掌で踊れ

花影

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小暑 4

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「ふぅ……」
 琴音はお湯に浸かりながら大きく息を吐いた。和敬と通話していた為に浴槽に貯めてあったお湯は少し温くなっていたが、コンシェルジュが用意してくれていたバスエッセンスを使用して半身浴を楽しむにはちょうどいい。妹の梨奈の買い物に付き合ったり、電車が止まって途方にくれたりと色々あった一日の疲れが流れていく様だ。
「何だか夢みたい」
 自分がこうして豪華なホテルの一室で優雅な時間を過ごしているのがまだ信じられない。加えて明日は和敬がわざわざ迎えに来てくれる。多忙なはずなのに普段から何かと気にかけてくれる彼は気になる存在でもあった。屋敷に帰るまでのわずかな間だが、一緒に居られると思うと嬉しかった。
 優雅な時間をもっと堪能して居たいが、それでもそろそろ上がらないと頼んでいたルームサービスが届く頃合いだった。夢見心地のまま浴槽から上がり、用意されていたバスローブをまとう。しかし、髪を丹念に拭いて洗面台の大きな鏡の前に立つと、額に残る酷い傷跡が目に入って現実に引き戻された。
「……」
 まだ琴音が中学生だった頃、養父の浮気が発覚した。荒れた養母の暴力から幼い梨奈を庇った時に出来た物だ。実は額だけでなく、体の至る所にそういった傷跡があった。特に目立つ額の傷跡は、普段は前髪と化粧でごまかしているが、目の当たりにするたびに苦い思いがこみ上げてくる。
「夢を見ちゃいけない」
 現実に引き戻された琴音は戒めるように自分にそう言い聞かせた。



 普段と異なる環境も相まって、昨夜琴音はなかなか寝付くことが出来なかった。明け方にようやくまどろむことが出来た程度だ。いつもであればこんな時は睡眠導入剤を服用するのだが、急な外泊の為に用意していなかったのだ。
 気だるい体を起こし、朝の身支度を始める。クリーニングに出した着替えはまだ戻ってきていないが、頼んだ朝食を持ってきてもらう前に額の傷とひどい顔色を隠しておかなければならない。幸いにも昨夜お世話になったコンシェルジュが朝食と昨夜クリーニングに出した着替えを持ってきてくれた時にはどうにか化粧を終えた後だった。
 朝食と着替えを済ませたところへ、梨奈がメッセージを送って来た。彼女は無事に寮に帰れたみたいだが、後になって電車が止まった事を知って昨夜のうちにメッセージを送ってきてくれていた。寮の消灯時間が迫っていたこともあり、上司の計らいでホテルに泊まることになった事を伝えるだけでそのやり取りは終わっていた。
『おはようお姉ちゃん。よく眠れた?』
『お部屋が凄すぎて、なんかだか落ち着かなくて良く眠れなかったわ』
『そんなにすごい部屋なの? 見たい、見たい』
 梨奈にせがまれて泊った部屋の写真をいくつか送る。
『すごーい!』
 目をキラキラさせた女の子のスタンプと共に返事が返って来た。
『いいなぁ。私もこんなところに泊まってみたい』
 梨奈がうらやましがるのも無理もない。物心ついた頃には既に両親は不仲で家族旅行に出かける事なんてなくなっていた。他にホテルを利用する機会があるとすれば学校行事だが、この様なグレードのホテルに泊まる事はまずないだろう。
『そうね。ここまで高い所に留まるのは無理かもしれないけど、お金がたまったら一緒に旅行行こうか?』
『本当! 約束よ』
『うん』
 そう返事をしたところで、梨奈は学校へ行く時間となってしまい、メッセージのやり取りは終了した。その後はすることもなくテレビを見ていると、今度は和敬からメッセージが届いた。
『すみません、乃木さん。急用が入りましたので、迎えに行くのが昼頃になりそうです』
『お忙しいのでしたら、1人で帰りますけど……』
『いえ、迎えに行きますので、お待ちになっていてください。これは、沙耶様からも頼まれていますので』
『そうですか』
 沙耶からの依頼ともなれば、琴音も断りにくい。更に和敬から畳みかける様に提案される。
『ただ待つのも退屈でしょう。そちらのホテルには色々と施設が併設されていますので、何か体験されてみてはいかがでしょうか? 午前中だけとなると限られてしまうかもしれませんが、こちらの感想も頂けると非常に助かります』
 そう言われてしまうと断れず、琴音は仕方なく了承した。そして和敬のやり取りを終えると、どんな施設があるのか慌てて検索し、悩んだ末にネイルのお試し体験を受けることに決めた。
 乃木家にいた頃は自由にできるお金に限りがあり、なかなか身の回りの事を気にかける余裕が無かった。身だしなみを整える様になったのは大倉家に来てからで、最近はネイルもするようになったが、プロにしてもらった事はまだなかったので、この機会に試してみたいと思ったのだ。
 ただ、和敬が迎えに来てくれる時間に間に合わなくなるのではないかという懸念もある。少し迷ったが、何でも聞いてほしいと言ってくれていたので、お世話になっているコンシェルジュに相談したところ、少し早めに施術を受けられることになった。それでもまだ早かったので、テレビを見ながら少し時間をつぶしてから部屋を出た。
「あら、琴音ちゃん」
 フロントでチェックアウトをすませ、コンシェルジュの案内でネイルサロンへ向かっていると、不意に声をかけられる。振り返ると、そこにいたのは3人のきれいな女性を侍らせた美弥子だった。義総の留守を狙ってよく遊びに来るので、すぐに顔を覚えてもらい、よく声もかけてもらっていた。
「高峰様」
「ここにいるなんて珍しいわね。沙耶ちゃんも一緒?」
「いえ、今日は私一人なんです」
 無下にできない相手なので、足を止めて事情を説明する。コンシェルジュもわかっているらしく、その間せかすことなく待機してくれていた。
「だったら私に任せて頂戴」
「え?」
 美弥子はそう言って琴音の腕をがっしりつかむと、侍らせていた美女達を振り返る。彼女達がいい笑顔でうなずくと、そのまま琴音はネイルサロンのさらに奥にあるエステサロンへと連れていかれたのだった。



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久々の更新です。
ファンタジーが1段落して1年。
本当はもっと書き溜めて一気に更新……なんて考えていたんだけど、昨年トラブルがあって、すっかりやる気をなくしてしまい、現実逃避を理由に怠惰に過ごしてしまいました。
11月に解決したと思っていたら、結局まだ完全には終わってなかった模様。
自業自得な部分もあるのだけど、本当に何と言っていいか腹が立ってくる。
そんな中でもぼちぼち執筆を再開。
当初の予定通りとはいきませんが、これからも気長にお付き合いいただけたら幸いです。
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