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俺の名前はニコル・ロイド。
姉御。
年下であるはずの彼女を俺がそう呼ぶようになったのは、いつのことだったか。
周囲から忌避され、軽んじられていたヴィルヘルム殿下の婚約者だからと、同じように忌避され、軽んじられていた彼女に軽い気持ちで注ぎたての紅茶を頭から掛けたときのこと。
俺が17歳、彼女が9歳のころのことだった。
頭から紅茶を被って、あられもない姿になった彼女を、周囲の大人たちが嘲笑う。
あの卑しい者の婚約者だからいい気味だと。
だから俺も罪悪感なんてこれっぽっちも感じていなかった。
むしろ、英雄気取りでいた。
卑しいものに罰を与えてやったのだと。
だけど、そんな優越感に浸っていられたのはほんの数秒のこと。
紅茶が滴る前髪の隙間から、真っ直ぐこちらを見据える瞳に捕らえられた瞬間、一気に酷く居心地が悪くなった。
「これが初対面の人間にする、あなたなりの挨拶ですか?」
姉御が静かな声でそう言った瞬間、目の前に茶器が飛んで来た。
慌ててはたき落とすが、その衝撃で茶器は割れ、結局俺も頭から紅茶を被る結果となった。
「貴様ごときの分際で何をする!」
姉御の所業に頭に血が上り、逆上し摑みかかる俺の手を姉御は汚らわしそうに扇子で跳ね除けた。
「っ!」
「触るな下衆め」
俺から一切視線を外さず、姉御は底冷えするような笑みを浮かべた。
「初対面の相手に紅茶をぶっ掛けてクスクス笑うのがあなたの挨拶なのでしょう?礼儀に習って返したまで。
何をそんなに怒る必要があるの?」
こてん、と首を傾げながらも軽蔑するような色を宿した姉御の瞳に思わずたじろぎながらも、俺は怒りに任せて叫んだ。
「俺とお前を一緒にするな!」
「あら、それもそうね。
あなたは大人の言葉を鵜呑みにして、自分で善悪を考えることさえできない下衆だもの。
きっとあなたの頭には果物の種しか入っていないのね。
そしてきっと、一晩寝たらすぐに忘れるんだわ。
まるで同じ罠にかかる鳥と同じね。」
「なっ!」
「あら、これでは鳥に失礼ね。
鳥の方がまだいいわ。
まぁとにかく、そんなあなたと私が同じであるはずがないわね」
「なんだと!?」
「まだこれ以上言わせる気?
無知でも無能でも許されるのは、それを受け入れて努力する者だけよ。
自分で手に入れたわけでもない身分の上に胡座をかいて努力もせず、人を辱めることで己を強く見せたがるクズ野郎を相手にしている暇はないって言ってるのよ」
隠しもしない怒りを瞳に込めて、姉御が俺を見据える。
「悔しかったらしっかり自分の目で見て、聞いて、人の言葉に惑わされず自分の頭で考えて行動してごらんなさいよ。
そしたら、己がどんなに愚かか分かるはずよ。
それでも文句があるなら、その時は聞いてあげてもいいわ」
それから、と姉御は更に目を鋭く光らせた。
「ヴィルヘルム様にも同じような愚行を犯してごらんなさい。
必ず私が死んだ方がマシだと思うくらい厳しく躾けてあげるわ」
今思えば、本当に9歳か?と突っ込みたくなる程姉御はしっかりしていて、ピンと背筋を伸ばして去っていく後ろ姿がとても眩しく映ったのを鮮明に覚えている。
それから姉御の姿を見かける度、姉御を目で追いかけるようになった。
姉御と一緒にいる兄貴にも必然的に目がいく。
当たり前のことだが、そこに兄貴がいるからと言って呪われることはなかったし、被害に遭うこともなかった。
俺は何に怯えていたのか。
大人たちは何を怯えているのか。
否、怯えているのではないのだと、理解するまでに結構な時間を要した。
なぜなら、これまでの正解が一気に覆るから。
これまで善と思っていたことが悪だったなんて、誰も認めたくはないに違いない。
