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1巻

1-2

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(なに『処女なのが悩みなんです』って言いそうになってるのよ! 私っ!)

 なんとかごまかそうと、なつきは震える声を出す。

「あ、あの……、えっと……」
「言いたくないことなら無理に言わなくてもいいよ。俺と君は今日知り合ったばかりだしね。今日を過ぎたら、ふたたび会うかどうかもわからない関係だし」

 動揺をくんだかのような優しい言葉に、なつきは胸をで下ろす。
 落ちついてきたなつきを横目で見ながら、怜は今までで一番優しい笑顔を向けた。

「でも、そういう相手って、仲の良い友人には言いにくい悩みを相談するにはもってこいだと思うよ。気兼きがねがないし」
「……怜さん」
「俺もお酒を飲んでるからね。大体のことは明日には忘れちゃう予定」

 だから遠慮なく話して。とあんに言われ、なつきは胸が軽くなった。
 確かにこういうことを相談するのならば、男性がいいだろう。
 けれど、なつきにはそういうことを相談できるような男友達はいない。
 彼の言うとおりに、なつきと怜は今後会うかどうかもわからない関係だ。だから、ふたたび会った時の気まずさを気にすることなく相談できるだろう。

(相談、してもいいのかな?)

 うかがうように彼を見上げたところ、怜は一つ頷いてくれる。

「あ、あの、引いちゃうかもしれないんですけど……」

 なつきは消え入りそうなか細い声で、築山の好みと自分が処女であることを怜に相談したのだった。


「『派手で、経験が多く、ベッドの上で奔放ほんぽうな女性』ねぇ……」

 話を聞き終えた怜が少し考えながらあごさする。
 なつきは、その隣で縮こまっていた。

「やっぱり男の人って、そういうの無理な人はどうやっても無理なんですかね?」
「処女かどうかってこと?」

 なつきは何度もこくこく頷く。

「どうだろうね。虚勢きょせいを張ってそういうことを言うだけの男もいるし、一概いちがいには言えないけど。でも、女性のハジメテを面倒くさいって言う人は一定数いるよ。同じように経験豊富な女性がいいっていう男も」
「や、やっぱり……」

 なつきの周りの空気だけが、ずーんと重たくなる。
 怜はそんなことまったく気にならないのか、平然とした顔で手元のカクテルを一口飲んだ。

「派手な格好とか、性格とかは私でも、本当にすっごくすっごく頑張ったらなんとかなると思うんです! ……でも、そういう経験だけは……」
「言い方が悪いかもしれないけど、初体験を済ませたいってだけなら、方法はいくらでもあるんじゃない? それこそ、合コンの中で適当に男を見繕みつくろうとか。なつきちゃんなら、別に苦労せずにそういう相手を見つけられると思うよ?」
「……それが、無理なんです……」

 肺の空気をすべて吐き出すような溜息をつき、なつきはカウンターにひたいをつけた。

「私、男性とそういうことができない体質なんです」
「と言うと?」
「眠っちゃうんです」
「眠っちゃう?」
「そういうことをしようとすると、途中で相手が眠っちゃうんです!!」

 なつきはわっと声を上げ、顔をおおった。
 ――そう、なつきの困った体質というのは『一緒に布団に入った人物が、必ず寝てしまう』というものだった。

「今まで何人かの人とお付き合いしたことがあるんですけど、どの人も私と同じ布団に入った瞬間、すぐ寝ちゃって! 男の人だけじゃなくって、女友達もペットの犬も猫も小鳥もハムスターも! みんな一分もかからずに寝ちゃうんです! 修学旅行なんて、私の部屋だけ全員即寝ですよ!」

 なつきの荒れた様子に、怜は目をまたたかせる。
 驚く彼に構わず、なつきは鼻をすすり、言葉を続けた。
 その目の端には涙が光っている。

「私の体質が原因で、毎回彼氏とは上手くいかなくなって別れちゃうし。修学旅行も、高校生ぐらいから、あからさまに同じ部屋になるのを避けられて……。挙げ句の果てには『眠らせ姫』なんてあだ名までつけられたんですよ!? ……私、なにか眠たくなるような成分でも分泌ぶんぴつしてるんですかね」
「うーん、それはないと思うけど。でも、その原理だと、君と築山って男の人が付き合えたとしても、結局別れちゃうんじゃないの? だったら無理して自分を変えようとか思わなくても……」
「……でも、築山課長だけは違ったんです」
「違う?」

