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1巻
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彼の実の父親は、お父さまの弟君にあたる。今から十年ほど前、彼は父君と母君を事故で亡くしており、ロイル公爵家の養子として本家に引き取られたのだ。私以外に子どもがおらず、後妻を迎える気のないロイル公爵にとっても都合のいい養子縁組だった。
お義兄さまは後継者教育のために公爵領へ赴くこともあるが、基本的には私の面倒を見るという名目でこの王都の屋敷に滞在していることが多い。彼はいつでも疎ましそうに私を見ているから、お父さまに私の保護者役を押しつけられていることは明白だった。
つまり、お義兄さまとはかれこれ十年近くともに暮らしている仲なのだが、お世辞にも義兄妹とは言えないような浅い付き合いしかしていない。
「お義兄さま、おはようございます」
彼とはほとんど顔を合わせないが、朝のこの時間に手紙を確認するときにはよく会う。きっと、お義兄さまが私室から一階にある書斎へ移動する時間と被っているのだろう。
「ああ」
お義兄さまは冷えきった目で私を一瞥すると、興味をなくしたように階段を下りて、廊下の奥へと去ってしまった。私からすこし離れたところには、彼のヒロインであるレインも控えているのだが、そちらに目を向ける様子もない。
……お義兄さまとレインの恋は、まだ始まっていないのかしら?
「狂愛の恋花」には五組のヤンデレカップルが登場するが、どのカップルがどの順番で成立するかはよくわからない。この様子を見ている限り、まだ、彼らの番ではないのだろう。
……初めはルシアさまと、王太子殿下だったらいいな。
淡い期待を抱きながら、くるりと踵を返す。これからヤンデレカップルに会えるかもしれないと思えば、お義兄さまの冷たい視線はすこしも気にならなかった。
◇
「本日はお招きいただきましてありがとうございます、ルシアさま」
正午を過ぎたころ、私はルシアさまのお招きでティルヴァーン公爵家にお邪魔していた。王都の一等地に建てられた白亜のお屋敷は、ティルヴァーン公爵家らしい品のよさが漂っている。
今は公爵家の中庭にティーセットを用意してもらい、そよ風を受けながら青空の下で小さなお茶会をしているところだった。
ルシアさまは返事の代わりににこりと微笑むと、優雅な所作でティーカップを口もとに運んだ。
……流石はヒロイン。こんなちょっとした仕草でも絵になるのね。
ほう、と感嘆の溜息をつきながら彼女を見守る。深い緑色の瞳と目が合うと、気恥ずかしそうに彼女は小さく笑って視線を伏せてしまった。
……かわいい、なんてかわいいの!
ルシアさまは、私よりもひとつ年上で、白金の髪に理知的な深緑の瞳を持つそれは可憐なご令嬢だ。人間離れしたその美しさと、清廉さ、そしてその聡明さから「ハルスウェルの女神」という賞賛を込めた異名を持つ。
……わがままで高飛車という悪評のある私と親友だなんて、みんながきっと不思議に思っているわよね。
――あなた、とっても綺麗なのね。お友だちになって差し上げてもよろしくてよ?
今から十年ほど前に、幼い私は初対面でルシアさまにそう告げた。あまりにも生意気な言葉だと思うが、どうしてかそれ以来、こうして頻繁に顔を合わせるほどの親友になっている。
「おいしい……もしかして、私の好きな茶葉を用意してくださったのですか?」
馴染みのある柔らかな柑橘類の香りに、体の緊張が解けていくようだ。
ティーカップを置いてちらりとルシアさまを見やれば、彼女は小さな微笑みを浮かべたまま、ごくわずかに頷いた。
本当に、いつ見ても神々しいまでの美しさだが、彼女の唯一の欠点はここにある。
ルシアさまは、基本的に無口なのだ。それも、心を許している人の前であればあるほど、口数がすくなくなるという厄介な性質だ。公務や表面上の付き合いをする人の前では流暢に喋るのに、私の前ではいちどのお茶会で二言三言話せばいいほうなのだ。
その性質は、婚約者である王太子殿下の前でも例外ではないらしい。夜会でもお茶会でも、ルシアさまと殿下が会話に花を咲かせている場面を見たことがない。
そしてそれこそが、王太子殿下の病みを加速させる一因だった。
ルシアさまと殿下のルートの概要はこうだ。
人当たりがよく、心優しい王太子殿下と、女神とまで謳われる完璧な公爵令嬢であるルシアさま。誰からも祝福される関係のふたりだが、恋人らしい付き合いをしているかと言われればそうではない。
王太子殿下は、ルシアさまに心底惚れていた。それこそ、他の何を投げ打ってもいいというくらいに、ルシアさまを愛していた。
ルシアさまもまた殿下に恋い焦がれ、心を許しているのだが、問題はその態度だ。
親しい人の前ではほとんど何も話さなくなるだけあって、ルシアさまは王太子殿下とふたりきりになっても、にこにこと微笑むばかりで会話が弾まない。その反面、社交界に出れば表面上の付き合いをしている貴族たちとは会話に花を咲かせる。
王太子殿下は、ルシアさまのこの様子を見て不安になり、ルシアさまに他に想い人がいるのではないか、とだんだんと疑念を膨らませていく。
やがてその疑念が、ルシアさまへの愛しさを超えてしまい、ついに殿下は強硬手段を取る。妃教育を建前にして、ルシアさまをお城に閉じ込めてしまうのだ。
そこからは、散々だ。ルシアさまを繋ぎとめるために既成事実を作ろうとしたり、暴力的な手段で脅してルシアさまに無理やり喋らせようとしたり、と思わず目を背けたくなる鬱展開が待っている。普段は人当たりのいい紳士である王太子殿下だっただけに、その変わりようには目を瞠るものがあった。
その中で、ルシアさまが殿下の心の歪みごと受けとめ、なおかつ、ご自身の想いをきちんと言葉にすることができれば、ふたりを待つのはハッピーエンドだ。王太子殿下はルシアさまへの横暴を悔い改め、心を通わせたふたりは、予定通りに結婚式を挙げ、誰からも祝福される王太子夫妻として幸せに暮らす。
だが、ルシアさまがご自身の想いを口にすることができなければ、やがて殿下から直々に「エルの恋花」を渡される。
この場合、ルシアさまは表向きには死亡したことになり、王城の奥深くで生涯監禁される。次第にルシアさまは自我を失い、殿下のお人形さんになるという、バッドエンドもいいところの終わり方をするのだ。
ちなみにこのふたりの物語で、エレノアは王太子殿下の病みを加速させる役を担っている。
――ねえ、殿下? 同じ公爵令嬢なら、ルシアさまではなく私でもいいのではなくって? 何も喋らない無口なお人形さんより、私のほうがずうっと殿下にふさわしいと思いませんこと?
