ヤンデレ至上主義の悪役令嬢はハッピーヤンデレカップルを慈しみたい!

染井由乃

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1巻

1-1

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   序章 悪役令嬢は「エルの恋花」を始末したい


 ――昔々、ここ王国ハルスウェルには、とても美しいお姫さまがいました。彼女の名前はエル。夜空のような深い藍の髪と、神秘的な薄紫の瞳を持つ彼女は、心優しくみんなから愛されるお姫さまでした。
 けれどたったひとりだけ、彼女のことが大嫌いな人がいました。それは、人を迷わせてばかりいる、いばらの森の主人でした。いばらの森の主人は、不気味な銀の髪をしたみにくい化け物で、美しい姫を妬んでいたのでした。
 いばらの森の主人は、姫が森を通るたびに怪我をさせたり、わざと道に迷わせたり、ひどいことばかり繰り返しました。しかし、心優しい姫はいばらの森の主人を決して恨まず、何度も何度も綺麗な歌を贈って、いばらの森の主人と仲良くなろうと努力していたのです。
 やがて姫は十八歳になり、遠い異国へ嫁ぐことが決まった夜、いばらの森の主人に会いに行きました。そして、大輪の純白の花をいばらの森の主人に渡します。

『これは、私の歌声で育てた【恋の花】です。大切な人ができたら、きっと渡してください。あなたと大切な人が、幸せになれるよう願いを込めてあるのです。私がいなくなる前に、どうか受け取ってくださいませんか』

 姫の差し出した純白の花は、幾重にも花びらが重なっていて、浮かび上がるように輝く、それは美しい花でした。いばらの森の主人はそれを受け取って、初めて姫をまっすぐに見つめました。

『もう、あの歌は聞けなくなるのか』

 姫は答えます。

『はい、私は遠い国の王子さまのもとへ嫁ぐのです』

 そこでようやくいばらの森の主人は、自分がずっと姫の歌を心待ちにしていたことに気づきました。
 そして、姫を決して手放したくないと願ってしまったのです。
 いばらの森の主人の願いによって、森の黒いいばらはみるみるうちに成長し、大きな鳥籠のようになりました。姫はたちまち、森の中に閉じ込められてしまったのです。
 その後、姫といばらの森の主人の姿を見た者は、誰もいません。けれどもいばらの森のそばでは、姫が主人に贈った「恋の花」が咲きみだれ、美しい歌声がいつまでもいつまでも響き渡っていたのでした。


「ふうん……ずいぶん、『ヤンデレ』なお伽噺とぎばなしもあったものね」

 公爵邸の豪奢な私室で、赤い布張りの本をめくる。メイドがれた紅茶からは、柑橘かんきつ系の香りとともにほのかな湯気が立ち昇っていた。そばには、その紅茶をれた灰色の髪のメイドが静かに控えている。

「ん……? やんでれ……? やんでれ、って何?」

 今しがた自分で呟いた言葉を繰り返して、首を捻る。どうにも聞き覚えのない言葉だ。

「ねえ、レイン、やんでれ、って何?」

 そばにいたメイドに問いかければ、彼女はびくりと肩を震わせた。いじめているつもりはないのに、この子はいつも私に怯えている。髪を結い直させたり頼みごとをしたりしているだけなのに。

「……申し訳ございません、聞き覚えのない言葉です」

 震えているが、美しい声だった。エル姫の声も、こんなふうだろうか。

「どこで聞いたのかしら……? うーん……?」

 考えを巡らせているうちに、膝の上に乗せていた本がするりと滑って床に落ちてしまった。慌てたようにレインがそれを拾い上げ、自分のエプロンで拭いてから私に差し出す。
 指先まで震わせる彼女からそれを受け取り、布張りの表紙を撫でた。そこには、たった今目を通したお伽噺とぎばなしの題名である「エルの恋花」という文字が刺繍ししゅうされている。
 ……ん? 「エルの恋花」……? やんでれ……?

