従順な氷の執行人は、地獄の果てで愛を乞う

一条 柊

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第一章

15 . 大蛇

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横浜、元町。華やかな観光地の喧騒から数ブロック離れたその場所には、海風に洗われ、錆びついた鉄の匂いが立ち込めている。


入り組んだ路地の奥、古ぼけたビルの地下に店を構えるバー「クロスボーン」は、昼間から太陽を拒絶するように淀んだ空気が溜まっていた。



換気扇の回る力ない音と、誰が聴くともない古いジャズの旋律。

久我は、そのカウンターの隅で、琥珀色の液体が満たされたグラスを見つめていた。





裏社会から姿を消して、一週間。



九条組の「氷の執行人」という、恐れられた肩書きは、今や彼を縛り付ける呪縛でしかない。


神経を削るような逃亡生活。眠りは浅く、食事も喉を通らない。

久我の頬は幾分か削げ、肌は不健康なまでに白くなっていた。




しかし、その瞳に宿る冷徹な光だけは、むしろ純度を増して研ぎ澄まされていた。






(……追手は、まだ来ないか。それとも、泳がされているのか)



久我が静かにウィスキーを煽った、その時だった。




夜中特有の、気だるい沈黙を切り裂くように、数人の男たちの気配が背後に迫った。足音は殺されているが、空気が揺れる。




「……九条組の『氷の執行人』ともあろうお方が、こんな薄汚れた店で独り酒とはな。都落ちは随分と様になっているじゃないか、久我怜」



低く、耳障りなほど艶のある声が、久我の項を撫でる。



その声の主を、久我は忘れたことなどなかった。
久我は振り返ることなく、グラスをカウンターに置いた。

その動作は極めて緩やかだが、右手は既にカウンターの下に隠したナイフの柄を、寸分の狂いもなく捉えている。

親指が鞘を僅かに押し上げ、抜き放つための準備は既にできていた。




「……大滝組、若頭。斑鳩いかるがさんですね。私のような『抜け忍』に、何の御用ですか」




椅子をゆっくりと回転させる。久我の瞳が、暗がりの中に立つ男を捉えた。



そこにいたのは、漆黒のベルベットのスーツを纏った男、斑鳩 陣いかるが じん


神代組の若頭、嵯峨蓮次が「剛」の象徴であるならば、この斑鳩という男は徹底した「柔」の象徴だった。

獲物の首にじわじわと巻き付き、呼吸を止めるまで決して離さない大蛇のような執拗さ。



その佇まいは、流石久瀬の元主君と言ったところだろうか、今は亡き久瀬と同じ雰囲気を纏っている。



そして裏社会の人間は、彼のその微笑みの裏に潜む冷酷さを何よりも恐れた。




「用がなければ、わざわざこのドブ板のような街まで足を運びはしない。久我、お前が九条の看板を捨てたという噂を耳にしてな」

「……あんな、情に流されるばかりの嵯峨蓮次の下で、俺はお前のような逸材が腐っていくのを見るのは忍びなかったのだよ」




斑鳩は久我の返事を待たず、優雅な動作で隣の椅子に腰を下ろした。彼が纏う香水の匂いが、安酒の饐えた匂いを上書きしていく。




「九条の連中は、逃げたお前を『裏切り者』として始末するつもりだろうな。」

「……お前がその手で今まで守り抜いてきた居場所はもうどこにもないんだよ、久我」




斑鳩の指先が、久我の白い頬に触れようと伸びる。久我はそれを僅かな首の動きで避け、凍てつくような眼光で斑鳩を射抜いた。




「……私の身の振り方は、私が決めます。大滝組に下るつもりはありません」


「ははは、相変わらずつれない男だ。だがお前がこっちに来れば、お前に新しい名前と、誰も手を出せない安全な居場所を与えてやろう」




斑鳩は蛇のような笑みを浮かべ、久我の耳元で囁いた。




「嵯峨に殺されるのを待つか、それとも俺の手の中で、新しい人生を始めるか。……賢いお前なら、どちらが『合理的』か、理解できるだろう?」




久我の心臓が、一度だけ強く波打った。

嵯峨蓮次。その名を思い浮かべるだけで、胸の奥が焼けるように熱くなる。

自分裏切ったことで、手元にいつもいた道具を無くしたあの男がどれほどの絶望を抱え、どれほどの殺意を滾らせているか。

久我には痛いほど分かっていた。



(……私は、あの方の手で殺されるべきなのだ)




かつて嵯峨と二人で久瀬を始末した後に交わした言葉を思い出す。




『怜、お前は大滝の弾で死ぬことは許さん。お前が壊れる時は、俺の手の中だ』


『……ならば、私の最期は…貴方の手で壊して……ください……』




今思えば戯言のようだと思う。


だが、今の久我にとって自分が放ったそのその言葉は、自分の首を締める呪いとなってしまっていた。




久我はそんな記憶を消すように、大きな溜息を一つつき、ナイフから手を離さずゆっくりと唇を開いた。




「……斑鳩さん。貴方の仰る『安全』という言葉ほど、信じられないものはありませんね」


「ほう。ならば、力ずくで連れて行くしかないかな?」




斑鳩の合図と共に、周囲の男たちが一斉に銃を構えた。
クロスボーンの狭い店内に、金属的なクリック音が重なり合う。死の気配が久我の全身を包み込んだ。


しかし、久我は微塵も動じなかった。


彼は、カウンターに置かれたウィスキーのグラスを再び手に取ると、一気に飲み干した。



「……やってみればいい。貴方たちの首が床に落ちるのと、私の首が跳ねるのが先か……試してみる価値はある」




久我の瞳から、人間らしい感情が完全に消え去った。
そこにいたのは、敵対する者をすべて灰に変えるまで止まらない、狂おしき「氷の執行人」の再臨だった。






「最高だ、久我。その瞳が見たかった……!」





その瞬間、斑鳩は瞳に歪んだ歓喜が灯り、恍惚とした表情を浮かべて柊の顔を捉えた。





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