 怜はなつきの言葉を繰り返す。
 彼女は頬を引き上げ、照れ笑いを見せた。
 その顔は恋する女のそれだ。
 そして大切な思い出を記憶から引き出し、胸に手を当て、目をつむった。

「去年の社員旅行で私、湯あたりで倒れちゃったんです。その時に、築山課長が部屋まで運んでくれて、私が眠るまで添い寝を――あの時の課長は本当に優しくて……。なんと築山課長は寝なかったんです! 私の隣に添い寝しながら、ずっといろいろ話してくれて……」

 うっとりと息をつきながら、なつきは頬を熱くする。
 怜は話を聞き、椅子の背もたれに背中を預けた。
 そして、腕を組む。

「つまり、君は相手を眠らせてしまう体質で、唯一想い人にはそれが効かない。けれど、相手の女性の好みがまったく自分と合わないから困ってるってわけだ?」
「はい。というか、私の体質に抵抗できる人って築山課長しかいないのに、彼は処女がダメとか、本当に絶望的で……」

 ふたたび、なつきの目尻に涙が浮かぶ。
 怜はその涙を彼のハンカチで拭い、いぶかしげな声を出した。

「正直言うと、にわかには信じられないけどね。その築山って人が特別なんじゃなくて、今まで君が関わってきた人たちが例外だったんじゃないの?」
「信じてもらえないってわかってます。初めて話した人は、皆変な顔しますし。……でも、本当なんです」

 彼から受け取ったハンカチを目に当てながら、なつきは声を落とす。
 怜は真剣な表情で、なにかを考えているようだった。
 しばらく沈黙が続き、なつきが飲み物のおかわりにウーロン茶を頼んだところで、ようやく怜が口を開いた。

「……それが本当なら、好都合だな」
「え? 今なにか言いまし……」
「あっ、雨宮さん! いた!」

 怜の呟いた声に、なつきが反応した瞬間だった。彼女の声をさえぎるように背後から声がかかったのは。二人は同時に振り返った。
 そこには、合コンでなつきの隣に座っていた男の姿がある。
 どうやら、いつまで経っても帰ってこない自分を心配して探してくれていたようだった。
 男は怜の存在にぎょっとしながらも、なつきの側まで歩いてくる。

「どこ行ってたの? 探したんだよ。ほら、そっちで飲んでないで戻ろう! 皆、待ってるよ」

 いきなり手を取られて、なつきは目を丸くした。
 ぞわぞわとした悪寒おかんが背中を走る。
 なつきは決して男性が苦手ということはないのだが、下心を隠すことなく近付いてくる男は、どうしても警戒してしまう。
 なつきは男の手をやんわりと振り払い、椅子から立ち上がり、距離を取った。

「ごめんなさい! 少ししんどくて、もう帰ろうかと思っていて……」
「そうなんだ! それなら家まで送るよ」
「えっと……」

 気分が悪いという女性を前に、嬉しそうに笑う目の前の男が信じられない。嫌悪感がじわじわとい上がってくるが、上手く断る方法が思いつかない。
 なつきがまごまごしていると、ふたたび男が手を伸ばす。
 しかし、その手がなつきに触れることはなかった。
 触れる前に、別の男性がなつきを引き寄せたからである。

「残念。彼女は俺が送ることになってるんだ」
「へ?」
「は?」

 見上げると、怜がなつきの肩をしっかりとつかんで自分のほうへ引き寄せている。
 突然の行動に、なつきは言葉を失ってしまった。

「ほら、行こう」
「え? なん……」
「いいから合わせて」

 甘い声で囁かれ、反射的に頷いてしまう。

「横から取ったみたいで、悪いね。じゃ」

 なにが起こっているのかわからないまま、なつきは怜に連れられて店を後にした。


 しばらく、恋人のように肩を引き寄せられて歩き続けた。
 十二月に入ったこの時期の街並みは、クリスマスを意識して赤や緑や白の電飾でライトアップされている。
 粉雪がチラチラと舞う中、なつきはいまだに自分の肩を離さない怜を見上げた。

