今この瞬間も、砂のように崩れ落ちているということに。
「セドリック様……どうしましょう、私、お腹が空いて……」
リリアンの甘ったるい声が、今のセドリックには酷く耳障りに響いた。
彼は初めて、エルナという「健康な妻」がいない朝の、耐え難い不快さを肌で感じていた。
だが、地獄はまだ、始まったばかりだ。
領地の北端。
結界が薄くなった森の奥から、空腹に飢えた魔獣の咆哮が、静かな朝の空気を震わせた。
エルナはもう、ここにはいない。
彼女が守っていたのは、セドリックのプライドではなく、この国そのものだったのだと、彼はまだ知らない。
あなたにおすすめの小説
破棄されたのは、婚約だけではありませんでした
しばゎんゎん
ファンタジー
「私、ヴァルディア伯爵家次男、レオン・ヴァルディアはエリシアとの婚約を破棄する」
それは、一方的な婚約破棄だった。
公衆の面前で告げられた言葉と、エリシアに向けられる嘲笑。
だがエリシア・ラングレイは、それを静かに受け入れる。
断罪される側として…。
なぜなら、彼女は知っていたからだ。
この栄華を、誰が支え、誰が築き上げてきたのかを。
愚かな選択は、やがて当然の帰結をもたらす。
時が来たとき、真に断罪される者が明確に示される。
残酷な結果。
支えを外し、高みを目指した結果、真っ逆さまに転落する男、レオン。
利用価値がなくなった男〘レオン〙を容赦なく切り捨てる女、アルシェ侯爵家令嬢のミレイユ。
そう、真の勝者は彼らではない…
真の勝者はすべてを見通し、手中に収めたエリシアだった。
これは、静かにすべてを制する才女と、
自ら破滅を選んだ愚かな者たちの物語。
※毎日2話ずつ公開予定です(午前/午後 各1話を順次予約投稿予定)。
※16話で完結しました
幼馴染しか見えない婚約者と白い結婚したので、夜明け前にさよならしました
ゆぷしろん
恋愛
公爵令嬢レティシアは、家同士の都合で伯爵アルフレッドに嫁ぐ。
けれど夫は結婚後もずっと幼馴染のシルヴィばかりを優先し、婚礼の夜から夫婦として触れ合おうともしなかった。名ばかりの妻として伯爵家を支え、領地経営まで立て直しても、彼にとってレティシアは“都合のいい伯爵夫人”でしかない。
やがて結婚一周年の夜、アルフレッドが自分を手放す気はない一方で、幼馴染を屋敷に迎え入れようとしている会話を聞いてしまったレティシアは、ついに決意する。
――もう、この結婚には見切りをつけよう。
夜明け前、彼女は離縁の準備を整え、伯爵邸を出奔。
身を寄せた北の港町で薬舗を手伝いながら、自分の力で生きる穏やかな日々を手に入れていく。そこで出会ったのは、身分ではなく一人の女性として彼女を尊重してくれる青年医師ノアだった。
一方、都合よく尽くしてくれる妻を失ったアルフレッドは、ようやく自分が何を失ったのかを思い知ることになる。
幼馴染ばかりを優先する婚約者との白い結婚に終止符を打ち、傷ついた公爵令嬢が新天地で本当の幸せを掴む、離縁から始まる逆転ラブストーリー。
【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。
112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。
愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。
実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。
アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。
「私に娼館を紹介してください」
娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──
おかしくなったのは、彼女が我が家にやってきてからでした。
ましゅぺちーの
恋愛
公爵家の令嬢であるリリスは家族と婚約者に愛されて幸せの中にいた。
そんな時、リリスの父の弟夫婦が不慮の事故で亡くなり、その娘を我が家で引き取ることになった。
娘の名前はシルビア。天使のように可愛らしく愛嬌のある彼女はすぐに一家に馴染んでいった。
それに対してリリスは次第に家で孤立していき、シルビアに嫌がらせをしているとの噂までたち始めた。
婚約者もシルビアに奪われ、父からは勘当を言い渡される。
リリスは平民として第二の人生を歩み始める。
全8話。完結まで執筆済みです。
この作品は小説家になろう様にも掲載しています。
妹さんが婚約者の私より大切なのですね
はまみ
恋愛
私の婚約者、オリオン子爵令息様は、
妹のフローラ様をとても大切にされているの。
家族と仲の良いオリオン様は、きっととてもお優しいのだわ。
でも彼は、妹君のことばかり…
この頃、ずっとお会いできていないの。
☆お気に入りやエール、♥など、ありがとうございます!励みになります!
※本作品をAIの学習教材として使用することを禁じます。
※無断著作物利用禁止
戦いに行ったはずの騎士様は、”女”を連れて帰ってきました。
睡蓮
恋愛
健気に騎士ランハートの帰りを待ち続けていた、彼の婚約者のクレア。しかし帰還の日にランハートの隣にいたのは、同じ騎士であるレミリアだった。親し気な様子をアピールしてくるレミリアに加え、ランハートもまた満更でもないような様子を見せ、ついにランハートはクレアに婚約破棄を告げてしまう。これで騎士としての真実の愛を手にすることができたと豪語するランハートであったものの、彼はその後すぐにあるきっかけから今夜破棄を大きく後悔することとなり…。