こんなに遠くまできてしまいました

ナツ

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一章:話の始まりはこうだった

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 五分も経たないうちに、ラスがユーグさんを連れて戻ってきた。
 ユーグさんは大きな盥を背中に括りつけていた。無造作に羽織ったフード付きのロングローブはいかにも魔法使いという感じで格好いいのに、背中からはみ出た特大サイズの盥が全てを台無しにしている。

「ごめんね、ミカ。私もただびとが夜に入浴すること、すっかり忘れてた。これ、私が作った魔法具なんだ。設置したいから、部屋に入っていい?」
「はい。あの、大丈夫です」
「んじゃ、行ってくる」

 ユーグさんは盥を背負ったまま、あっさり居間を出て行く。
 ……魔法具?
 まさか、あの盥のことだろうか。

「うちの盥にお湯張って欲しいって言ったんだけど、家で使ってるやつがあるから貸すってさ」
「あら。それだとユーグが困るんじゃない?」
「簡単に作れるし、また自分用のやつは別に作るって」

 ラスがベネッサさんに事の成り行きを説明する。
 ベネッサさんは「それならいいわ」と頷いた。

「色々とすみません……」

 初っ端から多大な面倒をかけてしまった。
 申し訳なさに身が縮まる。

「謝るなよ、ミカ。誰かに何か出来るのって、すごく楽しいし幸せなことなんだ。世話焼かせてくれてありがとう、って俺らが言いたいよ」

 ラスはごく自然な調子でそう言った。
 捩じくれた心にもスッと染みるような言い方だった。

「そうよ。世話を焼かれるばかりだと心苦しくなるのも分かるけど、今は甘えてちょうだい」

 ベネッサさんも柔らかく微笑んでくれる。
 自分の人生はツイてないことの連続だと思っていたけど、そうでもないのかな、と初めて思った。
 異世界に落ちた後、よからぬ人に拾われる可能性だってあった。
 ラスとベネッサさんに出会えたことは、私にとってあり得ないほどの幸運だ。

「本当にありがとうございます」

 心の底から感謝が湧いてくる。
 混じりけのない純粋な気持ちに癒されたのは、他でもない私自身だった。
 
 三人で顔を見合わせ、ほっこり和んでいるところへ、ユーグさんが戻ってくる。

「出来たよ。上手く起動するかどうか確認したいから、私がいるうちに入ってくれる?」
「あ、はい。分かりました」

 ベネッサさんから未使用の下着と頭からかぶるタイプのシンプルな長袖ワンピース、そして大判の布と固形石鹸を借り、部屋に戻る。
 洋服ダンスの前に、例の盥が置いてあった。
 
「服を脱いで、盥の真ん中に立ってみて。お湯が湧いてきたら、座って髪と身体を洗ってね。扉の外で待ってるから、何かあったら呼んで」

 ユーグさんがてきぱきと指示をする。
 座れるほどの広さがあるようには見えないが、膝立ちで洗えばいけるかもしれない。

「ゆっくり入っていいんだからな」

 そう付け加えてくれたラスに頷き、扉を閉じる。
 本当は鍵をかけたかったが、それらしきものは見当たらなかった。
 何の断りもなしに突然入ってくることはないだろうけど、やはり落ち着かない。
 さっと洗って、さっと出よう。
 私は急いで服を脱ぎ、布で前を隠して盥の中に足を踏み入れた。
 
 途端、がくん、と床が沈む感覚に襲われる。
 ひっ、と息を呑んだ直後、私は盥の縁の高さが変わっていることに気がついた。
 ふくらはぎまでしかなかった高さが、太腿の上まで来ている。
 足裏がじわりと温かくなったと思ったら、盥の底からお湯がかなりの勢いで湧き出してきた。

「うわぁ……なにこれ、すごい……!」

 どんな仕組みになっているのか、透明なお湯が汚れで濁る気配はない。
 気づけば盥の中も、人一人がゆっくり足を伸ばせる広さに変わっていた。
 お湯はあっという間で膝上までくると、そこで静かに止まった。
 そうっと腰を下ろし、たぷたぷと揺れる水面に胸までつかる。
 ちょうどいい温度のお湯が、疲れ切った身体をゆらりと包んだ。

「はぁ……――」

 思わず声が出てしまう。
 久しぶりのお風呂は、これ以上ないほど気持ちよかった。
 簡単に済ませて出ようと思っていたのに、いつまでも浸かっていたくなる。
 しばらくぼうっとした後、このまま眠ってしまいたい気持ちと戦いながら髪を濡らし、石鹸を泡立てた。
 なかなか泡立たない固い石鹸を使って、頭皮を中心に擦る。身体も丁寧に擦って、汚れを落とした。
 盥の中に広がっていく泡は何故かすぐに消えていき、また底から新たなお湯が湧いてくるのが分かる。

 これはまさしく『魔法の盥』だ。
 小説や映画の中にしか存在しなかった空想世界が、現実となって表れたのだ思うと非常に感慨深い。
 無意識のうちに何度も「すごいな」と呟いてしまった。

 ひと通り洗い終わったので、盥の外に置いておいた大判のタオルを取り、軽く髪を拭いて立ち上がる。
 たぷん、と水面が揺れたのと同時に、みるみるうちにお湯が減っていくのが見えた。
 いつの間にか、盥の大きさも元に戻っている。
 これ、後片付けも不要なの?
 私はただ驚嘆するしかなかった。

「ミカ、大丈夫?」

 身体を拭いて盥の外に出たところで、見計らったようにユーグさんの声がかかった。

「はい! あの、今着替えるので、もう少し待って下さい」
「おい、ユーグ。ミカを急かすなよ」

 ラスの不満げな声が聞こえる。
 少女だと勘違いしていた時はひたすら可愛く感じたのに、少年だと分かった今は何だか少しくすぐったい。
 老若を問わず、ラスのように過保護に接してくれる異性が今までいなかったせいだろう。
 慣れないことには、きっと誰だってどぎまぎする。
 
「急かしてないよ。ただ、ちゃんと使えたかな? って――」
「大丈夫です、ばっちりでした」

 急いで着替えを済ませ、扉を開ける。
 三人は扉の前でじっと私を待っていた。

「あら、まだ髪がちゃんと拭けてないわ。布を貸して、ミカ」

 ベネッサさんが布を取り上げて、私の髪を拭いてくれる。
 ユーグさんは右手を持ち上げ、人さし指を軽く振った。
 するとたちまち温風が巻き起こり、私の濡れた髪を布ごとぶわりと包み込む。

「はい、おしまい」

 彼が指を下ろすと、風も止んだ。
 ドライヤーで乾かした後のように、肩過ぎまである髪はしっかり乾いている。

「これも魔法ですか?」
「ああ。初歩の風魔法だよ。ミカは、魔法に興味があるの?」
「興味っていうか……すごく便利だな、と思って」

 感嘆の眼差しをユーグさんに向けると、ラスが視界の端で面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らした。
 
「俺の翼だって、便利だぞ」
「そうなんだ。すごいね!」

 とりあえず褒めてみる。私の語彙はとても少なく、素晴らしいことは何でも「すごい」だ。
 ラスはすぐに機嫌を直し、「成人したら、色んなところに連れていってやるよ」と胸を張る。

「まあ、魔法も確かに便利だけどな」

 寛容なところを見せたラスに、ユーグさんは苦笑した。
 そして小声でぽつりと零す。

「――便利なばかりじゃないけどね」
「……え?」
「なんでもない。じゃあ、私は帰るね。また、明日」

 ユーグさんはひらひらと手を振り、来た時と同じ飄々とした態度で帰っていった。



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