掌で踊れ

花影

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小暑 5

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 和敬はとても不機嫌だった。朝一番で義総と幸嗣をエトワールの本社へ送り届け、部下に仕事の采配を済ませてから一度大倉家へ戻り、私服に着替えてから私用の車で琴音を迎えに行く予定だった。
 しかし、部下への采配を済ませてエトワール本社を出ようとしたところで、以前に中村部長に乞われて同席した商談の折に居合わせた派手な社長令嬢、朱璃じゅりにばったり会ってしまったのだ。
「本日はお休みだとうかがいましたわ。素敵な隠れ家レストランを見つけましたの。一緒に行きましょうよ」
 急遽決まった休暇なのだが、それをすでに彼女が知っていることに加え、その誘いを受けて当然といった態度に和敬は怒りを覚えた。
「先約がございますので失礼します」
「そんな約束、放っておいて私と楽しく過ごしましょうよ」
 和敬の冷たい態度にも動じず、なおも言いつのって腕をとって絡めてこようとするその神経は見事だ。しかし、和敬はそれをするりと躱すと「急ぎますので」と言い残して速足でその場を後にする。朱璃も追いかけてきたが、呼んでおいたタクシーにさっさと乗り込み、目の前で扉を閉める。そして外で何かを訴えてくる彼女にかまわず運転手を促して車を出させた。
 正直に言ってどうでもいい相手だった。ことあるごとに誘いをかけてくるのは煩わしかったが、軽く集めた情報だけで放っておいても自滅するのも時間の問題だと判断し、これまでは静観していたのだ。
 しかし、今日のことで和敬はその方針を転換することに決めた。義総に命じられたからだとは言え、琴音と仲を深めることはやぶさかではなかった。屋敷の中で顔を合わせば言葉を交わす程度だが、それでも彼にとっては心地いい時間なのだ。
 これまでの行動から察するに、朱璃が和敬の後をつけてくるのは間違いないだろう。そうなると迎えに行った先で琴音へ何をするかわからない。それはどうしても避けたかった。そこで一刻も早く事を終わらせるために大倉家には戻らず、昨夜泊まったマンションへ引き返した。
「あら、青柳君。忘れ物?」
 部屋はちょうど清掃の最中だった。機密保持ということもあってわざわざ本宅から綾乃が出向いてきており、戻ってきた和敬の姿に驚いていた。
「先に片づけなければならないことができました」
 事情を説明すると綾乃も納得し、仕事部屋の清掃は後回しにしてくれることとなった。琴音だけでなく上司である義総への連絡や使用する車の手配などはタクシーの中で既に済ませてある。移動中に思いついた計略を実行に移すべく、パソコンを立ち上げた。



 朱璃の父親が経営する会社を立ち行かなくなるまで追い詰めれば、今回の1件は手っ取り早く解決できる。ざっと調べたが、社長自ら主導している不正も見つけたので、和敬が、ひいては大倉家がかかわっていると悟られないようにそれを公にすればいいだけの話だ。
 しかしそれをやると一般の何の罪もない従業員も巻き込むことになる。そこそこ大きな会社なので、その後始末が大変だ。処理するのは造作もないが、今回はもっと穏便な方法をとることにした。
 事前に調べていた情報によると、朱璃によって人生が狂ってしまった人は軽く調べただけでも2桁に上る。学生の頃のいじめに始まり、他人の恋人を寝取ったり痴漢行為をでっちあげて罪のない人を陥れることもしていた。公になっていないのは全て父親が金で解決していたからだ。そんな被害者たちを陰で支援して裁判を起こすことを考えていたが、彼女の元交際相手に目がとまり、彼を利用することに決めた。
 仕事一筋でそれまで女性と交際したことがなかった彼は、言葉巧みに近づいてきた彼女に夢中になった。結婚をちらつかせられればねだられるままに貢いでしまい、いつの間にか起業のためにため込んでいた資金を全て使い果たしていた。
 それでも彼女のために尽くそうと借金までしたのに、ある日突然手ひどく振られてしまったのだ。一途な彼は諦めきれずに彼女を追いかけ続けたのだが、今度はストーカーとして訴えられ、それがもとで仕事も失ってしまった。
 現在はホームレスで日雇いの仕事をしていることが判明。義総から自由に使っていいと許可をもらった大倉家の諜報員を使って接触し、その意思を確認したところ驚いたことに彼はまだ彼女のことを諦めていなかった。ならばその一途な思いを応援してあげることにしたのだ。
『ターゲットに接触。同意を得られました』
『父親の自宅へ移動します』
『警察への根回し、完了しました』
 諜報員へ一通りの指示を済ませてほどなくすると、次々と報告が上がってくる。計画は順調のようだ。警察へ根回ししたのも、彼がストーカー認定されているので、接触させた時に通報された時のための用心だった。
 ちなみに父親は今日は休みで自宅におり、朱璃は和敬がいるマンションの近くに来ていると報告があった。手近にある駐車場に止めた車の中で彼が出てくるのを待っているらしい。
『父親の説得が完了しました』
 今回提示したのは朱璃が彼に対して行った事柄のみの証拠だけだったが、思ったよりも早く父親は折れたようだ。それもこれも彼が家を失っても彼女の全てを覚えておくために、彼女に貢いだ内容を事細かに記録し、会話も全て録音して残してあったからだ。詳しいいきさつを知らなかった父親はその詳細を知って絶句したらしい。
『自宅へ呼び戻すことになりました』
 娘に甘い父親にしては珍しく、かなり強い口調で帰宅を促した様子だった。窓の外を見ていると、それらしい車が移動しているのが見えた。そのまま逃げてしまう可能性もあったが、大倉家の優秀な諜報員がつけているので逃げ切るのは不可能だ。
『令嬢が帰宅しました。彼を見て逃げようとしましたが、父親の部下に拘束されました』
 こちらの心配をよそに、30分ほどで諜報員から報告があった。どうやら彼女はまっすぐに帰宅し、無事に身柄を確保されたらしい。本人は抵抗するだろうが、今日中に婚姻届けを記入して提出させる予定になっている。あんな仕打ちをされたにもかかわらず、2年間も執着し続けた男だ。常人では理解できない深い愛で彼女を囲い込んでくれるだろう。これでもう和敬に付きまとってくることはできなくなるはずだ。
 起業を考えていたのならば、彼は優秀な人材ともいえる。娘婿として次期社長と呼ばれるようになるのもすぐだろう。だからと言ってあの会社が安泰といえるかどうかは微妙だ。何しろ社長主導で行われた不正もあるし、朱璃の被害者達による集団訴訟も近いうちに行われる。これらをすべて乗り切ることができれば、改めて彼を評価することになるだろう。
 当面の危機は去った。和敬はこの結果に満足し、代わりに奔走してくれた諜報員たちに労いの言葉をかけたのだった。
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