甘ったるい声でこんな台詞を囁いて、エレノアは殿下に付きまとう。そしてあるとき、運悪く殿下とエレノアが一緒にいる場面をルシアさまが目撃し、殿下とルシアさまの溝が深まってしまう、というありがちなイベントが起こるのだ。
この振る舞いに対する罰として、エレノアは王国から追放され、二度と王城に足を踏み入れることが叶わなくなる。もっとも、他の攻略対象者にはあっさりと殺されることを考えれば、これはまだ優しい処遇だと言えるかもしれない。
だが、今の私は追放刑を科されるわけにはいかないのだ。
王国から追放されてしまっては、他の四組のカップル成立を見守ることができなくなってしまう。それはすなわち、私の生きがいを奪うことに等しい。
つまり、私がこのふたりのルートにおいて目指すべきことはふたつ。王国からの追放を避け、なおかつ、ふたりをハッピーエンドに導くことだ。
ヤンデレ好きな私としては、ふたりが迎えるバッドエンドも悪くはない――どころか、大変おいしい結末であるのだが、あくまでそれは画面越しに限った話だ。
十年近くの付き合いがある幼馴染が、王子さまのお人形になる様を、喜んで見守るほど冷たくはなれない。
何より、ふたりにはまともなハッピーエンドが用意されているのだ。歪んだ愛を内包しつつ、表面上は円満な夫婦として振る舞う、コントロールされたヤンデレもまたたまらない。
「それどころか……おいしすぎるわ!」
ふたりの恋路を想像するだけで、震えるほどに幸せだ。ハッピーエンド――すなわちコントロールされたヤンデレルートを迎えたふたりを見ているだけで、何斤でもパンを食べられる。
ルシアさまは私の言葉を紅茶に対する感想だと思ったのか、わずかに笑みを深めて、深緑の瞳でじっとこちらを見つめてきた。とてもかわいい。明らかに好意を向けられていると察するには充分な表情であるのに、殿下はこの微笑みだけで満足しなかったのだろうか。それほどまでに、殿下はルシアさまに恋い焦がれているということだろうか。愛が重い。やっぱりおいしすぎる。
「ふふ、それで、ルシアさま、今日は私に何か御用ですの?」
ティーテーブルに軽く身を乗り出すようにして問いかければ、ルシアさまは背後に控えている侍女のひとりに目配せをして、何かを持ってこさせた。
侍女が持ってきたのは、宝石の散りばめられたふたつの髪飾りだった。それぞれ小箱に収められており、片方は新緑を思わせる鮮やかな宝石、もう片方は青みがかった紺碧の石が埋め込まれている。
「これは……」
これは確か、王太子殿下とルシアさまの物語において、王太子殿下の病みを加速させるか否かが決まるキーアイテムのひとつではないだろうか。
「狂愛の恋花」の中で、ルシアさまは殿下とともにとある夜会に出席する。その際に、夜会で身に着ける髪飾りを選ぶイベントがあるのだが、これを間違えると一気に殿下の病みが加速するのだ。
王太子殿下は、青みがかった黒髪に、鮮やかな新緑の瞳を持つ青年だ。ルシアさまの意図としては、殿下の髪色と瞳の色のどちらに合わせた髪飾りを選ぶべきか、と悩んでいるのだろうが、ここで紺碧の宝石を選ぶと、殿下の病みが加速してしまう。
紺碧、といえばこの国の社交界で真っ先に連想されるのはルーク――私のお義兄さまの瞳だった。白銀の髪に紺碧の瞳を持つお義兄さまは、令嬢たちの憧れの的で、特に星空をそのまま映し取ったような紺碧の瞳は、どんな宝石にも劣らないと謳われている。
そのため、ルシアさまが紺碧の宝石を身に纏うと、王太子殿下は「ルシアが恋い焦がれているのはルークではないか」という誤解を深めてしまうのだ。
それが結局、ルシアさまがお城に閉じ込められる引き金のひとつになるわけだが、ふたりをハッピーエンドに導くためには、お城に引っ込まれては敵わない。
ルシアさまは、髪飾りとともに繊細な模様の描かれた招待状を差し出して、小首を傾げた。要は「この夜会に着けていく髪飾りはどちらがいいと思う?」と訊いているのだ。
迷う余地はない。私は新緑の宝石が埋め込まれた髪飾りをそっと手に取って、にこりとルシアさまに微笑んだ。
「絶対に、こちらのほうがよろしいですわ。まるで殿下の瞳の色そのもののような鮮やかさですもの。ルシアさまがこちらを身に着けたら、殿下はきっと、それはそれはお喜びになられるはずですわ!」
殿下が喜ぶ、という言葉が嬉しかったのか、ルシアさまはすこしの間考えた後に、どこか恥ずかしそうに小さく頷いた。淡い白金の髪がふわりと揺れる。やっぱりかわいい。
「ふふ、もしかして、私に相談する前から、こちらにしようと決めていたのではありませんこと?」
ルシアさまがあんまりかわいいから意地悪をするように問い詰めれば、彼女は小さく頭を振った。
「……あなたに、決めてもらいたかったのです」
鈴を転がすような可憐な声だ。滅多に聴けないだけあって、ルシアさまの声は一等美しく思える。
わかりきっていたことをわざわざ問い詰めてしまったが、ルシアさまの声を聴けたのだから大満足だ。
私はにやにやと笑みを深めながら、新緑の宝石の髪飾りをルシアさまの手もとに戻した。
