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2 幼き日の太陽

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「ユグ、どうしたんだ。夕食もとらずに」
きっと困り果てた者たちから話が行ったのだろう、兄上が部屋の扉をノックしていた。
「――今はひとりにして下さい。少し、考えたいことがあるだけです。心配はいりません」
無理に部屋から追い出したメイドや側仕えたちは、叱られるだろうか。
俺を心配する声にただ申し訳なく思うけれど、せめて今夜はひとりで過ごしたかった。
優しくされたくは、なかった。

「分かった……明日は顔を出せよ」
「はい」
賢い兄は、それ以上言わず、皆に指示を出して場を納めてくれたようだ。

明かりも点けない室内は既に暗くなり、昼間とは打って変わって冷たい空気が忍び寄る。
太陽は、既に沈んでしまった。

『――良かったのですか?』
きっと、あまりに酷い顔をしていたのだろう。帰りの馬車でそう聞いたのは、メイドだったか側仕えだったか。
そんなこと、聞かないでくれ。
俺はのろのろと薄い寝間着へ着替え、窓を開けた。
吹き込む風に薄布が膨らんで、冷えた闇夜が肌を撫でる。
窓を掴む手はカタカタと震えていた。
そんなこと、聞かないで。


フラウは、きっと知らない。
きっと覚えていない。
俺が初めて彼女に出会った時のこと。

まだ幼い日、俺は虚ろな心を抱えて歩いていた。
抱えた花の白が眩しくて、きっと、晴れた日だったと思う。この物寂しい静寂の園を歩くのは、何度目になったろうか。
けれど、いまだ俺の目には何も映っていなかった。まだ幼い身には、喪失の痛みは大きすぎた。

『ご覧、ユグ。君と同じように、悲しむ子だ』
兄上がなぜその時声を掛けたのかは分からない。だけどきっと、虚ろな瞳にせめて何か映さないかと心を砕いた故だったのだろう。

促されるままに顔を上げた先には、俺たちよりずっと小規模な一団がいた。随分質素な装いだったけれど、自分たちと似ていると思うのは、皆暗く沈んで静かなせいだろうか。
なるほど、俺と同じ、哀しみに囚われた人たち。
ふと花を捧げようとする小さな人影が目に留まり、足を止めた。

フラウは、母君の墓前に花を添え、すすり泣く周囲をものともせずに前を見据えていた。濡れてなお煌めく瞳は、燃えているみたいだった。今を生きている者の輝きが胸を妬き、ついじっと見つめていた。
同じように花を抱えた俺は、一体どんな顔をしていただろう。
それは、さぞかし――。

視線を逸らそうとした時、オレンジ色の閃きが俺を射た。
見られたくない。急いで踵を返そうとした時、軽い足音が目の前まで来たのを感じた。ほんの少し、俺の周囲が緊張して、彼女の家族らしい人たちが肝を潰しているのが分かる。
「あなたの、お母さま?」
まろい声だった。きっと、今この瞬間にしかできない声音は、自然と俺の顔を上げさせる。
こくりと頷いた俺の無表情に、何を思ったろうか。

「私もね……昨日。大好きだったんだよ、優しかったんだよ」
俺はただ、その顔を見ていた。少なからず、衝撃を受けていたと思う。だって、昨日だと言った。俺がまだこんななのに、彼女が失ったのは、昨日だと言う。
次々溢れる涙を越えて、どうして彼女がそんなに美しく微笑んでいるのか分からなかった。
「なぜ。……君、わらってる」
いつぶりなのか、俺の口から零れた声を聞き止め、周囲がざわめいた。止めに来たであろう彼女の家族が、俺の周囲の者に止められているのが見える。

「私は、笑っているわよ」
しゃがみ込んだ少女は、こっそりと耳打ちする。『実は、昨日『こうずい』になるほど泣いたのよ』なんて。
そして俺の両頬を小さな手で包んだ。暖かい日差しの中で、その手は随分冷たかった。

「ほら、見てちょうだい。私の笑顔、素敵でしょう!」
流れる涙をそのままに――目の前で、ぱあっと、お日様の花が咲いた。
大輪の笑顔から迸った光は、俺の虚ろな瞳の奥の奥まで、貫いていった。

「お母さまはね、私が好きだったんだよ。私の笑顔が好きだったんだよ」
脳裏に、亡き母の面影が蘇る。
『私の天使、なんて愛らしい笑顔かしら』
『私が旅立つ時、きっとあなたみたいな天使が迎えに来てくれるのよ』
病床でいつも、俺を撫でた優しい手。
だから、笑ってなきゃいけないの? こんなに悲しいのに?

「――だからね、幸せにしてあげるの! お母さまの大事な私を、誰よりも幸せにしてあげるって決めたのよ!」
ぼたぼたと涙をこぼしながら、彼女は瞳を煌めかせた。
オレンジ色の輝きが、俺の瞳に焼き付いていく。
ぼたぼたと溢れる涙が俺の手にも滴って不思議に思う。触れた頬が濡れているのを感じ、始めて自分が泣いていることを知った。
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