だけど、姉御のあの虫けらを見るような目がどうしても頭から離れなかった。
あんな目ではなく、兄貴に向けるような陽だまりのような暖かい眼差しが欲しかった。
それが無理でも、同じところに立って物事を見つめ、認めて欲しかった。
だから、学園の教師になろうと思った。
教師になって、俺が姉御に教えてもらったように、俺も子どもたちに教えてあげられるように。
これ以上下衆を増やさないように。
彼女の方が年下なのに、変な話だなと何度自分を嘲笑ったことか。
そして、少しずつ変わった俺に気づき、認めてくれた姉御。
そんな姉御が、思いつめたような顔をして俺の前にいる。
「ニコル、私に守護魔法を教えて」
切羽詰まったように教えを乞う姉御に首をかしげる。
学園はほとんどの貴族が15歳から入学する。そこで魔法を習ったり、社交を広げたりするのだ。
それ以前にも家で雇った家庭教師がついて基本的なことは学ぶのだが。
姉御もあと3年もしたら学園に入学するだろう。
「守護魔法?学園に入ったら嫌でも習うぞ?」
そう焦らなくてもいいのではと告げた俺に、姉御は切迫詰まったように首を振る。
「ダメなの!それじゃ遅いの。
今すぐ使えるようになりたいの!」
姉御のその様子を不思議に思うものの、姉御が頼ってくれたことが嬉しくて、結局守護魔法を教えることにした俺。
2人きりで守護魔法の練習を重ねて数回した頃、姉御との待ち合わせ場所に向かう途中、兄貴が反対側から歩いてくるのが見えた。
兄貴と王宮の外で会うことなど滅多になく、めずらしいこともあるものだなと思いつつ、何となく姉御の特訓を2人の秘密的な感じで受け止めていた俺は、少しだけ気まずさを感じながら、軽く挨拶だけして立ち去るつもりだった。
が。
「ニコル」
呼び止められた。
渋々振り向くと、口元に笑みを浮かべた兄貴がこちらを見ていた。
「…」
おかしい。
口元はすげぇ綺麗に笑ってるのに、目が笑ってない。そして、背後に魔王が君臨して見えるのは気のせいか。
これは、姉御との特訓がバレている。
バレている上にめちゃめちゃキレているだろうことはその雰囲気からして明白だった。
「あれは私のだ。手出しするな」
この第二王子、上手く隠してはいるがものすごい魔力量なのだ。
その気になれば、一つのかけらも残さず俺を消し去ることは造作もないだろう。
俺に隠しもせずその片鱗を見せてくるということは、少しは信頼されているのか、それともただの威嚇か。
姉御との秘密の特訓という甘い響きはとても魅力的だったが、命には変えられない。
俺は完全降伏することにした。
俺はたまに思う。
兄貴なんて生易しい呼び方ではなく、魔王の方がしっくりくるのではなかろうかと。
ーーー
「アナ」
名前を呼ばれて振り向くと、優しい笑みを浮かべてルー様がこちらに歩いてくるところだった。
「ルー様!こんなところで偶然お会いできるなんて嬉しいです」
駆け寄る私にルー様は困ったように眉尻を下げた。
「偶然ではないんだ。
ニコルから頼まれてね。
しばらく忙しくなるみたいで、練習に付き合えなくなったから、代わりに教えてあげてほしいとね」
「え!」
ルー様に内緒で守護魔法を習得して、さり気なく守るのが目標だったのに、守る対象に守る術を教えてもらうというおかしな事態に戸惑いの声が漏れる。
躊躇う私に、ルー様が悲しそうに顔を曇らせた。
「私ではダメ?」
そのしょんぼりとした様子にきゅんと胸が擽られる。
「アナ?」
ふわりとルー様の長い指が額を撫でる。
その瞬間、あの唇の感触が戻ってきて一気に顔が赤くなるのを感じる。
それを見たルー様は満足そうに、でもどこか意地悪な笑みをその美しい顔に浮かべた。
天使な笑みも好物ですが、その笑みも癖になりそうです。