「こちらの紺碧の宝石は殿下の髪の色、新緑の宝石は殿下の瞳の色を想定してご準備なさったのですよね?」
まったく同じ意匠の髪飾りを並べて、ちらりとルシアさまを見やる。彼女は気恥ずかしそうに肩を縮めていた。最高にかわいい。
「確かに、殿下の髪色は青みがかった黒ですが、こちらの宝石は紺碧と呼ぶにふさわしく、どちらかと言えば私のお義兄さまの瞳を連想してしまいますわ」
お義兄さまの瞳の色なんてまるで考えていなかったのか、ルシアさまははっとしたように私を見ていた。この美しい令嬢の眼中には、やはり王太子殿下しかいらっしゃらないらしい。
「いいですか、ルシアさま。この先、装飾品やドレスの色に悩むようなことがあれば、ひとまず新緑にしておけば間違いはありません。殿下のご機嫌もいっそうよろしくなるでしょう」
緑の瞳は王族か、それに近しい公爵家にのみ受け継がれる色だ。幸い、王族にも公爵家にも緑の瞳を持つ年ごろの男性は王太子殿下以外にいないので、迷ったらまず緑を選んでおいて間違いはないだろう。ルシアさま自身も深緑の瞳であるわけだから、似合わないなんて心配もない。
ルシアさまは、私の言葉を聞き届けると、ほんのりと頬を染めて頷いた。
……よかった。これで多少は殿下の病みを加速させずに済むかしら?
バッドエンドから、一歩遠のいたかもしれない。一仕事終えたような達成感を味わいながら、私は紅茶を再び口に運んだ。
ひとしきり照れていたようなルシアさまだが、ふいに姿勢を正したかと思うと、紺碧の宝石が埋め込まれた髪飾りを私に差し出してきた。
繊細な模様が彫り込まれた銀の小箱を目の前にして、今度は私が小首を傾げる番だ。もっとも、「エレノア・ロイル」がやっても、あざといだけで愛らしさはないのだろうけれど。
「ルシアさま、こちらは?」
「……差し上げます」
「え? ……でも、こんなすばらしいものを……いいのですか?」
大ぶりな紺碧の宝石も、繊細な金と銀の細工も、とんでもない値段がしそうだ。下手したら、ちょっとした屋敷くらいは建つのではないだろうか。
「この間、宝石商が来たときに見かけて……それであなたと、お揃いで、着けたくて……」
そこまで言って、ルシアさまは頬を真っ赤に染めて俯いてしまった。
「……お揃いで、って……」
まさか、私の前にふたつの髪飾りを並べたのも、ルシアさま自身がどちらを身に着ければよいか悩んでいるからではなく、私への贈り物として、私がどちらを好むか尋ねたかったからなのだろうか。
「……あなたがわたくしにこの色を勧めてくださったから……わたくしは、こちらを」
ルシアさまは大切そうに新緑の宝石が埋め込まれた髪飾りを胸に当てて、眩いばかりの微笑みを浮かべた。
作中では、ルシアとエレノアは「親友」ではあったが、エレノアが殿下に言いよる場面があるあたり、エレノアはルシアのことをさほど大切に思っていなかったと推察される。
だが、ルシアはきっと違ったのだ。エレノアを――私を、大切な親友として尊重してくれている。
……こんなすてきな友人を裏切るなんて、絶対できない。
紺碧の宝石が埋め込まれた髪飾りを、そっと胸に抱く。
……絶対に、ルシアさまの恋をバッドエンドにはさせないわ。
改めて決意を固め、ルシアさまに笑いかける。
「ありがとうございます、ルシアさま。必ず、夜会に着けていきますね」
ルシアさまはやっぱり恥ずかしそうに頬を赤らめて、小さく笑った。
そのまま紅茶を片手にくすくすと笑いあっていると、ふと、離れたところに控えていた侍女のひとりが焦ったようにルシアさまのそばに歩み寄り、何かを耳打ちする。途端、ルシアさまの瞳が驚いたように見開かれた。
……急用でもできたのかしら?
それならば私はお暇しなければ、と話の切り出し方を逡巡していると、屋敷の中から青みがかった黒髪の青年が現れた。遠目からでも目を引くような存在感がある。
……王太子殿下だわ!
殿下が訪れることはルシアさまとしても予想外だったのだろう。私とほとんど同時に椅子から立ち上がり、ドレスを摘まんで礼をした。
「やあ、ルシア。突然訪ねてしまってすまない。近くまで寄ったものだから、君の顔が見たくてね」
よく通る爽やかな声は、王太子殿下のものだ。声だけ聞くと、ヤンデレとは思えない好青年ぶりだった。
ルシアさまが慎ましくもういちど頭を下げる気配がする。夢のヤンデレカップルが目の前で向かいあっているのだと思うと、一刻も早く顔を上げたくて仕方がなかった。
「友人を招いていたところだったんだね。邪魔をしてしまったな。その髪色は……ああ、ロイル公爵家のエレノア嬢か」
声をかけられ、私もドレスを摘まんだまま口を開く。
「王太子殿下、ご機嫌麗しゅう存じます。ルシアさまのお招きで、お茶をいただいておりました」
「ああ、私的な場なんだからもっと楽にしてくれて構わないよ」
殿下の言葉にゆっくりと顔を上げる。人好きのする爽やかな笑みを浮かべた殿下が、品よく目の前に佇んでいた。その新緑の瞳は、やはりルシアさまだけに向けられている。
……あふれんばかりの愛おしさと、独占欲を思わせるほのかな翳り。これぞヤンデレの目だわ!
