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1巻

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     ◆ ◇ ◆


 そして翌日、唯花には早速、國臣との用事があった。結婚式のドレス選びである。会場を変えなかったので、結婚式は半年後。すごく急がなくてはいけないというわけではないが、準備はもう始めておいたほうがいい時期だろう。そう國臣に提案されて、渋々と応じた結果である。

「これとか、いいんじゃないか?」
「……わかりました。着てみますね」

 貸衣装屋の一角で、唯花は國臣からいかにも愛花が好きそうなフリルのたくさんついたドレスを指差され、辟易へきえきして応じた。これまた愛花が好きそうな服を脱ぎ、ドレスに着替え始める。
 本番さながらにコルセットを付け、カラーのドレスにそでを通す。貸衣装屋の店員は満面の笑みで手伝ってくれるが、唯花の表情は晴れないままだった。

(私の結婚式のはずなのにな)

 身代わりだとしても、これは唯花の結婚式のはずだ。なのに、ひしひしと感じる、妙な疎外感。自分はここにいるはずなのに、ここにはいない感覚が胸を占拠せんきょする。

(それもそうか。私は今、愛花の代わりとしてここに立ってるんだもんね)

 國臣と会う時は、愛花の服を着ろと両親から厳命されているのも、原因の一つなのかもしれない。唯花らしさが彼に知られて、結婚する前に破談になったら困るということだろう。
 ため息をつくと、心配そうな顔をした店員が「コルセット苦しいですか?」と声をかけてくれた。それに唯花は精一杯の笑顔で「大丈夫です」と応じる。

(似合わないな……)

 目の前の鏡に映ったドレスをまとった自分を見ながら、唯花は一人、そう思った。


『お綺麗きれいですよ』と言ってくれる店員に『もうちょっと考えますね』とやんわり断りを入れ、唯花はドレスを脱ぎ、試着室から出てくる。それを迎えたのは、試着室の前にいた國臣だった。

「着て出てこなかったのか?」
「ちょっとイメージと違って……」
「そうか……」

 そう答える彼女に、國臣は釈然しゃくぜんとしない顔でうなずいた。
 唯花だって、これが普通の結婚ではないとはわかっている。だから、できるだけ愛花が着そうなドレスを選ぶべきだと思っているし、彼の意向にもそわなければとも思っている。
 けれど、多少は自分に似合うものを選びたかった。

(好みじゃなくてもいいから、愛花が着そうなデザインで、私が着ても変じゃないもの……か)

 それが一番の希望だ。だけど、そんなドレスがあるのだろうか。

「他に試着してみたいドレスはないのか?」

 彼の言葉に、唯花は壁一面にかかっているドレスを眺める。素敵なドレスばかりで着てみたいドレスがないこともないのだが、そのどれもが愛花の選びそうもないデザインのものばかりだ。こんな機会なかなかないのだし、着るだけ着てもいいかなと思ったのだが、万が一『これだ!』と思うものに出会ってしまった場合、きっとそれを本番で着られなかった後悔のほうが残ってしまうような気がする。

「えっと、ドレスは今日決めなくてもいいんですよね?」
「あぁ。別に今日じゃなくてもいいぞ。来月末ぐらいまでには決めたほうがいいが……」
「じゃあ、今日はここまででもいいですか?」

 昨日の今日でまだ覚悟が足りていないのかもしれない。日を置くと判断した唯花に、彼は気分を害すことなく、「それならもう出るか?」と提案してくれた。


「すみません。次はちゃんと決めますから」

 國臣の運転する車の助手席に乗り込むや否や、唯花はそう言って小さく頭を下げた。
 彼女のその行動に國臣は目をしばたたかせた後、ふっと優しい笑みを浮かべる。

「別に急がなくてもいい。結婚式なんて一生に一度なんだから、納得できるドレスが見つかるまで探せばいい」
「でも、國臣さんもお仕事休んで来てくださったのに」
「それは別に良い。うちは部屋数も少ないし、来てくださるお客様も変な人はあんまりいないからな。俺が出て行かなくてはならない事態にはなかなかならない」

