おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

文字の大きさ
4 / 42

04.弘徽殿女御(一)

しおりを挟む


 都に夜の帳がおりる。天に織姫と彦星を隔てる星川がさらさらと流れて、真っ黒な帆布キャンバスに美しい光の帯を描いた刻。

 御所を出た八条宮は、雨が降っているわけでもないのに唐傘をさして、都をまっすぐ貫く大路を歩いていた。

 帝から賜った酒を飲み過ぎたせいで足元がおぼつかず、地が揺れて体がふわふわ浮遊しているような心地がする。後ろをついて歩く左近が、よろめく八条宮の体を支えた。


「宮様、危のうございます。御車にお乗りください」

「離せ。雨が降る前に、大路を歩きたい」

「雨など降りません。ご覧ください。今宵も、空には無数の星が輝いてございますよ」

「おかしいな。夏が死んだ日と同じ匂いがするのだが……」

「酔っておられるのです。婚礼を控えて、お怪我などされては大変です。ささ、どうか御車に」


 うん、と今度は素直に頷いた八条宮の脇を支えるように抱えて、左近が宮家の牛車に近づく。左近は後ろの御簾をあげて八条宮を牛車に乗せると、牛引きの者に出立するよう言った。ごとりと車輪が動いて、牛車の屋形が大きく揺れる。


「左近」

「はい、宮様」

「今宵は二条へ行ってくれ。中将の……、名はなんといったか。とにかく中将の娘と、約束がある」

「しかし」

「いいから、つべこべ言わず二条に向かえ」

「宮様のおおせのままに」


 八条宮を乗せた牛車が小路へ入ったころ、内裏では弘徽殿を出た女御が帝の居所である中殿へ向かって廊下を渡っていた。夜のお召しがあったのだ。

 宮中は男子禁制ではない。宿直とのいの者が駐在しているし、今宵のように帝が管楽の宴を催した夜などは、あちらこちらにほろ酔いの貴族たちの姿がある。

 しかし、帝の妃を男の目にさらすは禁忌だ。
 女御の両脇には、几帳のように生絹すずし帷子かたびらを垂れた屏障具を持った女童が、その姿を人目から隠すようにぴたりとつき添っている。当の女御も檜扇をしっかりと顔の前にかざし、容貌を隠してそろそろと歩みを進めた。


命婦みょうぶ


 弘徽殿女御が、渡り廊下の中程で足を止めて、白魚のような手を一人の女官にさし出す。命婦と呼ばれた女官は、自分の手を受け皿のようにして女御の手を取った。


「いかがなさいました?」

「廊下の端に寄ってちょうだい。空を眺めたいの」

「はい。足元にお気をつけくださいませ、弘徽殿様」


 屏障具を持つ女童がそそっと傍を離れると、女御は命婦の手引きで廊下の端に寄って顔をあげた。おびただしい星たちが水の流れのようにきらめいて、半分欠けた月がそれをじっと見守っている。ちょうど七夕の季節だ。弘徽殿女御は、七夕の伝説を思いながら小さなため息をついた。

 年に一度きりしか会えないと物悲しくいうけれど、神々の怒りを買っておきながら逢瀬を許される彦星と織姫。わたくしは、二人がとてもうらやましい。

 ことに誰の怒りも買っていないのに、なぜこのような仄暗い心持ちで星を羨望せねばならないのかしら。この世の出来事は、奇怪で煩わしいことこの上なし。なに一つわたくしの思いどおりにならない。


「女御様。帝が待ちかねておられますよ」

「分かっているわ。そうね……、お待たせしてはいけないわね」

「まいりましょう」

「ええ」


 女童が、再び弘徽殿の女御に寄り添って屏障具を掲げる。

 弘徽殿は中殿の目と鼻の先にある。帝が一番近い殿舎を妃に与えるのは、寵愛の深さを公然と示すに等しい。これで皇子に恵まれたなら、後宮での地位は安泰。なれど――。

 女御の列は、中殿の廂の間をしずしずと進んで寝所の前で歩みを止めた。女御につき添っていた弘徽殿の女官たちが三歩下がって平伏し、御殿の妻戸が開く。

 弘徽殿女御は、手に持っていた檜扇を命婦に渡して一人で御殿へと足を踏み入れた。煌々と明かりの灯された聖域には、落ち着いた色目の重ねを着た女官が三人と奥に帝が待っていた。


凛子りんこ


 帝が、弘徽殿女御に慈愛のまなざしを向けながら近づく。
 宮中で、貴人の真名を口にするのは異なことだ。しきたりに反して帝が弘徽殿女御を名で呼ぶのには理由がある。

 右大臣の一姫いちのひめであり、天界の仙女もかくやといわれるほど美しい女御を、ほかの妃が目に入らないほど深く愛しているからだ。東宮時代から五年添っているが、その情は少しも色褪せない。