心の中で大喝采を送りながら、殿下の横顔を見つめる。その拍子にふと、彼の隣に並ぶ青年の存在に気がついた。
……お義兄さま?
星空のような深い紺碧の瞳と、一瞬だけ目が合う。彼は私を一瞥した後、眉を顰めてすぐに視線を逸らしてしまった。
「ついさっきまでルークと建国祭について打ち合わせをしていたんだ。エレノア嬢もいるならちょうどよかった」
殿下の紹介で、お義兄さまが一歩前へ出て、ルシアさまに形式的な挨拶をする。
「ティルヴァーン公爵令嬢、突然の訪問をお許しください。義妹を連れてすぐに失礼いたしますので、どうか殿下とごゆっくりお過ごしください」
……やっぱり、そうなるわよね。
ルシアさまと殿下のヤンデレカップルを眺めながらであれば、お茶菓子なしで何杯でも紅茶をいただけそうなのだが、ふたりの邪魔をするわけにはいかないというお義兄さまの判断も理解できる。
だが、ルシアさまは可憐な微笑みを見せたかと思うと、滑らかに口を開いた。
「ロイル公爵令息、我が屋敷へお越しいただきありがとうございます。せっかくご足労いただいたのです、よろしければお帰りになる前にお茶でもいかがですか」
……本当、仲良くない人の前では人が変わったように喋るのね。
これほどたくさんルシアさまの声を聞いたのは久しぶりだ。澄みきった可憐な声に癒されながらも、ちらりと殿下の様子を窺う。
殿下は、先ほどまでの爽やかさをぎりぎり保ちつつ、深く翳った目でルシアさまを見ていた。春だというのに、思わずぞわりとした寒気を覚える。
……やっぱり、バッドエンドではルシアさまを監禁するヤンデレなだけあるわね。
お義兄さまとだけ滑らかに話すルシアさまを見て、殿下は嫉妬しているのだろう。こんなに仄暗い感情をにじませた目で見られているのに、ルシアさまは何も気づかないのだろうか。
ヒロインの鈍感さはヤンデレの病みを育むおいしい要素ではあるが、目の前で友人があまりに鈍い振る舞いをしていると不安のほうが勝る。
「ルシアさま、せっかくですけれど私、もうお腹いっぱいですの。今日のところはお義兄さまと一緒に失礼させていただこうかと思いますわ」
わがままなエレノアらしく切り出せば、ルシアさまはこくりと頷いた。多少無礼とも捉えられかねないエレノアのはっきりした物言いにも慣れているらしい。
「じゃあ……門までお見送りする……」
ぽつりと呟いたかと思うと、ルシアさまは私の手を取って歩き出した。ふたりでいるときはよくこうして歩いているから問題ないが、今は王太子殿下がいるのだ。彼の手を取らない選択はあまり賢明とは言えない。
……困ったわ。ルシアさまはかなりのヤンデレ育成型ヒロインね。
今も背後からひしひしと翳った視線を感じるというのに、ルシアさまは呑気に微笑んだままだ。
「建国祭、楽しみ」
ルシアさまが、内緒話をするようにくすりと笑う。豪華なものに慣れている公爵令嬢であるルシアさまが楽しみにするほど、この国の建国祭は盛大だ。
「ええ、本当に――」
……ん? 建国祭?
先ほどからちらちらと話題に上る言葉だが、何かが引っかかる。その言葉から連想されるのは、美しい月夜と「エルの恋花」だ。
「っ……!」
はっと、大切なことを思い出す。同時に、「狂愛の恋花」のことを思い出したときのような、鋭い頭痛に見舞われた。
そうだ、建国祭は、この夜会は――
……ルシアさまと殿下のルート分岐の夜会じゃない!
頭痛とともに蘇るのは、ルシアさまが王城の奥深くで殿下に監禁されている場面。背徳的で官能的な美しさのある場面ではあったが、生身の友人にあんな状況には陥ってほしくない。
……思ったより猶予がないわ。
ここが「狂愛の恋花」の世界だと気づいたのが昨日でよかった。一歩間違えれば、私は親友をバッドエンドに進ませていたかもしれない。
恐怖で、ばくばくと心臓が暴れていた。落ち着かなければ。まだ、どうとでも軌道修正できる段階にいるはずなのだから。
いちどだけ深呼吸をして、考えを巡らせる。ハッピーエンドに導くためには、ふたりの距離を縮めるような何かが必要だ。
……ちょっと無理やりだけれど、小さな嘘をついてみようかしら。
尊いハッピーヤンデレルートのためならば、多少の嘘も厭わない。にいっと唇を歪めて、隣を歩くルシアさまを見た。
「ねえ、ルシアさま」
白く塗られた大きな門が見えてきたあたりで立ち止まり、内緒話をするようにそっと彼女の耳もとに顔を寄せる。
「建国祭の迷信はご存知?」
エレノアの艶のある声で言うと、まるでとても悪い誘いでもしているような気になってしまう。ルシアさまは囁き声がくすぐったかったのか、わずかに身を捩ったが、頬を赤らめて私の言葉を待ってくれていた。
「私、メイドから聞いたのです。建国祭の夜に告白をすると、そのお相手といつまでも幸せに暮らせるのですって」
もちろん、こんな伝承はない。たった今私が作り上げた架空の迷信だ。
お義兄さまは後継者教育のために公爵領へ赴くこともあるが、基本的には私の面倒を見るという名目でこの王都の屋敷に滞在していることが多い。彼はいつでも疎ましそうに私を見ているから、お父さまに私の保護者役を押しつけられていることは明白だった。
つまり、お義兄さまとはかれこれ十年近くともに暮らしている仲なのだが、お世辞にも義兄妹とは言えないような浅い付き合いしかしていない。
「お義兄さま、おはようございます」
彼とはほとんど顔を合わせないが、朝のこの時間に手紙を確認するときにはよく会う。きっと、お義兄さまが私室から一階にある書斎へ移動する時間と被っているのだろう。
「ああ」
お義兄さまは冷えきった目で私を一瞥すると、興味をなくしたように階段を下りて、廊下の奥へと去ってしまった。私からすこし離れたところには、彼のヒロインであるレインも控えているのだが、そちらに目を向ける様子もない。
……お義兄さまとレインの恋は、まだ始まっていないのかしら?