 それでも色々な仕事があるだろうに、彼はそれを感じさせないような笑みを浮かべる。

「それより、これから暇か?」
「え?」
「唯花が良いなら、食事でもしないか? 話したいこともあるし……」
「唯花……」

 十年ぶりのその響きに、唯花は呆けたような顔になった。
 國臣はそんな彼女の表情に、首をひねる。

「どうかしたか?」
「いえ、ちゃんと名前覚えてくれてたんだなぁって」

 名前を呼んだ。たったそれだけのことに、胸がジンと温かくなる。正直、忘れられているものだとばかり思っていたからだ。

「当たり前だろ? 俺は誰かさんみたいに、たった十年で人の顔と名前を忘れるような薄情者じゃないからな」
「……もしかしてその薄情者って、私のことです?」

 再会した時のことを言われているのだとわかって、唯花は口をへの字に曲げた。
 國臣はハンドルを切りながら、くつくつと喉の奥で笑う。

「バレたか」
「――あ、あれは! そっちが着物なんか着てくるからで! 洋服だったら絶対にわかったと思います! 眼鏡もしてなかったですし……」
「いいや。俺が洋服だったとしても、お前は絶対に気がつかなかったな」
「そんなわけないです!」

 気がつくと、声を張り上げていた。まるで、十年前に戻ったかのようなやりとりに、声色こわいろとは対照的に胸がはずみ出す。

「それにもし、私が着物着て現れたら國臣さんだって気がつかなかったと思いますよ!」
「そんなわけない」
「言うのは簡単ですからね!」
「俺がお前に気づかないなんてことがあるわけないだろ? どこにいても、何年経っても、お前が目の前にいたら気がつくよ」

 瞬間、胸が高鳴った。こんなもの、リップサービスだ。それはわかっている。わかっているのに、頬が自然と緩んでしまう。
 國臣は赤信号で車を止めると、唯花のほうに手を伸ばしてくる。そして、彼女のゆるんだ頬を軽くつまむ。

「やっと、調子が戻ってきたな」

 彼は唇の端を開けるだけの軽い笑みを浮かべたあと、頬から手を離し、車を発進させる。

(なんなのよ、それ……)

 唯花は走る車の中で、つままれた頬をひとなでした。
 ああやって頬をつまむのは、國臣の昔からの癖だ。痛いということはなく、本当に軽くつまむだけ。それで唯花が顔を上げると、彼はいつも嬉しそうに笑うのだ。
 一度だけ、なんで頬をつまむのか聞いたことがある。すると彼は笑って『そのほうが、顔を見てもらえるだろ?』と言ったのだ。
 つまり先ほど頬をつまんだのは――

(顔を見て欲しかったってことなのかな……)

 そう言われれば、久しぶりに彼の顔を正面から見たような気がする。
 昨日だって顔は合わせていたけれど、記憶としては曖昧あいまいだし、何より愛花のことでそれどころではなかった。過去のこともあるので、意図的に顔を合わせないようにしていたかもしれない。

「それで、この後は暇なのか?」

 話を戻すようにそう言ってきた彼に、唯花は首を振った。

「あ、すみません。今日はこの後ちょっと用事が……」
「急ぎなのか?」
「そうですね。時間があるならそっちにてたいですし……」
「……わかった。じゃあ、送る」

 一瞬の名残惜なごりおしさを見せた後、彼はそう言ってハンドルを切る。
 彼の向かおうとしている方向に、唯花は慌てて声を上げた。

「あ、すみません! そっち方向じゃないんです!」
「ん? 梶さんの家はこっちだろ?」
「あの私、今、ビジネスホテルに泊まってまして……」

 國臣は大きく目を見開く。意外というような顔だ。こちらに実家があるのに、別のところに泊まっているということに驚いているのだろう。

「あ、えっと。なんか急に帰ることになったから、部屋を用意できなかったみたいで!」

 なんと答えるのが正解かわからなくて、唯花はそう苦笑いを浮かべた。
 正直に『家に居場所がない』とは言えない。彼と一緒に過ごしていた十年前だって、唯花は家のことを彼に愚痴ぐちったことはなかった。一緒にいてくれる彼に『寂しい奴』だなんて思われたくなかったのだ。
 唯花は國臣に悟られないよう、わざと明るい声を出す。

「でも、ビジネスホテルって結構過ごしやすいですよね! アメニティもしっかりしてるし、のんびりできるし! 親とかいるとどうしても気を遣っちゃいますから、すごく楽しいですよ!」
「そうか。……今日もそこに泊まるのか?」
「あ。今日は、今からです……」
「今から?」

 怪訝けげんな声を出した國臣に唯花は視線を下げた。

「実は、年末だから利用者が多いみたいで、一泊しか予約が取れなかったんです。荷物は駅のほうのコインロッカーに置いてて。だから今から、ホテルを探さないといけなくて……」