「あの、先ほどはありがとうございます」
「別に大したことはしてないよ。これぐらいであきらめてくれる人でよかったね」
「あ、はい」

 なつきは一つ頷いた。
 ――あの時、とっさの判断で怜が連れ出してくれなかったら、なつきは言われるがまま、部屋まで付いてこられたかもしれない。間違っても一夜を共に……なんてことはなかったと思うが、無理やり迫られた可能性はある。おそらく相手は行為前に眠ってしまうだろうが、心に深い傷を負っていただろう。
 こうやって無事に帰れているのは、ひとえに彼が機転をきかせてくれたおかげだった。

(相談にも乗ってくれたし、助けてもくれたし。怜さんって本当に優しい人だな。最初『女慣れしてそう』とか、失礼なことを思ってごめんなさい)

 つい一、二時間ほど前のことを思い出しながら、なつきは心の中でそう謝った。
 初対面なのに、彼の厚意に甘えてばかりである。

「相談も聞いてもらっちゃいましたし、このお礼はいつかちゃんとしますね! ……と言っても、できることは少ないですが……」

 なつきにできることと言えば、精々なにかをおごったりするぐらいだろう。しかも、しがないOLの身だ。大したものはおごれない。
 それでも精一杯のことはしますよ! とやる気に満ちた瞳で訴えたところ、怜は少し驚いた表情を浮かべた後、なつきを覗き込んできた。
 いきなり迫ってきた彼の顔に、なつきは狼狽うろたえる。

「あ、あの……」
「それならさ。俺、困ってることがあるんだけど、ちょっと手伝ってくれない?」
「あ、はい! 私にできることなら、なんでも言ってください」
「……なんでも?」
「え? ……は、はい」

 念を押すように聞かれて、なつきは少し戸惑いながらも頷いた。
 すると、怜は口元を押さえて笑い出す。

「築山って人のことを聞いた時も思ったけど、なつきちゃんって男見る目ないでしょう?」
「えぇ!?」
「それとも、お馬鹿でお人しなだけなのかな」
「そ、それはどういう意味ですか?」
「別に、そのままの意味だよ。ただ、ガードは堅いくせに、悪い男にはコロッとだまされそうだなぁって思っただけ。……じゃ、行こうか」
「どこに……?」
「俺の困り事、一緒に解決してくれるんでしょう?」

 のがさないとばかりに、怜の手の力が強くなる。
 石畳いしだたみの道を照らす街灯の光が、優しいはずの彼の顔をあやしく歪ませた。

(もしかして、しくじった……?)

 背中を駆け抜けた悪寒おかんに、なつきはぶるりと背筋を震わせた。


(なにがどうしてこんなことになってるんだろう……)

 一時間後、なつきは駅前にあるホテルの一室にいた。
 ブラウンと白でまとめられたお洒落しゃれな一室には、大型テレビと机、それとダブルベッドがある。
 なつきはダブルベッドに座り、ガチガチに固まっていた。
 BGMなどは流れておらず、ただ、怜がシャワーを浴びている音だけがなつきの耳に届く。

(これは……まさかお持ち帰りをされてしまったんじゃ……)

 さぁっと血の気が引く。
 しかし、次の瞬間思い直した。それはない、と。
 怜の困り事が『性欲を持て余している』とかならあり得なくもないが、あれだけの美丈夫びじょうふだ。処女で、地味で、変な体質を持っているなつきなどを相手にしなくても、いて捨てるほど女は寄ってくるだろう。

(お持ち帰りは違うか。怜さんは私の体質についても知ってるわけだし)

 怜がわざわざ、なつきを選ぶ理由がどこにもない。

「でもそれなら、この状況は一体……」

 そう呟いた時、シャワーの音がんでいることに気が付いた。
 背後に人の気配を感じて振り返ると、ガウンを羽織はおった怜がいた。
 優しさと妖艶ようえんさをね備えた彼は、笑顔のままなつきの側まで寄ってくる。
 そんな怜から逃げるように、なつきはベッドの端から中心まで移動した。
 しかし、追い詰めるほうが速く、なつきは、あっという間に腕をつかまれて、逃げられなくなってしまう。