「っ……!」

 ずきりとした頭痛を覚え、思わず頭を抱える。意識の奥底で点と点が結ばれて、何かが形作られようとしていた。
 ……そう、そうよ、「エルの恋花」は――
 思わず、椅子から立ち上がる。勢いよく動いたせいで、がたりと椅子が音を立ててしまった。

「え……? ちょっと待ってちょうだい、ここは――」

 ――ここは、「狂愛の恋花」の世界なの?
 その疑問を抱いた瞬間、とても遠い世界の記憶が断片的によみがえる。どれもがおぼろげで、ひどく曖昧あいまいなものばかりだ。
 だが不思議と、それは前世の記憶なのだと、さしたる躊躇ちゅうちょもなく理解していた。
 ……私、生まれる前は、ここではない世界で生きていたのね。
 かつての私は、争いに怯えることも、明日の食事のために命を懸けることもない、平和な国に暮らす、ごく平凡な少女だった。思い出せたことといえば、本当にそれくらいだ。
 ただひとつだけはっきりしていることは、ここが「狂愛の恋花」――ある恋愛シミュレーションゲームの世界に酷似こくじしているということだけだ。

「エレノアお嬢さま、いかがなさいましたか」

 ちらりと覗き見るように私の表情をうかがいながら、レインが近づいてきた。私が突然立ち上がったせいで、余計に怯えさせてしまったらしい。

「そうよ……あなたは、レインなのね」

 忘れもしない、「青年公爵の人形レイン」。彼女はそう、私の――エレノア・ロイル公爵令嬢の義兄にあたる、ルーク・ロイルのルートのヒロインだ。よくて監禁、悪くて刺殺の最悪な結末を辿たどることになる、かわいそうな美少女だ。

「待って……ルークとレインがいるってことは、他のカップルももしかして……?」

 レインの動揺はそっちのけで、この世界について考えを巡らせる。
「狂愛の恋花」の大きな特徴はふたつある。
 ひとつは、作中で描かれるカップルは一組ではなく、全部で五組のカップルが登場するということ。ヒロインは五人いて、その五人それぞれに決められた攻略対象者がいる。誰を選ぶか、ではなく、どのような結末を迎えるか、ということに重きをおいた作品だった。
 そしてふたつ目の特徴は――攻略対象者たちが全員いわゆるヤンデレであること。歪んだ愛を推しに推しまくったこの作品は、一部の層から絶大な支持を得ていた。
 ……よりにもよって、ヤンデレまみれの「狂愛の恋花」の世界に生まれ変わってしまうなんて。

「そんな……そんなことって……」

 思わず涙目になって指を組む。レインがいよいよ不審者を見るような目で私を見始めたが、今は構っていられない。

「そんなすてきなことが、あっていいのかしら‼」

 思わず、両手を上げて室内を走り回る。レインが慌てて誰かを呼びに行ったが、気に留めている場合ではない。

「やった……やったわ‼ 神さま、本当にありがとう!」

 指を組み直して、泣きながら感謝の祈りを捧げる。まるで夢でも見ているようだ。
 こんなすばらしい世界に、生まれ変わることができるなんて。
 ……ヤンデレまみれの世界に、生まれ変われるなんて!
 何を隠そう、私は大大大のヤンデレ好きだ。ヤンデレしか出てこない「狂愛の恋花」からは、他では得られない、ぎゅっと濃縮された栄養をたくさんもらった。

「ちょっと待って、もしかして……これからヤンデレ×ヒロインの恋路を間近で見られるの?」

「狂愛の恋花」とヤンデレに対する愛以外の前世の記憶はまったく思い出せないが、生まれ変わる前の私はきっと大層な徳を積んだ善人だったに違いない。そうでなければ、こんな楽園のような世界に生まれ変われるはずがないのだ。

「ルークさま、こちらです!」

 勢いよく扉が開く音がして、ばたばたと慌ただしい足音とともに誰かが駆け込んできた。入室してきたのは、レインと、彼女に呼び出されたらしい私のお義兄にいさま――ルーク・ロイルだ。