 三人の女官が、凛子の袿を丁寧に脱がせる。帝は待ちきれない様子で、ほっそりとした凛子の白い手を取って御帳台にいざなった。

 真っ白な敷布に波打つ豊かな黒髪と、おりた帳に四方を囲まれたうす暗い御帳台で魅惑に艶めく赤い唇。覆いかぶさって、ついばむように唇を食みながら夜着を剥げば、絹よりも滑らかな白肌があらわになる。


「……ぁ、ん」


 ぷるりと弾む胸で誇張する桜の蕾をきつく吸われて、凛子はわずかに開いた朱唇から控え目な甘い声を漏らした。凛子が侍る夜は、色事を好まない帝が唯一男になる夜でもある。

 異母弟である八条宮のような華やかさはないけれど、堅実で真面目な人柄がにじみ出た面立ちに浮かぶ余裕のない苦悶の表情。それは、凛子だけが知る帝の顔だった。


「我が君」


 凛子が呼ぶと、帝がむくりと体を起こして愛おしい妃の顔を覗き込む。帝に侍るは女人の誉れ。誰よりも愛されて、これ以上を望めばきっと天罰がくだってしまう。しかし、やはりどこかで失望している自分がいる。

 どうして、この身を抱くのが琥珀の月ではないのか。

 心の底に、よどみが蓄積していく。今このときも、美しい月は世の花々を照らして気まぐれにそれを手折るのだろう。

 憎い。なにをはばかるでもなく、月に触れる花々が憎い。それを黙って見ているしかない我が身が嘆かわしくて、女人の誉れなど無価値に感じてしまう。

 つつ、と凛子の目じりから涙がこぼれる。

 どうして、今さら妻を娶るのか。
 今まで結婚の話は幾度もあったはず。にもかかわらず独り身を貫いていたのは、夏姫への情が消えないからではなかったの?

 なにを考えているのか、さっぱり分からない。夏姫をしのぐほどの女人なのかしら、大納言家の姫は……。


「凛子、どうしたの?」

「悲しいのです」

「なにが悲しいの?」


 腫れ物に触れるように、震えた帝の指先が涙をすくう。

 優しい御方。帝は、わたくしが望めばなんでも叶えてくださる。だけど、わたくしの望みは一生叶えられることはない。口にしたら最後、一族を道連れに地獄へ落ちなければならないのだから。


「いいえ、なんでも」


 凛子は、首を横に振って帝のうなじに腕を回す。そして、ぐっと力を込めて帝を引き寄せた。少し首をもたげてくちづけると、それに応えるように分厚い舌が口の中に滑り込んでくる。


 ――月宮。


 目を閉じれば、帝に八条宮の姿が重なる。

 わたくしが求めているのは、この世で最も美しき夜半よわの月。琥珀の瞳がわたくしを映す日を、帝に身を委ねるこの瞬間にも待ちわびている。わたくしにとって、八条宮は永遠に月宮のまま。空蝉の時だけが流れて、わたくしの心は遠い昔に囚われているのだから。


「愛しているよ、凛子」


 帝の優しい声に、月宮の像がふっと煙のように消えた。

 ついさっきまでよく晴れていたはずなのに、地鳴りのような雷鳴がとどろいて激しい雨音が聞こえる。


「わたくしもですわ、我が君」


 弘徽殿女御は、帝に向かって穏やかな笑みを返した。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

虐げられた出戻り姫は、こじらせ騎士の執愛に甘く捕らわれる

無憂
恋愛
旧題:水面に映る月影は――出戻り姫と銀の騎士 和平のために、隣国の大公に嫁いでいた末姫が、未亡人になって帰国した。わずか十二歳の妹を四十も年上の大公に嫁がせ、国のために犠牲を強いたことに自責の念を抱く王太子は、今度こそ幸福な結婚をと、信頼する側近の騎士に降嫁させようと考える。だが、騎士にはすでに生涯を誓った相手がいた。

贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる

マチバリ
恋愛
 貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。  数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。 書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。

捨てられた王妃は情熱王子に攫われて

きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。 貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?  猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。  疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り―― ざまあ系の物語です。

【完結】呪いを解いて欲しいとお願いしただけなのに、なぜか超絶美形の魔術師に溺愛されました!

