掌中の珠のように

花影

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拉致2

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 冷たい雨の中を沙耶はどのくらいさまよっただろうか。長い髪も薄手の部屋着も雨を含んで重くなり、足場の悪い地面に何度も足をとられながら手探りで進んでいく。ガラスでついた傷による痛みだけでなく、裸足で石や落ちている木の枝の上を歩くので思うように足を動かせない。
「お母さん……」
 涙で視界が揺らいでいる。すると木の根に足をとられてその場に倒れ込んだ。
「痛っ!」
 転んだ拍子にまた傷を増やしていた。立ち上がるのも困難だったが、木につかまりながらどうにか体を起こして立ち上がる。
 闇の向こうから迫ってくるかもしれない追手の恐怖に怯えながら、一歩、また一歩と足を進める。
「母さん……」
 特に痛む右足を引きずりながら歩いていると、急に開けた場所に出た。山の中を走る林道に出たらしい。深夜で山奥と言う事もあり、車が通る気配もない。
 沙耶は固いアスファルトの上に立つが、どちらに向かっていいか分からず途方に暮れる。
「逃げなきゃ……」
 意を決すると沙耶は下りの道を選んだ。傷だらけの足は既に悲鳴を上げているが、それでも歯を食いしばって足を踏み出す。
 しかし、雨に打たれながらの逃避行は彼女の体力をいちじるしく低下させていた。朦朧とする意識の中、フラフラと歩いていると、突然、車のヘッドライトが彼女を照らす。
「あ……」
 追手と思い、沙耶は踵を返して逃げようとするが、足をとられてその場に倒れ込んだ。もう、どうにも動けなかった。
 車の急ブレーキに続いてドアが開き、複数の男性の声が聞こえてくる。
「しっかりしろ」
 混濁する意識の中、焦ったような低い声が聞こえた。何かに包まれて抱き上げられる気がしたが、もう沙耶は目を開ける事が出来なかった。
「お母さん……ごめんなさい……」
 沙耶は心の中で母親に謝った。



「あなただけは無事で……」
 暗闇に消えた娘を見届けると、母親は机と箱をどうにか1人で元に戻した。そして、冷たい床に正座してその時が来るのを待つ。
 どのくらいそうして待っていただろうか、上が騒がしくなった。娘が捕まったのだろうかと一瞬ドキリとしたが、どうやらそうではないらしい。男達が待っていた相手が来たのだろう。彼女は静かに立ち上がって彼らが降りて来るのを待った。
「な……」
 縛られていたはずの彼女が手足の戒めを解いて立っていることに男たちは驚きの色を隠せない。
「子供がいないぞ!」
 彼らは慌てて部屋の中を調べ、箱の陰になっていた小窓を見つけた。
「まさか、ここから?」
「すぐに付近を捜索しろ。遠くまで行っていないはずだ」
 リーダー格の男が歯噛みしながら部下に命じ、3人が慌てた様子で地下室を出ていく。
 すると彼らと入れ違いに眼鏡をかけたスーツ姿の男が地下室に入って来た。そして微動だにせず立つ彼女に恭しく頭を下げる。
「ジン・ラヴィン・サイラム殿下の妃、沙織様ですね?」
「先に名乗られるのが筋では?」
 彼女に指摘され、男は驚いたように目を見張る。
「これは失礼致しました。私はこういう者でございます」
 男はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、彼女に差し出す。
「佐々本製薬の社長さんですか? そのような方が私に何の御用ですか?」
「部下が手荒な真似をして申し訳ありませんでした。我々の召喚を拒まれたので、已むに已まれずこのような手段をとらせて頂きました。貴女にどうしてもお伺いしたい事があります」
 佐々本は紳士的な態度を崩さず、あくまで丁寧に話しかけてくる。それでも彼女は警戒を解こうとしない。
「聞きたい事と言われましても、心当たりはございませんが?」
「無いはずは無いでしょう?」
 別の声が割り込んできて、彼女は戸口を見て驚く。
「あなたは……まさか……ガラム」
 戸口に立っていたのは50過ぎの恰幅のいい男だった。一目でブランドものだと分かるスーツを着ているのだが、非常に残念な事に似合っていない。あまりにも高価なスーツが可哀そうだ。
「お久しぶりでございます、サオリ様。相変わらず美しい」
 ガラムと呼ばれた男はねっとりとした視線を沙織に向けるが、彼女は美しい眉を顰める。18年ぶりに会った男に、彼女は嫌悪の色を隠そうともしない。
「あの人の信頼も厚く、陛下にも御恩があったはずのあなたが、何故、裏切ったのですか?」
「人聞きの悪い言い方は止めて頂きましょうか? 私は閣下の志に賛同したのです。おかげで今では参謀長と呼ばれる身分になりましたよ」
 ガラムは沙織の夫の部下だった。あの日、この男は国王の護衛を命ぜられて都を脱出したのだ。その彼が裏切り、国王は命を落とした。その事を後から知った彼女がどれだけ彼を恨んだか知る由もないだろう。そんな彼女の心中も知らず、ガラムは得意げに革命後は自分がどれだけ出世したかを語る。
「世も末ですね」
 いくら聞かされようとも沙織にとってこの男は敵である。ねちっこく迫ってこようとするのをそっけなく躱す。
「積もる話もおありのようですから、もっと落ち着いて話のできると所へ移動しましょう」
 佐々本がやんわりと間に入り、残っている部下に目で合図を送る。沙織は2人の男に両脇を固められ、そのまま地下室から連れ出される。
 ここはあくまで一時的に拘束するために用意したようで、既に移動の準備が整えられていた。沙織はそのまま用意されていた車の後部座席に押し込まれ、遠慮したい事に隣にガラムが密着して乗り込んでくる。
「子供は見つけ次第連れてこい」
 佐々本はそう男たちに命じて車に乗り込んだ。
「沙耶……ごめんね」
 沙織は娘に心の中で謝った。
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