「……何をしている?」

 月の光を溶かし込んだかのような銀の髪、気品の漂う深い紺碧の瞳。そしてぞっとするほど冷たく整った顔立ち。そのすべてが、私の知る「破滅型ヤンデレ」ルーク・ロイルのものだ。
 ごみを見るような冷ややかなまなざしを受けとめて、誤魔化ごまかすように曖昧あいまいに微笑む。
 昨日までは愛情のかけらもない彼の態度に傷ついていたものだが、ヒロイン以外には冷酷に接するヤンデレの特徴だと思えば、冷たい視線もご褒美同然だ。
 ……ああ、始まるわ!
 エレノア・ロイルの――私の、ハッピーヤンデレライフが!


   ◇


 前述の通り、「狂愛の恋花」は、ヤンデレ系の恋愛シミュレーションゲームである。
 ヒロインは公爵令嬢、人工天使、女性騎士、伯爵令嬢、メイドの全部で五人。それぞれに攻略対象者がいるので、ヤンデレもまた王子さま、魔術師、騎士団長、従者、公爵令息の五人いるのだ。
 作中ではすこしでも幸せな結末に至るために奮闘するわけだが、そもそもヤンデレが売りのゲームだ。バッドエンドは悲惨も悲惨。ハッピーエンドでも軟禁されるなど、一般的にメリーバッドエンドと言えなくもない終わり方をする。
 その分岐点のキーアイテムとなるのが、「エルの恋花」だ。この国の古いお伽噺とぎばなしにも登場する有名な花で、王国にある森のそばにまれにしか咲かない、とても珍しい花だった。
 この「エルの恋花」をヒロインが攻略対象者から贈られた場合、物語はバッドエンドへと突き進み、十中八九ヒロインは幽閉されるか死んでしまう。

「まさに、バッドエンドの象徴ね……」

 先ほど目を通していたお伽噺とぎばなしの表紙を改めて眺めてみれば、そこには幾重にも花びらの重なった美しい純白の花が刺繍ししゅうされていた。これが「エルの恋花」だ。本物は、淡く浮かび上がるようにきらめく、それは美麗な花なのだ。
 いくらヤンデレ好きな私でも、プレイしているうちにすっかり感情移入していたヒロインが、攻略対象者から「エルの恋花」を渡された瞬間には血の気が引いたものだ。

「嫌なこと思い出しちゃったわ……」

 ヒロインの悲惨な末路を脳内から追い出すように、窓辺に歩み寄って溜息をつく。よく磨かれた窓に反射する自分の姿を、改めて観察した。
 夜空のような深い藍の髪と、淡い薄紫の瞳。まるで「エルの恋花」に出てくる姫君のような美しいこの容姿にも見覚えがあった。

「そうよね、やっぱりこれって、エレノア・ロイルの姿よね……」

 もういちど溜息をついて、まど硝子がらすに映り込んだ自分の影に触れる。
 エレノア・ロイル。彼女はどのルートにも登場する、いわば悪役の令嬢だった。
「狂愛の恋花」の中でエレノアは、とんでもなくわがままで高飛車な令嬢として描かれていた。悪役の名にふさわしく、ヒロインに対して意地悪をし、攻略対象者たちの病みを深めるのに一役買う。だが、そもそも攻略対象者たちの眼中にはヒロインしかいないので、はっきり言って脇役と言ってもいいくらいの存在だった。
 脇役だからこそというべきかもしれないが、エレノアの命は非常に軽い。たった一、二行の説明の間に殺されていることなんてざらだった。そのほとんどが、攻略対象者たちの病みを際立たせるために用いられ、言葉に表すのもためらわれるような死に方をしている場合もあった。
 どうやら私は、その「悪役令嬢エレノア・ロイル」に生まれ変わってしまったようだ。
 だが、不思議と胸を占めるのは恐怖ではなく高揚感。私室の中でひとり、にやつく口もとを押さえながらこの幸福を噛みしめた。

