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第三章
研修医、藤崎先生(2)
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つい、過去の思い出に浸ってしまった。
仁寿は、スマートフォンをバッグに突っ込んで車をおりると、軽い足取りで職員通用口へ向かった。今日は、医学書を詰めた重たいリュックは必要ない。学生のころに愛用していた、今では滅多に使わない帆布のトートバッグに財布とスマートフォン、念のために聴診器を入れただけの軽荷一つだ。出張用のスーツケースは病院を出る時に取ればいいから、後部座席に乗せたままにしておく。
職員通用口から二階にあがり、正面ではなく研修医室の入り口から医局に入る。二人いる一年上の研修医は休みなのだろうか、研修医室は無人で電気もついていなかった。
電気をつけてバッグを自分の机に置き、机の右端に積まれた郵便物と雑誌を一つずつ確認する。それからコートを脱いで、不要な書類や封書をシュレッダーにかけた。席に座って、充電器に繋がれたままのPHSの電源を入れる。その時、クリーニングされたスクラブを抱えた彩が、研修医室を通りかかった。
「あれ、先生。来てたんですか?」
「お疲れ様、今来たところ。家にいても暇だからさ。体制が悪いんでしょ? 僕に手伝えることがあったら、ここにいるから声をかけて」
とはいえ、医療安全上、今の仁寿が一人でできる医療行為は限られているから、言葉どおり手伝い程度にしかならない。
「今日は患者さんが多くて、すでに外来がまわってないみたいで。救急車の受け入れ要請があったら、ちょっときつい状況です。その時はお声かけしますね」
「うん、少しは役に立てると思うよ」
「助かります」
ポリプロピレンに包まれたスクラブの名前を確認しながら、彩が仁寿の隣の席にそれを置く。
仁寿は更衣室でスクラブに着替えてドクターコートを羽織ると、ポケットに聴診器を押し込み、医局内にある給湯室でコーヒーを淹れた。コーヒーカップを手に彩の席をちらりと覗く。彩は、眉間にしわを寄せてパソコンの画面とにらめっこしていた。
――完全に仕事モードの彩さんだ。
研修医室は医局と隣接していて、スライドドアで仕切られている。ドアを閉めてしまえば、医局内の音はほぼ聞こえない。仁寿はドアが閉まらないようにロックして自分の席に腰を据え、研修医向けの医学雑誌を広げた。
「んん? 藤崎先生じゃない。どうしたの?」
次に研修医室にやって来たのは、郵便物を手に持った医局秘書課課長の平良だった。オールバックに固められた白髪交じりの頭髪と人のよさそうな顔。ぽっこり膨らんだお腹がキュートな、四十代後半の男性だ。
「明日の研修医会で発表するポートフォリオを、篠田先生にチェックしてもらおうと思って来ました」
「ああ、そうか。竹内先生がケガで参加できなくなったからねぇ」
「はい」
「救急の研修は順調?」
「今のところは」
「頑張ってよ、藤崎先生。みんな、先生たちが院外研修から帰って来るのを楽しみに待ってるからね。出張も大変だと思うけど、よろしく頼むよ!」
「ありがとうございます。頑張ります」
平良は、製薬会社からの封書を仁寿に手渡して研修医室を出ていった。それからしばらくは静かだったが、救急車のサイレンが聞こえてから急に医局内が騒がしくなった。内線はひっきりなしに鳴るし、外来や病棟の看護師長が出たり入ったり。医局には平良と彩しかいないから、日常業務と対応に追われて大変そうだ。
あらかじめ救急車の受け入れ要請があったらきつい状況だと聞いていた仁寿は、雑誌を片づけてコーヒーカップを洗うと、内線を切ったばかりの彩に声をかけた。
「人手、足りてる?」
「ああ、先生。外来の看護師さんが、点滴のルートを取れなくて困ってるみたいです」
「どうして?」
「急性アルコール中毒で救急搬入された患者さんらしいんですけど、看護師さんが手を握ってくれないと点滴しないって暴れてるんですって」
「そういう理由……、大変だね。見にいってくるから、給湯室のお湯でジュリアンの手を温めておいてくれない?」
ジュリアンとは、動脈からの採血をトレーニングするための人工腕だ。肌の弾力や感触が、内部まで人間の腕に近い質感で精密に作られている。数年前に購入して、数えきれないほど研修医たちに針を刺されてきたが、お値段相応に丈夫で、今でも現役で活躍中なのである。
仁寿が一階の点滴室に直行すると、ベッドが十台並んだ点滴室は満員で、外来の看護師が二人で患者の対応にあたっている状況だった。どうやら、医師だけではなく、今日は看護師も体制がよくないらしい。
「お疲れ様です。ルートが取れない患者さん、どの人ですか?」
院外研修に出ているはずの仁寿が突然あらわれたので、看護師たちは面食らった様子だったが、それにかまわず近くの電子カルテにログインして、看護師が読みあげる患者番号を打ち込む。カルテの記録を順に追い、仁寿は患者のもとへ急いだ。
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