藤原ライラ
恋愛
 ルイーゼ=アーベントロートはとある国の末の王女。複雑な呪いにかかっており、訳あって離宮で暮らしている。  ある日、彼女は不思議な夢を見る。それは、とても美しい男が女を抱いている夢だった。その夜、夢で見た通りの男はルイーゼの目の前に現れ、自分は魔術師のハーディだと名乗る。咄嗟に呪いを解いてと頼むルイーゼだったが、魔術師はタダでは願いを叶えてはくれない。当然のようにハーディは対価を要求してくるのだった。  解呪の過程でハーディに恋心を抱くルイーゼだったが、呪いが解けてしまえばもう彼に会うことはできないかもしれないと思い悩み……。 「君は、おれに、一体何をくれる?」  呪いを解く代わりにハーディが求める対価とは?  強情な王女とちょっと性悪な魔術師のお話。   ※ほぼ同じ内容で別タイトルのものをムーンライトノベルズにも掲載しています※

『魔王』へ嫁入り~魔王の子供を産むために王妃になりました~【完結】

新月蕾
恋愛
村の人々から理由もわからず迫害を受けていたミラベル。 彼女はある日、『魔王』ユリウス・カルステン・シュヴァルツに魔王城へと連れて行かれる。 ミラベルの母は魔族の子を産める一族の末裔だった。 その娘のミラベルに自分の後継者となる魔王の子を産んでくれ、と要請するユリウス。 迫害される人間界に住むよりはマシだと魔界に足を踏み入れるミラベル。 個性豊かな魔族たちに戸惑いながらも、ミラベルは魔王城に王妃として馴染んでいく。 そして子供を作るための契約結婚だったはずが、次第に二人は心を通わせていく。 本編完結しました。 番外編、完結しました。 ムーンライトノベルズにも掲載しています。

狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。

汐瀬うに
恋愛
目が覚めたら、そこは獣人たちの国だった。 元看護師の百合は、この世界では珍しい“ヒト”として、狐の婆さんが仕切る風呂屋で働くことになる。 与えられた仕事は、獣人のお客を湯に通し、その体を洗ってもてなすこと。 本来ならこの先にあるはずの行為まで求められてもおかしくないのに、百合の素肌で背中を撫でられた獣人たちは、皆ふわふわの毛皮を揺らして眠りに落ちてしまうのだった。 人間の肌は、獣人にとって子犬の毛並みのようなもの――そう気づいた時には、百合は「眠りを売る“やわはだ嬢”」として静かな人気者になっていた。 そんな百合の元へある日、一つの依頼が舞い込む。 「眠れない狼隊長を、あんたの手で眠らせてやってほしい」 戦場の静けさに怯え、目を閉じれば仲間の最期がよみがえる狼隊長ライガ。 誰よりも強くあろうとする男の震えに触れた百合は、自分もまた失った人を忘れられずにいることを思い出す。 やわらかな人肌と、眠れない心。 静けさを怖がるふたりが、湯気の向こうで少しずつ寄り添っていく、獣人×ヒトの異世界恋愛譚。 [こちらは以前あげていた「やわはだの、お風呂やさん」の改稿ver.になります]

放蕩公爵と、いたいけ令嬢

たつみ
恋愛
公爵令嬢のシェルニティは、両親からも夫からも、ほとんど「いない者」扱い。 彼女は、右頬に大きな痣があり、外見重視の貴族には受け入れてもらえずにいた。 夫が側室を迎えた日、自分が「不要な存在」だと気づき、彼女は滝に身を投げる。 が、気づけば、見知らぬ男性に抱きかかえられ、死にきれないまま彼の家に。 その後、屋敷に戻るも、彼と会う日が続く中、突然、夫に婚姻解消を申し立てられる。 審議の場で「不義」の汚名を着せられかけた時、現れたのは、彼だった! 「いけないねえ。当事者を、1人、忘れて審議を開いてしまうなんて」 ◇◇◇◇◇ 設定はあくまでも「貴族風」なので、現実の貴族社会などとは異なります。 本物の貴族社会ではこんなこと通用しない、ということも多々あります。 それを踏まえて、お読み頂ければと思います、なにとぞ。 R-Kingdom_8 他サイトでも掲載しています。

完結(R18 詰んだ。2番目の夫を迎えたら、資金0で放り出されました。

にじくす まさしよ
恋愛
R18。合わないと思われた方はバックお願いします  結婚して3年。「子供はまだいいよね」と、夫と仲睦まじく暮らしていた。  ふたり以上の夫を持つこの国で、「愛する夫だけがいい」と、ふたり目以降の夫を持たなかった主人公。そんなある日、夫から外聞が悪いから新たな夫を迎えるよう説得され、父たちの命もあり、渋々二度目の結婚をすることに。  その3ヶ月後、一番目の夫からいきなり離婚を突きつけられ、着の身着のまま家を出された。  これは、愛する夫から裏切られ、幾ばくかの慰謝料もなく持参金も返してもらえなかった無一文ポジティブ主人公の、自由で気ままな物語。 俯瞰視点あり。 仕返しあり。シリアスはありますがヒロインが切り替えが早く前向きなので、あまり落ち込まないかと。ハッピーエンド。

処理中です...