「ふ、ふふ……私が『狂愛の恋花』の世界に、ね」

 ……やっぱり、控えめに言って最高だわ!
 思わず恍惚こうこつのまじった溜息をつきながら、令嬢らしくもなく背中から寝台に飛び込んで、両手で顔を覆う。
 婚約者の公爵令嬢が無口すぎるが故に、恋心をこじらせる王子さまのヤンデレ。
 実験体である少女に恋をしてしまい、彼女を守るためなら手段を選ばない魔術師のヤンデレ。
 幼馴染の女騎士への想いを静かに募らせ、一途に思い続ける騎士団長のヤンデレ。
 伯爵令嬢との身分差に悩み、思い余って心中を図ろうとする従者のヤンデレ。
 メイドと恋に落ち、権力にものを言わせて想いを屈折させていく公爵令息のヤンデレ。
 ……それを、間近で見られるなんて‼

「なんて、なんて最高なのっ……!」

 想像するだけでうっとりする世界が今、私の目の前に広がっている。
 しかも私は悪役令嬢。彼らとの接点は、待っていても向こうからやってくるのだ。
 感動のあまり涙が出そうだった。ヤンデレ×美少女。これに勝る尊さがあるだろうか。

「いや、ない……‼」

 ヒロインに生まれ変わらなくてよかった。ヤンデレは、第三者の立場で味わうのが最もおいしいのだ。自分がヤンデレに愛されるとなると、それはまた話が変わってくる。ヤンデレが好きだからといって、誰もがヤンデレに愛されたいわけではないのだ。
 こんなすばらしい立場に生まれ変わったからには、最大限にその恩恵にあずからねば。彼らの尊い恋の行く末を、この目で、生で見守るのだ。

「それが終わるまでは死ねないわ」

 五つのヤンデレカップルすべてが成立するのを見届けるまでは、死んでも死にきれない。亡霊やおばけになってでも、絶対にこの目でカップル成立の瞬間を見守るのだ。
 にやつく口もとを隠すこともなく寝台の上に立ち上がり、誰ともなしにびしっと人差し指を指す。


「待っていなさい、ヤンデレ攻略対象者さん、かわいいかわいいヒロインちゃん‼」

 前世の記憶を持つ悪役令嬢エレノア・ロイルがいるからには、悲しいだけのバッドエンドにはさせない。尊い、と思えるような、歪んだ両思いハッピーエンドを成立させてみせる。
 にやり、といっそう口もとを歪めて、「エルの恋花」が描かれたお伽噺とぎばなしの本を抱きしめた。

「さあ、見せてちょうだい! 歪んだ愛の美しさを‼」



   第一章 王子さまは公爵令嬢を閉じ込めたい


 完璧に整えられた王城の庭の中、最高級のティーセットを挟んで向かい側に座るのは、誰より美しい婚約者。いずれ、この国の王妃となる女性だ。
 春の盛りの穏やかな風が、彼女の白金の髪をさらさらと撫でていく。控えめに伏せられたまぶたを縁取る睫毛まつげもまた白金で、神に愛された美しさを持つ彼女を前に、悟られぬよう小さく感嘆の溜息をついた。
 彼女は何もかもが完璧だった。見目も、教養も、人格も、何ひとつとして非の打ちどころがない。「ハルスウェルの女神」の異名も伊達だてではないのだ。

