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04.弘徽殿女御(一)
都に夜の帳がおりる。天に織姫と彦星を隔てる星川がさらさらと流れて、真っ黒な帆布に美しい光の帯を描いた刻。
御所を出た八条宮は、雨が降っているわけでもないのに唐傘をさして、都をまっすぐ貫く大路を歩いていた。
帝から賜った酒を飲み過ぎたせいで足元がおぼつかず、地が揺れて体がふわふわ浮遊しているような心地がする。後ろをついて歩く左近が、よろめく八条宮の体を支えた。
「宮様、危のうございます。御車にお乗りください」
「離せ。雨が降る前に、大路を歩きたい」
「雨など降りません。ご覧ください。今宵も、空には無数の星が輝いてございますよ」
「おかしいな。夏が死んだ日と同じ匂いがするのだが……」
「酔っておられるのです。婚礼を控えて、お怪我などされては大変です。ささ、どうか御車に」
うん、と今度は素直に頷いた八条宮の脇を支えるように抱えて、左近が宮家の牛車に近づく。左近は後ろの御簾をあげて八条宮を牛車に乗せると、牛引きの者に出立するよう言った。ごとりと車輪が動いて、牛車の屋形が大きく揺れる。
「左近」
「はい、宮様」
「今宵は二条へ行ってくれ。中将の……、名はなんといったか。とにかく中将の娘と、約束がある」
「しかし」
「いいから、つべこべ言わず二条に向かえ」
「宮様のおおせのままに」
八条宮を乗せた牛車が小路へ入ったころ、内裏では弘徽殿を出た女御が帝の居所である中殿へ向かって廊下を渡っていた。夜のお召しがあったのだ。
宮中は男子禁制ではない。宿直の者が駐在しているし、今宵のように帝が管楽の宴を催した夜などは、あちらこちらにほろ酔いの貴族たちの姿がある。
しかし、帝の妃を男の目にさらすは禁忌だ。
女御の両脇には、几帳のように生絹の帷子を垂れた屏障具を持った女童が、その姿を人目から隠すようにぴたりとつき添っている。当の女御も檜扇をしっかりと顔の前にかざし、容貌を隠してそろそろと歩みを進めた。
「命婦」
弘徽殿女御が、渡り廊下の中程で足を止めて、白魚のような手を一人の女官にさし出す。命婦と呼ばれた女官は、自分の手を受け皿のようにして女御の手を取った。
「いかがなさいました?」
「廊下の端に寄ってちょうだい。空を眺めたいの」
「はい。足元にお気をつけくださいませ、弘徽殿様」
屏障具を持つ女童がそそっと傍を離れると、女御は命婦の手引きで廊下の端に寄って顔をあげた。おびただしい星たちが水の流れのようにきらめいて、半分欠けた月がそれをじっと見守っている。ちょうど七夕の季節だ。弘徽殿女御は、七夕の伝説を思いながら小さなため息をついた。
年に一度きりしか会えないと物悲しくいうけれど、神々の怒りを買っておきながら逢瀬を許される彦星と織姫。わたくしは、二人がとてもうらやましい。
ことに誰の怒りも買っていないのに、なぜこのような仄暗い心持ちで星を羨望せねばならないのかしら。この世の出来事は、奇怪で煩わしいことこの上なし。なに一つわたくしの思いどおりにならない。
「女御様。帝が待ちかねておられますよ」
「分かっているわ。そうね……、お待たせしてはいけないわね」
「まいりましょう」
「ええ」
女童が、再び弘徽殿の女御に寄り添って屏障具を掲げる。
弘徽殿は中殿の目と鼻の先にある。帝が一番近い殿舎を妃に与えるのは、寵愛の深さを公然と示すに等しい。これで皇子に恵まれたなら、後宮での地位は安泰。なれど――。
女御の列は、中殿の廂の間をしずしずと進んで寝所の前で歩みを止めた。女御につき添っていた弘徽殿の女官たちが三歩下がって平伏し、御殿の妻戸が開く。