姉御。
年下であるはずの彼女を俺がそう呼ぶようになったのは、いつのことだったか。
周囲から忌避され、軽んじられていたヴィルヘルム殿下の婚約者だからと、同じように忌避され、軽んじられていた彼女に軽い気持ちで注ぎたての紅茶を頭から掛けたときのこと。
俺が17歳、彼女が9歳のころのことだった。
頭から紅茶を被って、あられもない姿になった彼女を、周囲の大人たちが嘲笑う。
あの卑しい者の婚約者だからいい気味だと。
だから俺も罪悪感なんてこれっぽっちも感じていなかった。
むしろ、英雄気取りでいた。
卑しいものに罰を与えてやったのだと。
だけど、そんな優越感に浸っていられたのはほんの数秒のこと。
紅茶が滴る前髪の隙間から、真っ直ぐこちらを見据える瞳に捕らえられた瞬間、一気に酷く居心地が悪くなった。
「これが初対面の人間にする、あなたなりの挨拶ですか?」
姉御が静かな声でそう言った瞬間、目の前に茶器が飛んで来た。
慌ててはたき落とすが、その衝撃で茶器は割れ、結局俺も頭から紅茶を被る結果となった。
「貴様ごときの分際で何をする!」
姉御の所業に頭に血が上り、逆上し摑みかかる俺の手を姉御は汚らわしそうに扇子で跳ね除けた。
「っ!」
「触るな下衆め」
俺から一切視線を外さず、姉御は底冷えするような笑みを浮かべた。
「初対面の相手に紅茶をぶっ掛けてクスクス笑うのがあなたの挨拶なのでしょう?礼儀に習って返したまで。
何をそんなに怒る必要があるの?」
こてん、と首を傾げながらも軽蔑するような色を宿した姉御の瞳に思わずたじろぎながらも、俺は怒りに任せて叫んだ。
「俺とお前を一緒にするな!」
「あら、それもそうね。
あなたは大人の言葉を鵜呑みにして、自分で善悪を考えることさえできない下衆だもの。
きっとあなたの頭には果物の種しか入っていないのね。
そしてきっと、一晩寝たらすぐに忘れるんだわ。
まるで同じ罠にかかる鳥と同じね。」
「なっ!」
「あら、これでは鳥に失礼ね。
鳥の方がまだいいわ。
まぁとにかく、そんなあなたと私が同じであるはずがないわね」
「なんだと!?」
「まだこれ以上言わせる気?
無知でも無能でも許されるのは、それを受け入れて努力する者だけよ。
自分で手に入れたわけでもない身分の上に胡座をかいて努力もせず、人を辱めることで己を強く見せたがるクズ野郎を相手にしている暇はないって言ってるのよ」
隠しもしない怒りを瞳に込めて、姉御が俺を見据える。
「悔しかったらしっかり自分の目で見て、聞いて、人の言葉に惑わされず自分の頭で考えて行動してごらんなさいよ。
そしたら、己がどんなに愚かか分かるはずよ。
それでも文句があるなら、その時は聞いてあげてもいいわ」
それから、と姉御は更に目を鋭く光らせた。
「ヴィルヘルム様にも同じような愚行を犯してごらんなさい。
必ず私が死んだ方がマシだと思うくらい厳しく躾けてあげるわ」
今思えば、本当に9歳か?と突っ込みたくなる程姉御はしっかりしていて、ピンと背筋を伸ばして去っていく後ろ姿がとても眩しく映ったのを鮮明に覚えている。
それから姉御の姿を見かける度、姉御を目で追いかけるようになった。
姉御と一緒にいる兄貴にも必然的に目がいく。
当たり前のことだが、そこに兄貴がいるからと言って呪われることはなかったし、被害に遭うこともなかった。
俺は何に怯えていたのか。
大人たちは何を怯えているのか。
否、怯えているのではないのだと、理解するまでに結構な時間を要した。
なぜなら、これまでの正解が一気に覆るから。
これまで善と思っていたことが悪だったなんて、誰も認めたくはないに違いない。
だけど、姉御のあの虫けらを見るような目がどうしても頭から離れなかった。
あんな目ではなく、兄貴に向けるような陽だまりのような暖かい眼差しが欲しかった。