「……この茶葉は気に入ったか? ルシア」

 控えめな婚約者を怯えさせないようそっとたずねれば、彼女は深緑の瞳をわずかにこちらに向け、こくりと小さく頷いた。その仕草は愛らしいが、同時に胸の奥がずきりとえぐられるように痛む。
 ……やはり、今日も声を聞かせてはくれないんだな。
 彼女は極端に無口だ。それも、僕の前でだけ特別に。
 ……舞踏会に出れば、不躾ぶしつけにも近寄ってくる奴らに、惜しみなくあの可憐な声を聞かせているくせに。
 彼女は、この婚約が不満なのだろうか。彼女自身に対してはもちろん、彼女の生家であるティルヴァーン公爵家に対しても、最上の条件を付けて交わした婚約であるはずなのに。
 何よりも、僕はルシアに出会ったあの日からずっと、ルシアのことだけを想い続けているのだ。それなのに、どうして彼女は僕にあの可憐な声を聞かせてくれないのだろう。
 そんなにも、僕の婚約者でいることが嫌なのだろうか。恋情どころか嫌悪さえも抱かないほど、僕に関心がないのだろうか。
 それを態度で示しているつもりなのかもしれないが、今更婚約を白紙に戻すつもりは毛頭ない。これは、彼女が生まれたときから決まっている、王家とティルヴァーン公爵家との契約だ。
 だから彼女はどこにも逃げようがない。どうあったって彼女の生きる道は、僕の隣にしかないのだ。
 聡明な彼女のことだから、その事実は痛いほどわかっているはずなのに、どうして歩み寄ろうとしないのだろう。反抗する姿勢を見せず、淡々と公務をこなしてさえいれば、僕が満足するとでも思っているのだろうか。
 ……だとしたら、君は僕が君に向ける想いを取り違えすぎている。
 その勘違いが、僕の心をどれだけ暗くにごらせているか、彼女は知らないんだろう。
 ……思い知らせてやりたいな、僕がどれほど、君の心を求めているのか。

「あまり、乱暴なことはしたくないんだけどな」

 独り言のように呟いてルシアを見やれば、彼女は正確に言葉を聞き届けることができなかったのか、愛らしく小首を傾げていた。
 本当に、ルシアはかわいい。息をしているだけで、この世の何より尊い存在だ。
 ……そんな彼女を人の目に触れる場所に置いておくこと自体、ひょっとすると間違いなのかもしれない。
 そういえば、城の奥深くには、寵姫ちょうきを囲うための部屋があるらしい。
 ……君は、あの部屋を気に入るかな。
 仄暗い想像を巡らせながら、頬を緩める。彼女には、こんな不穏な考えは決して悟らせない。そのために、今日も僕は穏やかな笑みを取り繕うのだ。


   ◆ ◆ ◆


 エレノア・ロイルは悪役令嬢というだけあって、基本的に周囲の人々からの心証はよくない。お伽噺とぎばなしの姫君のような見た目をしているのに、心優しい姫とはかけ離れた、わがままで高飛車な令嬢だからだ。
 実際、義兄であるルークは私のことを毛嫌いしているし、専属メイドのレインも私に怯えている。ロイル公爵邸の中に、私の味方はほとんどいないと言ってもいいだろう。
 ……でも、ルシアさまだけは例外ね。
 ティルヴァーン公爵令嬢は、「狂愛の恋花」の作中でエレノアの親友として描かれていた令嬢だ。今も定期的にふたりだけのお茶会を開いては、他愛もないひとときを過ごす仲だった。
 そして何を隠そう、彼女も「狂愛の恋花」のヒロインのひとりなのだ。
 ……いつもにも増して、会うのが楽しみだわ。
 ここが「狂愛の恋花」の世界だと自覚してからというもの、見るものすべてがきらきらと輝いているようでならない。昨日までの「エレノア」は、義兄にも実の父親にも相手にされない孤独を、自分より下の立場の者たちにわがままを言うことで誤魔化ごまかしていた寂しい人間だったが、今の私には尊いヤンデレカップルが五組も待っている。もう、誰かを困らせるような振る舞いをする必要はないのだ。