 最後のほうはしぼむように声が小さくなる。なんだかずかしくなってきた。別にこのことに関して唯花が悪いことは何一つないのだが、それでもずかしいものはずかしい。

「もしかして、今日入ってるという用事はそれか?」
「あ、はい。まだ泊まるところの目処が立っていないので、どれだけ回るのかも見当もつきませんし、できるだけ時間はそっちに回しておきたいなーって……」

 インターネットの予約サイトでは、もうここら辺一帯のビジネスホテルはすべて満室だった。しかしこういう時でも、直接電話をかけるか、受付のほうに行けば、空いてることもままある。唯花はそれを狙っているのだ。
 でもだからこそ、どれだけ回るか見当がつかないし、時間が必要なのである。

「それなら、ウチに来るか?」
「ウチ?」

 意味のわからない國臣の言葉を、唯花はオウムのようにくり返す。

「部屋が余ってるんだ。唯花がそこでよかったら」
「へ?」
(『ウチ』って、もしかして、一条庵⁉)

 部屋が余っているということは、そういうことだろう。

「いやでも! 私、そんなにお金ないですし!」

 唯花は慌てて首を振る。一条庵は部屋数が少ない分、一泊の料金がすごく高い。それこそビジネスホテルとは比べ物にならない値段である。一泊二桁万円なんてのはザラで、繁忙期になると全室スイートルームか⁉ と言いたくなるぐらいの料金になってしまう。

「お金って。婚約者から金を取るわけないだろ?」
「え⁉ 婚約者……」
「違うのか?」
「いや、違いませんけど……」

 唯花は視線を彷徨さまよわせ、逡巡しゅんじゅんした。正直、助かる。とてもありがたい。
 ホテルを探す手間と時間がはぶける上に、お金も節約できる。年末年始はこっちにいる予定だったし、ずっとビジネスホテルの生活はキツいと思っていたのだ。ここで一泊でも浮くならありがたいことである。

(さすがに何泊もするのは申し訳ないけど、一泊ぐらいならお世話になってもいいかな……)

 それに、噂に聞く一条庵の客室がどうなっているかも知りたいという気持ちもある。
 唯花はうかがうような声を出した。

「えっと……良いんですか?」
「遠慮なんてしなくていい」
「それなら、……よろしくお願いします」
「あぁ」

 そうして、國臣にお世話になると決まったのだが……


「ここは……?」
「俺のマンションだが?」
「へ?」

 たどり着いたのは一条庵ではなく、彼が住んでいるマンションだった。
 唯花が呆けている間に國臣はドアの鍵を開けて、中に入っていく。

「自宅のほうは両親が住んでるからな。特に父とは仕事でも一緒だろ? プライベートまでずっと一緒っていうのは、さすがにこの歳になったらキツいからな。ここを借りてるんだ」
「そ、そうなんですね」

 どんどん廊下を進んでいく國臣に、唯花は慌ててついていく。

「広いところがいいなと思って借りたら、家族向けの物件でな。部屋も何個か余ってるから好きに使ったらいい」
「えっと……」
「どうかしたか?」
「もしかして『泊まらせてくれる』って言うのは、ここのことですか……?」
「他にないだろ? 旅館のほうはもう満室だしな」
「あ……」

 そうですよね、という感じだ。この繁忙期に一条庵の予約が埋まっていないはずがない。

(いやでも、さすがにいきなり家に誘ってくるとは思わないし……)

 唯花は國臣のうしろを歩きながら、頬を引きつらせた。
 マンションまでのこのことついてきてしまった今『やっぱりやめます!』とは正直言いづらい。それに、宿が決まったという安心感から、食事も済ませてきてしまっていた。外も暗くなってしまっているので、この状態で新しくホテルを探すというのは、結構現実味がない。

「部屋はそうだな、この部屋とかどうだ?」

 彼がそう言って開けたのはリビングの隣にある部屋だ。ドアを開ければ、がらんとした何もない六畳ほどの部屋が広がっている。

「式までちょくちょくこっちに帰ってくる予定だろう? この部屋はいつでも使っていいから」
「えっと、ありがとうございます」

 正直、その申し出はとてもありがたいが、毎回毎回そんなことを頼むのは申し訳ない。明日からはきちんとホテルを取るほうが賢明けんめいだろう。
 唯花は辺りを見渡しながら、先ほどから頭のすみに浮かんでいる疑問を口に出した。

「あの、さっきから気になってたんですが、ここっていくつ部屋があるんですか?」
「6LDKだ」
「六?」
「あと四つほど部屋が空いている」
「そりゃそうでしょうよ!」