「つーかまえた」

 楽しそうな声に、楽しそうな顔。
 腕から感じる彼の体温に、なつきの胸は高鳴った。

「というか、なんで逃げるの? まだなにもしてないのに」
「いや、怜さんがあまりにもキラキラしていたもので……」
「キラキラ?」
「万年地味子をやってる身なので、まぶしすぎるものを見ると反射的に……」

 バーの中も外も薄暗かったのでよくわからなかったが、こうして明るい所にいる怜は、控えめに言ってかなり整った顔立ちをしている。
 そんな彼が、ガウンを羽織はおっただけの格好で目の前にいるのだ。しかも、シャワーを浴びた直後なので、せっけんのいい匂いもする。
 なつきはまぶしくて両目が潰れる思いがした。

「うーん。よくわからないけど、嫌われてはいない感じなのかな? 生理的に受け付けないとか」
「ま、まさか! おそれ多いだけで、そういうんじゃないです!」
おそれ多いって。なつきちゃんって面白いこと言うんだね」

 怜は肩を揺らした。そうして口元に笑みをにじませたまま言葉を続ける。

「まぁ、でもよかった。あんまりなびかないものだから、嫌われてるのかなって少し不安だったから」
なびく……?」
「うん。結構あからさまにアピールしてたんだけど、もしかして気が付いてなかった?」
「……アピール?」

 ぽかんと口を開けてほうけた表情を浮かべるなつきに、怜は「どうりで、手ごたえがないわけだ」とふたたび笑みを零した。

「じゃあ、今後のために覚えておいて。男があんな薄暗い酒場で『話し相手になって』なんて言って隣に座った時は、大体下心があるから」
「下心……? え!? 下心!?」

 ひっくり返った声を上げて、なつきは怜と距離を取ろうとする。しかし、腕はいまだにつかまれていて、彼からのがれることは叶わなかった。
 近付いてきた彼の身体に、なつきは視線を彷徨さまよわせる。

(し、下心って、やっぱりお持ち帰り!? いやいや! それはない! やっぱりない!!)

 怜はなつきの体質の話を終始疑っていた。それなのに『私と一緒にいると、皆眠くなっちゃって。だから私、処女のままなんです』なんて痛いことを言う女と関係を持とうとするのはおかしな話だ。
 絶世の美女ならいざ知らず、なつきは派手な格好をしていても場慣れしていないと見抜かれるような根っからの地味女である。
 固まったままのなつきを、怜はいとも簡単に押し倒す。
 そして、恋人のように指を絡ませ、なつきの両手をシーツの上に縫い付けた。

「れ、怜さん!?」

 どうせ一分後には寝てしまうのだろうとわかってはいても、心臓の鼓動が速くなるのは止められない。
 怜の肌は、先ほどまで湯を浴びていたせいか湿り気を帯びていて、なんとも言えないなまめかしさだ。
 濡れた髪の毛も、どこか淫靡いんびな雰囲気を漂わせていた。
 なつきは腹に力を込めて声を出す。

「あ、あの、こんなことしてると眠くなっちゃいますよ!」
「眠くなりたいんだよね」
「へ?」
「俺、不眠症なんだ」

 突然のカミングアウトに、なつきは言葉を失う。
 呆然ぼうぜんとする彼女を組み敷いたまま、怜は言葉を続けた。

「実は、今日で三日寝てなくてね。それをなつきちゃんに助けてもらいたいんだ」

 その言葉を裏付けるように、よく見ると怜の目の下にはうっすらとくまができている。
 なつきは強張っていた身体の力を抜いた。

(怜さん、私の体質の話、信じてたんだ)

『眠らせてほしい』と言うのだから、そういうことだろう。
 一瞬でも、もしかしてお持ち帰り……なんて思ってしまった自分がずかしかった。

「えっと。つまり私は、自分の体質を利用して怜さんを眠らせればいいんですか?」

 なつきが首を傾げると、怜も首を横に倒した。

「うーん。半分当たりで、半分外れかな」

 怜は手のひらで支えていた身体をひじで支えはじめる。身体同士の隙間を埋めるように、ぴったりと重なった。
 布越しに体温を感じ、なつきは緊張で身体を硬くする。

「俺は正直、君の体質を信じてない。だけど、試してみようかなぁとは思っている」
「……つまり?」
「君と五分間このまま添い寝して、俺が眠ったらなつきちゃんの役割は終了。だけど、俺が眠らなかったら、もう一つの方法に協力してもらおうかなって」
「もう一つ、とは……?」
「えっち」
「は?」
「セックス」
「はいぃ!?」