それが無理でも、同じところに立って物事を見つめ、認めて欲しかった。
だから、学園の教師になろうと思った。
教師になって、俺が姉御に教えてもらったように、俺も子どもたちに教えてあげられるように。
これ以上下衆を増やさないように。
彼女の方が年下なのに、変な話だなと何度自分を嘲笑ったことか。
そして、少しずつ変わった俺に気づき、認めてくれた姉御。
そんな姉御が、思いつめたような顔をして俺の前にいる。
「ニコル、私に守護魔法を教えて」
切羽詰まったように教えを乞う姉御に首をかしげる。
学園はほとんどの貴族が15歳から入学する。そこで魔法を習ったり、社交を広げたりするのだ。
それ以前にも家で雇った家庭教師がついて基本的なことは学ぶのだが。
姉御もあと3年もしたら学園に入学するだろう。
「守護魔法?学園に入ったら嫌でも習うぞ?」
そう焦らなくてもいいのではと告げた俺に、姉御は切迫詰まったように首を振る。
「ダメなの!それじゃ遅いの。
今すぐ使えるようになりたいの!」
姉御のその様子を不思議に思うものの、姉御が頼ってくれたことが嬉しくて、結局守護魔法を教えることにした俺。
2人きりで守護魔法の練習を重ねて数回した頃、姉御との待ち合わせ場所に向かう途中、兄貴が反対側から歩いてくるのが見えた。
兄貴と王宮の外で会うことなど滅多になく、めずらしいこともあるものだなと思いつつ、何となく姉御の特訓を2人の秘密的な感じで受け止めていた俺は、少しだけ気まずさを感じながら、軽く挨拶だけして立ち去るつもりだった。
が。
「ニコル」
呼び止められた。
渋々振り向くと、口元に笑みを浮かべた兄貴がこちらを見ていた。
「…」
おかしい。
口元はすげぇ綺麗に笑ってるのに、目が笑ってない。そして、背後に魔王が君臨して見えるのは気のせいか。
これは、姉御との特訓がバレている。
バレている上にめちゃめちゃキレているだろうことはその雰囲気からして明白だった。
「あれは私のだ。手出しするな」
この第二王子、上手く隠してはいるがものすごい魔力量なのだ。
その気になれば、一つのかけらも残さず俺を消し去ることは造作もないだろう。
俺に隠しもせずその片鱗を見せてくるということは、少しは信頼されているのか、それともただの威嚇か。
姉御との秘密の特訓という甘い響きはとても魅力的だったが、命には変えられない。
俺は完全降伏することにした。
俺はたまに思う。
兄貴なんて生易しい呼び方ではなく、魔王の方がしっくりくるのではなかろうかと。
ーーー
「アナ」
名前を呼ばれて振り向くと、優しい笑みを浮かべてルー様がこちらに歩いてくるところだった。
「ルー様!こんなところで偶然お会いできるなんて嬉しいです」
駆け寄る私にルー様は困ったように眉尻を下げた。
「偶然ではないんだ。
ニコルから頼まれてね。
しばらく忙しくなるみたいで、練習に付き合えなくなったから、代わりに教えてあげてほしいとね」
「え!」
ルー様に内緒で守護魔法を習得して、さり気なく守るのが目標だったのに、守る対象に守る術を教えてもらうというおかしな事態に戸惑いの声が漏れる。
躊躇う私に、ルー様が悲しそうに顔を曇らせた。
「私ではダメ?」
そのしょんぼりとした様子にきゅんと胸が擽られる。
「アナ?」
ふわりとルー様の長い指が額を撫でる。
その瞬間、あの唇の感触が戻ってきて一気に顔が赤くなるのを感じる。
それを見たルー様は満足そうに、でもどこか意地悪な笑みをその美しい顔に浮かべた。
天使な笑みも好物ですが、その笑みも癖になりそうです。
応援ありがとうございます!
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