「狂愛の恋花」には五組のヤンデレカップルが登場するが、どのカップルがどの順番で成立するかはよくわからない。この様子を見ている限り、まだ、彼らの番ではないのだろう。
……初めはルシアさまと、王太子殿下だったらいいな。
淡い期待を抱きながら、くるりと踵を返す。これからヤンデレカップルに会えるかもしれないと思えば、お義兄さまの冷たい視線はすこしも気にならなかった。
◇
「本日はお招きいただきましてありがとうございます、ルシアさま」
正午を過ぎたころ、私はルシアさまのお招きでティルヴァーン公爵家にお邪魔していた。王都の一等地に建てられた白亜のお屋敷は、ティルヴァーン公爵家らしい品のよさが漂っている。
今は公爵家の中庭にティーセットを用意してもらい、そよ風を受けながら青空の下で小さなお茶会をしているところだった。
ルシアさまは返事の代わりににこりと微笑むと、優雅な所作でティーカップを口もとに運んだ。
……流石はヒロイン。こんなちょっとした仕草でも絵になるのね。
ほう、と感嘆の溜息をつきながら彼女を見守る。深い緑色の瞳と目が合うと、気恥ずかしそうに彼女は小さく笑って視線を伏せてしまった。
……かわいい、なんてかわいいの!
ルシアさまは、私よりもひとつ年上で、白金の髪に理知的な深緑の瞳を持つそれは可憐なご令嬢だ。人間離れしたその美しさと、清廉さ、そしてその聡明さから「ハルスウェルの女神」という賞賛を込めた異名を持つ。
……わがままで高飛車という悪評のある私と親友だなんて、みんながきっと不思議に思っているわよね。
――あなた、とっても綺麗なのね。お友だちになって差し上げてもよろしくてよ?
今から十年ほど前に、幼い私は初対面でルシアさまにそう告げた。あまりにも生意気な言葉だと思うが、どうしてかそれ以来、こうして頻繁に顔を合わせるほどの親友になっている。
「おいしい……もしかして、私の好きな茶葉を用意してくださったのですか?」
馴染みのある柔らかな柑橘類の香りに、体の緊張が解けていくようだ。
ティーカップを置いてちらりとルシアさまを見やれば、彼女は小さな微笑みを浮かべたまま、ごくわずかに頷いた。
本当に、いつ見ても神々しいまでの美しさだが、彼女の唯一の欠点はここにある。
ルシアさまは、基本的に無口なのだ。それも、心を許している人の前であればあるほど、口数がすくなくなるという厄介な性質だ。公務や表面上の付き合いをする人の前では流暢に喋るのに、私の前ではいちどのお茶会で二言三言話せばいいほうなのだ。
その性質は、婚約者である王太子殿下の前でも例外ではないらしい。夜会でもお茶会でも、ルシアさまと殿下が会話に花を咲かせている場面を見たことがない。
そしてそれこそが、王太子殿下の病みを加速させる一因だった。
ルシアさまと殿下のルートの概要はこうだ。
人当たりがよく、心優しい王太子殿下と、女神とまで謳われる完璧な公爵令嬢であるルシアさま。誰からも祝福される関係のふたりだが、恋人らしい付き合いをしているかと言われればそうではない。
王太子殿下は、ルシアさまに心底惚れていた。それこそ、他の何を投げ打ってもいいというくらいに、ルシアさまを愛していた。
ルシアさまもまた殿下に恋い焦がれ、心を許しているのだが、問題はその態度だ。
親しい人の前ではほとんど何も話さなくなるだけあって、ルシアさまは王太子殿下とふたりきりになっても、にこにこと微笑むばかりで会話が弾まない。その反面、社交界に出れば表面上の付き合いをしている貴族たちとは会話に花を咲かせる。
王太子殿下は、ルシアさまのこの様子を見て不安になり、ルシアさまに他に想い人がいるのではないか、とだんだんと疑念を膨らませていく。
やがてその疑念が、ルシアさまへの愛しさを超えてしまい、ついに殿下は強硬手段を取る。妃教育を建前にして、ルシアさまをお城に閉じ込めてしまうのだ。
そこからは、散々だ。ルシアさまを繋ぎとめるために既成事実を作ろうとしたり、暴力的な手段で脅してルシアさまに無理やり喋らせようとしたり、と思わず目を背けたくなる鬱展開が待っている。普段は人当たりのいい紳士である王太子殿下だっただけに、その変わりようには目を瞠るものがあった。
その中で、ルシアさまが殿下の心の歪みごと受けとめ、なおかつ、ご自身の想いをきちんと言葉にすることができれば、ふたりを待つのはハッピーエンドだ。王太子殿下はルシアさまへの横暴を悔い改め、心を通わせたふたりは、予定通りに結婚式を挙げ、誰からも祝福される王太子夫妻として幸せに暮らす。
だが、ルシアさまがご自身の想いを口にすることができなければ、やがて殿下から直々に「エルの恋花」を渡される。
この場合、ルシアさまは表向きには死亡したことになり、王城の奥深くで生涯監禁される。次第にルシアさまは自我を失い、殿下のお人形さんになるという、バッドエンドもいいところの終わり方をするのだ。
ちなみにこのふたりの物語で、エレノアは王太子殿下の病みを加速させる役を担っている。
――ねえ、殿下? 同じ公爵令嬢なら、ルシアさまではなく私でもいいのではなくって? 何も喋らない無口なお人形さんより、私のほうがずうっと殿下にふさわしいと思いませんこと?