弘徽殿女御は、手に持っていた檜扇を命婦に渡して一人で御殿へと足を踏み入れた。煌々と明かりの灯された聖域には、落ち着いた色目の重ねを着た女官が三人と奥に帝が待っていた。
「凛子」
帝が、弘徽殿女御に慈愛のまなざしを向けながら近づく。
宮中で、貴人の真名を口にするのは異なことだ。しきたりに反して帝が弘徽殿女御を名で呼ぶのには理由がある。
右大臣の一姫であり、天界の仙女もかくやといわれるほど美しい女御を、ほかの妃が目に入らないほど深く愛しているからだ。東宮時代から五年添っているが、その情は少しも色褪せない。
三人の女官が、凛子の袿を丁寧に脱がせる。帝は待ちきれない様子で、ほっそりとした凛子の白い手を取って御帳台にいざなった。
真っ白な敷布に波打つ豊かな黒髪と、おりた帳に四方を囲まれたうす暗い御帳台で魅惑に艶めく赤い唇。覆いかぶさって、ついばむように唇を食みながら夜着を剥げば、絹よりも滑らかな白肌があらわになる。
「……ぁ、ん」
ぷるりと弾む胸で誇張する桜の蕾をきつく吸われて、凛子はわずかに開いた朱唇から控え目な甘い声を漏らした。凛子が侍る夜は、色事を好まない帝が唯一男になる夜でもある。
異母弟である八条宮のような華やかさはないけれど、堅実で真面目な人柄がにじみ出た面立ちに浮かぶ余裕のない苦悶の表情。それは、凛子だけが知る帝の顔だった。
「我が君」
凛子が呼ぶと、帝がむくりと体を起こして愛おしい妃の顔を覗き込む。帝に侍るは女人の誉れ。誰よりも愛されて、これ以上を望めばきっと天罰がくだってしまう。しかし、やはりどこかで失望している自分がいる。
どうして、この身を抱くのが琥珀の月ではないのか。
心の底に、よどみが蓄積していく。今このときも、美しい月は世の花々を照らして気まぐれにそれを手折るのだろう。
憎い。なにをはばかるでもなく、月に触れる花々が憎い。それを黙って見ているしかない我が身が嘆かわしくて、女人の誉れなど無価値に感じてしまう。
つつ、と凛子の目じりから涙がこぼれる。
どうして、今さら妻を娶るのか。
今まで結婚の話は幾度もあったはず。にもかかわらず独り身を貫いていたのは、夏姫への情が消えないからではなかったの?
なにを考えているのか、さっぱり分からない。夏姫をしのぐほどの女人なのかしら、大納言家の姫は……。
「凛子、どうしたの?」
「悲しいのです」
「なにが悲しいの?」
腫れ物に触れるように、震えた帝の指先が涙をすくう。
優しい御方。帝は、わたくしが望めばなんでも叶えてくださる。だけど、わたくしの望みは一生叶えられることはない。口にしたら最後、一族を道連れに地獄へ落ちなければならないのだから。
「いいえ、なんでも」
凛子は、首を横に振って帝のうなじに腕を回す。そして、ぐっと力を込めて帝を引き寄せた。少し首をもたげてくちづけると、それに応えるように分厚い舌が口の中に滑り込んでくる。
――月宮。
目を閉じれば、帝に八条宮の姿が重なる。
わたくしが求めているのは、この世で最も美しき夜半の月。琥珀の瞳がわたくしを映す日を、帝に身を委ねるこの瞬間にも待ちわびている。わたくしにとって、八条宮は永遠に月宮のまま。空蝉の時だけが流れて、わたくしの心は遠い昔に囚われているのだから。
「愛しているよ、凛子」
帝の優しい声に、月宮の像がふっと煙のように消えた。
ついさっきまでよく晴れていたはずなのに、地鳴りのような雷鳴がとどろいて激しい雨音が聞こえる。
「わたくしもですわ、我が君」
弘徽殿女御は、帝に向かって穏やかな笑みを返した。
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