 なつきは跳び上がる。
 渾身こんしんの力で怜の腕から逃げ、ベッドの隅に移動した。
 しかし、その先は壁になっている。
 怜はなつきを追い詰め、腕と壁の間にすっぽりと閉じ込めた。

「なんでそんなにびっくりするの。さっき『下心がある』って言ったじゃないか」
「いや、まさかそっちの『下心』だとは思わなくて!」
「それ以外の『下心』ってなに? 逆に気になるんだけど」

 怜は、くつくつと喉の奥で笑う。
 彼の余裕綽々しゃくしゃくな笑みを見上げながら、なつきはできるだけ背中を壁にくっつけて距離を取った。

「そ、そもそも! どうして不眠症をなんとかすることが、そういうのに繋がるんですか!?」
「なつきちゃんが処女なのは知ってるけどね。俺はそういうのも、美味おいしく頂けちゃうタイプだし」
「そんなことは今聞いてないです! 私は、なんでそういう行為をすることが不眠症解消と繋がるのかって話を……っ!?」

 狼狽うろたえるなつきを見下ろしながら、怜は困ったように微笑んだ。

「実はね。女性と身体を重ねれば、その後は多少は寝れるんだ。……と言っても、二、三時間連続で睡眠が取れるぐらいだけど」
「二、三時間?」
「そう。たいしたことないでしょう? でも、これをしないと大体一時間おきに目が覚める。酷い時は三十分かな? もっと酷い時はここ数日みたいに一睡もできない。自然入眠も、運動も、薬も、全部効かなくなった最後の手段がこれ。どう? 協力してくれない?」

 怜の口調に必死さはないが、それが本当なら大変なことである。
 三十分おきに目が覚めるというのは想像しただけで頭が痛くなってくるし、まったく眠れないのなんて論外だ。
 怜の話を聞き、なつきは、はっと顔を上げる。

「もしかして、今日はそういうことをする女性を探しに、あのバーに行っていたんですか?」
「ん、まぁね。あんまり多用はしたくない方法なんだけど……」

 恋人はいないからね。と笑う怜に、なつきは視線を彷徨さまよわせた。
 怜の不眠症のことは大変だと思うし、助けてあげたいとも思う。
 自分のこの体質がなにかの役に立つだなんて思っていなかったから、求められただけで嬉しいとさえ感じてしまう。
 けれど万が一、 億が一、怜が『寝ないほうの人』だったら……
 その可能性が頭をよぎり、なつきの頬はじわじわと熱くなっていく。

「えっと……」
「別にこれからずっと付き合えってわけじゃないし、今晩のことをネタにおどそうと思ってるわけでもないよ? 本当に一夜限り。ワンナイトラブ。それに、なつきちゃんだって俺が寝なかったほうがチャンスなんじゃない?」

 その瞬間、怜の長い指がなつきに触れる。
 髪を耳にかけただけなのに、緊張で強張っていた身体は大きく跳ねてしまった。

「――っ!」
「俺なら、優しく教えてあげられるけど……」

 そう耳元で囁かれて、体温が一気に上昇する。
 あまりの熱に、脳が溶けるような心地がした。
 囁かれた耳を押さえながら、なつきは必死で顔をつくろった。

「私が、どっちも協力できないって言ったらどうするんですか?」
「完徹四日目に突入かな? 身体もしんどくなってきたし、そろそろ倒れる頃合いじゃないかな」

 その言葉は、なつきに罪悪感を抱かせた。

(怜さんが寝ない人なわけないんだし、添い寝ぐらいなら……)

 そう思いつつも、心の片隅で彼が寝ないことを危惧きぐする自分もいた。
 チャンスであり、ピンチであるこの状況に、なつきの心は揺れる。
 しかし、辛そうな怜を前に、とても『NO』とは言い出せなかった。

「どう? 俺の睡眠薬になってくれる気はない?」

 その優しい微笑みに、なつきはゆっくりと一つ頷いた。


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