甘ったるい声でこんな台詞を囁いて、エレノアは殿下に付きまとう。そしてあるとき、運悪く殿下とエレノアが一緒にいる場面をルシアさまが目撃し、殿下とルシアさまの溝が深まってしまう、というありがちなイベントが起こるのだ。
この振る舞いに対する罰として、エレノアは王国から追放され、二度と王城に足を踏み入れることが叶わなくなる。もっとも、他の攻略対象者にはあっさりと殺されることを考えれば、これはまだ優しい処遇だと言えるかもしれない。
だが、今の私は追放刑を科されるわけにはいかないのだ。
王国から追放されてしまっては、他の四組のカップル成立を見守ることができなくなってしまう。それはすなわち、私の生きがいを奪うことに等しい。
つまり、私がこのふたりのルートにおいて目指すべきことはふたつ。王国からの追放を避け、なおかつ、ふたりをハッピーエンドに導くことだ。
ヤンデレ好きな私としては、ふたりが迎えるバッドエンドも悪くはない――どころか、大変おいしい結末であるのだが、あくまでそれは画面越しに限った話だ。
十年近くの付き合いがある幼馴染が、王子さまのお人形になる様を、喜んで見守るほど冷たくはなれない。
何より、ふたりにはまともなハッピーエンドが用意されているのだ。歪んだ愛を内包しつつ、表面上は円満な夫婦として振る舞う、コントロールされたヤンデレもまたたまらない。
「それどころか……おいしすぎるわ!」
ふたりの恋路を想像するだけで、震えるほどに幸せだ。ハッピーエンド――すなわちコントロールされたヤンデレルートを迎えたふたりを見ているだけで、何斤でもパンを食べられる。
ルシアさまは私の言葉を紅茶に対する感想だと思ったのか、わずかに笑みを深めて、深緑の瞳でじっとこちらを見つめてきた。とてもかわいい。明らかに好意を向けられていると察するには充分な表情であるのに、殿下はこの微笑みだけで満足しなかったのだろうか。それほどまでに、殿下はルシアさまに恋い焦がれているということだろうか。愛が重い。やっぱりおいしすぎる。
「ふふ、それで、ルシアさま、今日は私に何か御用ですの?」
ティーテーブルに軽く身を乗り出すようにして問いかければ、ルシアさまは背後に控えている侍女のひとりに目配せをして、何かを持ってこさせた。
侍女が持ってきたのは、宝石の散りばめられたふたつの髪飾りだった。それぞれ小箱に収められており、片方は新緑を思わせる鮮やかな宝石、もう片方は青みがかった紺碧の石が埋め込まれている。
「これは……」
これは確か、王太子殿下とルシアさまの物語において、王太子殿下の病みを加速させるか否かが決まるキーアイテムのひとつではないだろうか。
「狂愛の恋花」の中で、ルシアさまは殿下とともにとある夜会に出席する。その際に、夜会で身に着ける髪飾りを選ぶイベントがあるのだが、これを間違えると一気に殿下の病みが加速するのだ。
王太子殿下は、青みがかった黒髪に、鮮やかな新緑の瞳を持つ青年だ。ルシアさまの意図としては、殿下の髪色と瞳の色のどちらに合わせた髪飾りを選ぶべきか、と悩んでいるのだろうが、ここで紺碧の宝石を選ぶと、殿下の病みが加速してしまう。
紺碧、といえばこの国の社交界で真っ先に連想されるのはルーク――私のお義兄さまの瞳だった。白銀の髪に紺碧の瞳を持つお義兄さまは、令嬢たちの憧れの的で、特に星空をそのまま映し取ったような紺碧の瞳は、どんな宝石にも劣らないと謳われている。
そのため、ルシアさまが紺碧の宝石を身に纏うと、王太子殿下は「ルシアが恋い焦がれているのはルークではないか」という誤解を深めてしまうのだ。
それが結局、ルシアさまがお城に閉じ込められる引き金のひとつになるわけだが、ふたりをハッピーエンドに導くためには、お城に引っ込まれては敵わない。
ルシアさまは、髪飾りとともに繊細な模様の描かれた招待状を差し出して、小首を傾げた。要は「この夜会に着けていく髪飾りはどちらがいいと思う?」と訊いているのだ。
迷う余地はない。私は新緑の宝石が埋め込まれた髪飾りをそっと手に取って、にこりとルシアさまに微笑んだ。
「絶対に、こちらのほうがよろしいですわ。まるで殿下の瞳の色そのもののような鮮やかさですもの。ルシアさまがこちらを身に着けたら、殿下はきっと、それはそれはお喜びになられるはずですわ!」
殿下が喜ぶ、という言葉が嬉しかったのか、ルシアさまはすこしの間考えた後に、どこか恥ずかしそうに小さく頷いた。淡い白金の髪がふわりと揺れる。やっぱりかわいい。
「ふふ、もしかして、私に相談する前から、こちらにしようと決めていたのではありませんこと?」
ルシアさまがあんまりかわいいから意地悪をするように問い詰めれば、彼女は小さく頭を振った。
「……あなたに、決めてもらいたかったのです」
鈴を転がすような可憐な声だ。滅多に聴けないだけあって、ルシアさまの声は一等美しく思える。
わかりきっていたことをわざわざ問い詰めてしまったが、ルシアさまの声を聴けたのだから大満足だ。
私はにやにやと笑みを深めながら、新緑の宝石の髪飾りをルシアさまの手もとに戻した。