「あの……エレノアお嬢さま、いかがでしょうか」

 鏡台の前に座った私の背後には、今日もどこか怯えたような表情をしたレインが立っていた。彼女は私の藍色の髪の上半分を高い位置でまとめて、赤いりぼんを結いつけてくれていた。
 顔にはすでに、薄く化粧が施されている。派手すぎず、かと言って公爵令嬢の友人に会いに行くにはふさわしい程度の、かわいらしい化粧だ。
 彼女はとても器用だから、身支度はいつでも完璧なのに、昨日までの私は意地悪をしていた。まとめ髪から浮き出た二、三本の髪の毛が気に食わないからと、時間をかけて結い直させていたのだ。
 ……そうしていないとレインがさっさと離れてしまうから、わざと言っていたのよね。
 ヤンデレというすがるものを見つけたおかげで心の余裕ができたのか、昨日までの私を客観視することができるようになっていた。本当はずっと、レインと友人のように話をしたかっただけなのだ。
 そもそもレインは、今から数年前に私が路地裏で拾ってきた孤児だ。彼女のことが厄介ならば、わざわざ屋敷に連れてくるような真似はしない。
 ……でも、彼女をハッピーエンドに導くためにも、これからはちゃんと仲良くしなくちゃ。
 どこか気まずさを覚えながらも、鏡越しにレインに微笑みかけてみる。

「綺麗に支度してくれてありがとう、レイン」

 たったそれだけで、レインははっとしたように目をみはった。あんまり大きく目を見開くから、色素の薄い灰色の瞳がこぼれ落ちてしまいそうだ。
 ……こうして見ると、ヒロインのひとりなだけあって本当に綺麗な顔立ちをしているわね。

「あ……お、お褒めにあずかり恐縮です」

 どこかぎこちない仕草で礼をしながら、逃げるようにレインは離れていった。彼女との関係改善にはまだまだ時間がかかりそうだ。
 最後に姿見の前でくるりと一回転して、外出用の薄紫色のドレスが乱れていないことを確認し、部屋を出る。白く塗られた大階段を下りて玄関広間に向かえば、使用人が忙しそうに行き来していた。

「ねえ、そこのあなた」

 手紙類を抱えた若い男性の使用人に声をかけると、彼はびくりと肩を揺らした。この屋敷の人々にとって私は「なるべく関わりたくないお嬢さま」なのだ。

「はい、エレノアお嬢さま」

 がたがたと震えながら、彼は深く礼をする。
 ……こうして怯えられるのも気に食わなくて、余計に意地悪をしていたのだっけ。

「……私宛の手紙はある?」

 これは、物心がついてからというもの、毎日欠かさず問いかけている言葉だった。
 私の実の父親であるロイル公爵は、公爵領の本邸にこもりきりだ。一方で、私のことは社交を理由に王都の屋敷に留めており、領地へ帰ることも滅多に許されない。どうやら私は今は亡きお母さまによく似ているらしく、公爵は妻を思い出してしまうのがつらいという理由で私を遠ざけているらしい。

「本日も、お嬢さま宛のお手紙はお預かりしておりません」
「そう……」

 王都の広い屋敷に取り残されてからずっと、私はお父さまからの手紙を心待ちにしていた。それくらい、お父さまからの愛にえていたのだ。
 ……でも、こんなことも今日でおしまいにしないとね。
 にこり、と手紙を抱える使用人に微笑みかける。レインと同様に、彼もまた信じられないものを見るように目を見開いていた。

「毎日しつこく聞いてごめんなさい。いつも教えてくれてありがとう」
「そんな……滅相もございません……!」

 使用人は慌てたように礼をすると、手紙を抱えて足早に立ち去っていった。確かに、昨日までわがままばかり言っていた「お嬢さま」に突然礼を言われたら、逃げ出したくもなるだろう。
 ……ちょっとずつ変わっていかないと、みんなを驚かせてしまうわね。
 思わず苦笑まじりに使用人の後ろ姿を見送っていると、たった今私が下ってきた大階段の上から落ち着いた足音が響いた。
 何とはなしに見上げてみれば、そこには銀髪の美青年がいた。日の光を背にして、どこかかげりを纏ったようにたたずむ姿は色気にあふれていて、直視するのがためらわれるほどだ。
 星空を映し取ったかのように美しい紺碧の瞳は、今日も凍えるほどの冷たさで私を見ていた。

「ルークお義兄にいさま……」

 彼こそが、ロイル公爵家の後継者。私の義兄で、血縁上は従兄いとこにあたる人だ。


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