 なんだか広いな、とは思っていたが、一人暮らしで6LDKはやり過ぎだ。唯花なんてワンルームで満足しているというのに、彼は一体、六部屋も何に使う気だったんだろうか。
 何も言えずに固まる唯花に、國臣は振り返る。

「とりあえず、今日は疲れただろ? 先に風呂でも入ってきたらどうだ?」
「お風呂?」
「あぁ、その後少し話をしよう」

 (どうしよう。とんでもないことになったかもしれない……)
 唯花は言われた通りにシャワーを浴びながら、ぼーっと今後のことを考えていた。このまま予定通りに事が進めば、國臣と一晩同じ屋根の下で過ごすことになってしまう。部屋も別々だし、彼の性格上、絶対に何もしてこないとは思うが、仮にも自分達は『婚約している男女』なのだ。万に一つぐらいは『もしかして』があるかもしれない。

「いや、ない! 絶対ない! たぶん……ない!」

 頭を抱えながら、ぶつくさそう呟いてしまう。
 彼との『もしかして』を想像するだけで、どうしようもなくいたたまれない気持ちになってしまう。しかもそれが嫌ではないというところが、また嫌だった。
 彼はどうせ、唯花のことを愛花の代わりとしてしか見ていないのだ。それなのに一線なんて越えたら、切なくて、苦しくて、どうしようもなくなってしまうに決まっている。
 彼が子供が欲しいのかはわからないが、唯花はできれば結婚してからも彼とはそういうことはしたくないと思っていた。

(だってしちゃったら……)

 また彼のことを好きになってしまう気がする。
 彼の性格だから、きっと優しく、丁寧に、女性を扱うのだろう。そして唯花は、腕の中にいる自分だけが特別だと錯覚してしまうに違いない。それなのにきっと、彼はデリカシーなく、耳元で『愛花』なんて唯花のことを呼んでしまうのだ。
 そうなったら、後はもうただただ地獄でしかない。
 そんな想像をして、身体が冷えていく。シャワーから出ているのはお湯のはずなのに、まるで冷水を浴びているかのようだった。


 唯花が風呂場から出てくると、國臣はリビングのソファにいた。彼は十年前のように眼鏡をかけて本を読んでいる。彼は唯花の気配に顔を上げると、軽く微笑んだ。

「出たか」
「あ、先にいただきました」
「なんだかまた他人行儀になってるな。シャワーを浴びながら変なことでも考えたか?」
「それは……」

 図星を突かれて固くなる。どう答えていいか迷っているうちに、彼はソファの端に寄って、隣をポンポンと叩いた。座れということだろう。唯花はそれに従うように、彼の隣に腰掛けた。
 國臣は隣に座った唯花のことをじっと見下ろすと、片眉を上げる。

「それにしても、唯花の部屋着はそんな感じなんだな」
「へ?」

 そう言われて、唯花は自分の姿を見下ろした。今着ているのは、彼女が普段から着ている部屋着だ。学生の頃のジャージに適当なだぼっとしたシャツを着ているだけの、大変にラフな格好である。

「あ……」
「それ、高校生の時のジャージだろ? まだ持ってたのか?」
「――っ!」

 唯花は思わず、服を隠すように自分自身を抱きしめた。
 全身の血が沸騰ふっとうして、毛が逆立つ。ずかしい。ずかしすぎる。どうしてのこのことこんな格好で出てきたりしたのだろうか。しかも指摘されるまで、唯花は自分がどんな格好で彼の前に立ったのか気がついていなかった。

(だ、だって、パジャマとして持ってきたの、これしかなかったし!)

 唯花はそう自分自身に言い訳をする。
 しかもこんなの、全然愛花らしくない。彼女ならばもっと女子力の高い、可愛らしいもこもことした部屋着を着るに違いない。こんなことになるとはまったく想定してなかったので、実家から持ってきた愛花の服は外行き用のものばかりだった。

「こ、これはっ!」
「なんだかそっちのほうがお前らしいな」
「……え?」

 意外な言葉に頓狂とんきょうな声が出た。
 唯花の慌てようが面白かったのだろう、彼は口元を手で隠しながら、笑みを含んだ声を響かせる。

「昼間の服も似合ってないこともなかったんだが、なんだか唯花らしくないと思っていたからな。お前は『お嬢様』って感じじゃないだろ?」
「なっ……」

 なんだかとても失礼なことを言われたような気がする。『「お嬢様」って感じじゃない』とはどういうことだ。ジャージが似合うというのも聞き捨てならない。

「私服がそうだからドレスもそっち系統がいいと思って提案したんだが、なんだかイメージとは違うし、想像してもしっくりこないし。実際に見たら違うのかなと思って待っていたのに、お前は着て出てこないし……」