「こちらの紺碧の宝石は殿下の髪の色、新緑の宝石は殿下の瞳の色を想定してご準備なさったのですよね?」
まったく同じ意匠の髪飾りを並べて、ちらりとルシアさまを見やる。彼女は気恥ずかしそうに肩を縮めていた。最高にかわいい。
「確かに、殿下の髪色は青みがかった黒ですが、こちらの宝石は紺碧と呼ぶにふさわしく、どちらかと言えば私のお義兄さまの瞳を連想してしまいますわ」
お義兄さまの瞳の色なんてまるで考えていなかったのか、ルシアさまははっとしたように私を見ていた。この美しい令嬢の眼中には、やはり王太子殿下しかいらっしゃらないらしい。
「いいですか、ルシアさま。この先、装飾品やドレスの色に悩むようなことがあれば、ひとまず新緑にしておけば間違いはありません。殿下のご機嫌もいっそうよろしくなるでしょう」
緑の瞳は王族か、それに近しい公爵家にのみ受け継がれる色だ。幸い、王族にも公爵家にも緑の瞳を持つ年ごろの男性は王太子殿下以外にいないので、迷ったらまず緑を選んでおいて間違いはないだろう。ルシアさま自身も深緑の瞳であるわけだから、似合わないなんて心配もない。
ルシアさまは、私の言葉を聞き届けると、ほんのりと頬を染めて頷いた。
……よかった。これで多少は殿下の病みを加速させずに済むかしら?
バッドエンドから、一歩遠のいたかもしれない。一仕事終えたような達成感を味わいながら、私は紅茶を再び口に運んだ。
ひとしきり照れていたようなルシアさまだが、ふいに姿勢を正したかと思うと、紺碧の宝石が埋め込まれた髪飾りを私に差し出してきた。
繊細な模様が彫り込まれた銀の小箱を目の前にして、今度は私が小首を傾げる番だ。もっとも、「エレノア・ロイル」がやっても、あざといだけで愛らしさはないのだろうけれど。
「ルシアさま、こちらは?」
「……差し上げます」
「え? ……でも、こんなすばらしいものを……いいのですか?」
大ぶりな紺碧の宝石も、繊細な金と銀の細工も、とんでもない値段がしそうだ。下手したら、ちょっとした屋敷くらいは建つのではないだろうか。
「この間、宝石商が来たときに見かけて……それであなたと、お揃いで、着けたくて……」
そこまで言って、ルシアさまは頬を真っ赤に染めて俯いてしまった。
「……お揃いで、って……」
まさか、私の前にふたつの髪飾りを並べたのも、ルシアさま自身がどちらを身に着ければよいか悩んでいるからではなく、私への贈り物として、私がどちらを好むか尋ねたかったからなのだろうか。
「……あなたがわたくしにこの色を勧めてくださったから……わたくしは、こちらを」
ルシアさまは大切そうに新緑の宝石が埋め込まれた髪飾りを胸に当てて、眩いばかりの微笑みを浮かべた。
作中では、ルシアとエレノアは「親友」ではあったが、エレノアが殿下に言いよる場面があるあたり、エレノアはルシアのことをさほど大切に思っていなかったと推察される。
だが、ルシアはきっと違ったのだ。エレノアを――私を、大切な親友として尊重してくれている。
……こんなすてきな友人を裏切るなんて、絶対できない。
紺碧の宝石が埋め込まれた髪飾りを、そっと胸に抱く。
……絶対に、ルシアさまの恋をバッドエンドにはさせないわ。
改めて決意を固め、ルシアさまに笑いかける。
「ありがとうございます、ルシアさま。必ず、夜会に着けていきますね」
ルシアさまはやっぱり恥ずかしそうに頬を赤らめて、小さく笑った。
そのまま紅茶を片手にくすくすと笑いあっていると、ふと、離れたところに控えていた侍女のひとりが焦ったようにルシアさまのそばに歩み寄り、何かを耳打ちする。途端、ルシアさまの瞳が驚いたように見開かれた。
……急用でもできたのかしら?
それならば私はお暇しなければ、と話の切り出し方を逡巡していると、屋敷の中から青みがかった黒髪の青年が現れた。遠目からでも目を引くような存在感がある。
……王太子殿下だわ!
殿下が訪れることはルシアさまとしても予想外だったのだろう。私とほとんど同時に椅子から立ち上がり、ドレスを摘まんで礼をした。
「やあ、ルシア。突然訪ねてしまってすまない。近くまで寄ったものだから、君の顔が見たくてね」
よく通る爽やかな声は、王太子殿下のものだ。声だけ聞くと、ヤンデレとは思えない好青年ぶりだった。
ルシアさまが慎ましくもういちど頭を下げる気配がする。夢のヤンデレカップルが目の前で向かいあっているのだと思うと、一刻も早く顔を上げたくて仕方がなかった。
「友人を招いていたところだったんだね。邪魔をしてしまったな。その髪色は……ああ、ロイル公爵家のエレノア嬢か」
声をかけられ、私もドレスを摘まんだまま口を開く。
「王太子殿下、ご機嫌麗しゅう存じます。ルシアさまのお招きで、お茶をいただいておりました」
「ああ、私的な場なんだからもっと楽にしてくれて構わないよ」
殿下の言葉にゆっくりと顔を上げる。人好きのする爽やかな笑みを浮かべた殿下が、品よく目の前に佇んでいた。その新緑の瞳は、やはりルシアさまだけに向けられている。
……あふれんばかりの愛おしさと、独占欲を思わせるほのかな翳り。これぞヤンデレの目だわ!
心の中で大喝采を送りながら、殿下の横顔を見つめる。その拍子にふと、彼の隣に並ぶ青年の存在に気がついた。
……お義兄さま?
星空のような深い紺碧の瞳と、一瞬だけ目が合う。彼は私を一瞥した後、眉を顰めてすぐに視線を逸らしてしまった。
「ついさっきまでルークと建国祭について打ち合わせをしていたんだ。エレノア嬢もいるならちょうどよかった」
殿下の紹介で、お義兄さまが一歩前へ出て、ルシアさまに形式的な挨拶をする。
「ティルヴァーン公爵令嬢、突然の訪問をお許しください。義妹を連れてすぐに失礼いたしますので、どうか殿下とごゆっくりお過ごしください」
……やっぱり、そうなるわよね。
ルシアさまと殿下のヤンデレカップルを眺めながらであれば、お茶菓子なしで何杯でも紅茶をいただけそうなのだが、ふたりの邪魔をするわけにはいかないというお義兄さまの判断も理解できる。
だが、ルシアさまは可憐な微笑みを見せたかと思うと、滑らかに口を開いた。
「ロイル公爵令息、我が屋敷へお越しいただきありがとうございます。せっかくご足労いただいたのです、よろしければお帰りになる前にお茶でもいかがですか」
……本当、仲良くない人の前では人が変わったように喋るのね。
これほどたくさんルシアさまの声を聞いたのは久しぶりだ。澄みきった可憐な声に癒されながらも、ちらりと殿下の様子を窺う。
殿下は、先ほどまでの爽やかさをぎりぎり保ちつつ、深く翳った目でルシアさまを見ていた。春だというのに、思わずぞわりとした寒気を覚える。
……やっぱり、バッドエンドではルシアさまを監禁するヤンデレなだけあるわね。
お義兄さまとだけ滑らかに話すルシアさまを見て、殿下は嫉妬しているのだろう。こんなに仄暗い感情をにじませた目で見られているのに、ルシアさまは何も気づかないのだろうか。
ヒロインの鈍感さはヤンデレの病みを育むおいしい要素ではあるが、目の前で友人があまりに鈍い振る舞いをしていると不安のほうが勝る。
「ルシアさま、せっかくですけれど私、もうお腹いっぱいですの。今日のところはお義兄さまと一緒に失礼させていただこうかと思いますわ」
わがままなエレノアらしく切り出せば、ルシアさまはこくりと頷いた。多少無礼とも捉えられかねないエレノアのはっきりした物言いにも慣れているらしい。
「じゃあ……門までお見送りする……」
ぽつりと呟いたかと思うと、ルシアさまは私の手を取って歩き出した。ふたりでいるときはよくこうして歩いているから問題ないが、今は王太子殿下がいるのだ。彼の手を取らない選択はあまり賢明とは言えない。
……困ったわ。ルシアさまはかなりのヤンデレ育成型ヒロインね。
今も背後からひしひしと翳った視線を感じるというのに、ルシアさまは呑気に微笑んだままだ。
「建国祭、楽しみ」
ルシアさまが、内緒話をするようにくすりと笑う。豪華なものに慣れている公爵令嬢であるルシアさまが楽しみにするほど、この国の建国祭は盛大だ。
「ええ、本当に――」
……ん? 建国祭?
先ほどからちらちらと話題に上る言葉だが、何かが引っかかる。その言葉から連想されるのは、美しい月夜と「エルの恋花」だ。
「っ……!」
はっと、大切なことを思い出す。同時に、「狂愛の恋花」のことを思い出したときのような、鋭い頭痛に見舞われた。
そうだ、建国祭は、この夜会は――
……ルシアさまと殿下のルート分岐の夜会じゃない!
頭痛とともに蘇るのは、ルシアさまが王城の奥深くで殿下に監禁されている場面。背徳的で官能的な美しさのある場面ではあったが、生身の友人にあんな状況には陥ってほしくない。
……思ったより猶予がないわ。
ここが「狂愛の恋花」の世界だと気づいたのが昨日でよかった。一歩間違えれば、私は親友をバッドエンドに進ませていたかもしれない。
恐怖で、ばくばくと心臓が暴れていた。落ち着かなければ。まだ、どうとでも軌道修正できる段階にいるはずなのだから。
いちどだけ深呼吸をして、考えを巡らせる。ハッピーエンドに導くためには、ふたりの距離を縮めるような何かが必要だ。
……ちょっと無理やりだけれど、小さな嘘をついてみようかしら。
尊いハッピーヤンデレルートのためならば、多少の嘘も厭わない。にいっと唇を歪めて、隣を歩くルシアさまを見た。
「ねえ、ルシアさま」
白く塗られた大きな門が見えてきたあたりで立ち止まり、内緒話をするようにそっと彼女の耳もとに顔を寄せる。
「建国祭の迷信はご存知?」
エレノアの艶のある声で言うと、まるでとても悪い誘いでもしているような気になってしまう。ルシアさまは囁き声がくすぐったかったのか、わずかに身を捩ったが、頬を赤らめて私の言葉を待ってくれていた。
「私、メイドから聞いたのです。建国祭の夜に告白をすると、そのお相手といつまでも幸せに暮らせるのですって」
もちろん、こんな伝承はない。たった今私が作り上げた架空の迷信だ。
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