 唯花は更衣室前で見た彼の釈然しゃくぜんとしない顔を思い出す。

(あれって……)

 そういう表情だったのか。唯花はてっきり、『俺が選んだドレスを着て見せないのか』と不機嫌になっているのかと思っていた。

「十年前は制服姿しか見てないから想像でしかなかったんだが、ああいうお高くとまった服より、そっちのほうが俺の知ってる唯花らしい」
「そう、ですか」

 結構失礼なことを言われている気がする。だけど、それが嬉しかった。彼が今日一日、自分のことをちゃんと見てくれていた証拠だからだ。
 唯花は申し訳なさ半分、嬉しさ半分という、不思議な表情で視線を下げた。

「あの。実はあれ、愛花の服なんです。クローゼットに残ってたのを借りて着ていたんです」
「どうりでな。でも、どうしてそんなこと……」
「私は一応、愛花の代わり、なので……」

 國臣は大きく目を見開いて一瞬だけ固まると、妙に納得のいった顔でうなずいた。

「だからか」
「はい?」
「だから今日ねてたのか」
「……ねてたって……」
ねてただろう?」

 苦笑しながら彼はそう言う。言われてみれば、『ねていた』と評されてもおかしくない態度だったかもしれない。けれど、そんな駄々だだっ子みたいに言われると、ちょっと腹が立ってくる。彼にとってはねてるように見えたかもしれないが、彼女としては真剣に悩んで行動した結果だ。
 唯花が不満を表すように唇をすぼませると、彼はまるで子供にそうするように彼女の頭をでた。

「でも、そうだな。これは俺が悪いか」
「……國臣さん?」
「悪かった。嫌な思いさせたな」

 彼の親指が目の下を拭う。別に涙がこぼれているわけでもないのに、なぜかその仕草になぐさめられた気がした。

「大丈夫だ。唯花は愛花の代わりじゃないし、俺もちゃんと唯花と結婚したいと思ってる」
「え?」
「だから無理に愛花になろうとする必要はない」

 驚きが最初に来て、次に怒りが湧き起こった。
 誰が、どの口で、そんなことを言うのだ。

「……嘘つき」
「ん?」
「そんなこと言いながら、國臣さんは私のこと愛花の代わりとしてしか見てないんでしょう?」
「そんなことはないぞ」

 感情のままに吐き出した言葉を、飄々ひょうひょうとそうかわす彼が気に入らない。
 唯花はさらに語気を強めた。

「じゅ、十年前、キスしたこと覚えてます⁉」
「ん。忘れてない」
「あの時私になんて言ったのか、覚えてないですよね⁉」
「覚えてる」

 驚くほどはっきりそう言われ、唯花は「は?」と声なのか吐息なのかわからない音を漏らす。

「『愛花に似ていたから』……だったかな」

 昔と変わらない声色こわいろでそう言われ、唯花は口をあんぐりと開けたまま固まった。そしてしばらく固まった後、わなわなと唇を震わせる。

「覚えてるならなんで……」
「あれは、最初にお前が泣いたんだろ?」
「へ?」
「泣きながら『どうして』なんて聞いてくるから、それほど嫌なのかと思って、……ごまかしたんだ」
「ごまかした……?」

 確かに十年前のあの時、唯花は泣いた。だけどあれは、感情が高ぶってしまったがための涙だ。嬉しくて、びっくりして、出てきてしまった涙。決して彼とのキスが嫌だったというわけではない。

「もしかしてあの言葉、ショックだったのか?」
「だって……」

 当時、唯花は彼のことが好きだったのだ。だから、愛花の代わりにキスされたという事実にすごくショックを受けた。夜通し泣き続けて、翌日は学校も休まないといけないぐらい目がれてしまったし、声も枯れてしまった。
 でも今更そんなことは言えない。あれは十年前の恋心で、あの日あの時に、部室に捨ててきたものなのだ。今の唯花は國臣のことなど、なんとも思っていない……たぶん。

「そもそも当時の俺は、愛花とあまり交流がなかったんだぞ? 親に会えと言われた時に会っていただけだし。どうして愛花の代わりに、お前にキスをしないといけないんだ」
「じゃあ、あの時のキスは……?」
「好きだったからに決まってる」


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