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闇夜の錦

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 返事もできずに立ち尽くす俺の前まで叔母さんは来ると、俺の手を取り、握った。振り払いたいのに動けず、ただ目線をその手に移す。
 はやとくん、と呼ばれもう一度彼女の顔を見ると、やはり笑っていた。
「隼人くんにずっと会いたかったの」
 なんで。俺は会いたくない。
 言う間もなく、叔母さんは一人で勝手に語り始めた。目尻に皺を浮かべてただの優しそうなお母さんのような顔で、語り始めた。
 私ね、あのあと別の人と結婚したの。
 今はとっても幸せに暮らしてるわ。
 生まれた子供が可愛くて、あなたに悪い事をしたと反省したの。
 だからごめんなさいって言いたかったの。
 なにそれ。
 なんだよそれ。
 なんで?
 どうでもいいよ。
 あんたのせいで俺はこんな。
 こんなに気持ち悪い。
 無反応の俺に一生懸命語りかけている姿に嫌悪感しかわかなかった。
 こいつ謝れば許してもらえると思ってんの。頭おかしいんじゃないか。自分が何したかわかってるのか。あんたがいなけりゃこんな、こんな人生送ってなかった! 
 ずっと考えないようにしていた。考えてももう取り返しのつかないことだから。でも考えずにはいられない、もしも最初から篤志さんの家に引き取られていればって。
 きっと大事にしてもらえた。物心ついた時にはいたはずなんだ、今ほど気遣いが必要な仲ではなかっただろう。麗奈とも、玉貴ちゃんと玲児のような兄妹になっていたかもしれない。玲児とはきっと小学校や、もしかしたらそれよりも前に出会っていたかもしれない。こんな、こんな汚い自分じゃない、まっさらな自分で、お互いなにも知らない子供で、出会えていたかもしれない。友達になったかもしれない。もしかしたらそれでもお互い惹かれあったかもしれない。
 生まれ育った慣れ親しんだ部屋で、毎日安心して眠ったのだろう。その日のことや、次の日のことを考えながら。毎日、毎日だ。
 俺のもしかしたら存在したかもしれない人生だ。
 それを全部潰しておいて、ごめんなさい。だってさ。
「ははっ……」
 あんまりおかしくて笑いが漏れた。すると叔母さんは握った手の力を強め、泣き出した。鼻をくしゃっとしわしわにして汚ぇ涙を流している。
 こいつマジで頭おかしいな。人の通ってる高校の前まで押しかけてきて校門の前で生徒も歩いてるのに、赤ん坊抱いて人の手握って泣くって。気持ち悪。
「本当にごめんね、あの時は辛かったの。辛くてそれをあなたにぶつけるしかなかったの。もう幸せになったし大丈夫だと思ったんだけど、最近雑誌やテレビであなたのこと見かけるとまた辛くて……」
「罪悪感でも湧きました?」
 やっと放った言葉に彼女は驚くが、そう、そうなの辛くて辛くて、と自分がいかに辛いかという話だけ延々としてくるのだ。
 なんで今更と思ったが、そうかこの人にも罪悪感があるのか。
 幸せな今の自分に後ろめたいと。
 それで俺に許してもらいたいと!
 こいつ俺を精算しにきやがった!
「叔母さん」
 自分でも関心するほど穏やかな声が出た。
「ここだと邪魔だから、うちに来なよ。ゆっくり話そう」
「話してくれるの? ありがとう、そうよね、ゆっくり話しましょう」
 笑顔を向けてやるだけでその濁った目が輝いて、本当にこの人は自分がどれだけのことをしたかなんてちっともわかってないんだなと思い知らされた。俺に殺されたっておかしくないのにな。微塵もそんなこと思わないのな。
 方向転換して叔母さんを連れて歩き出そうとしたら、浅人はまだそこに立っていた。怪訝な顔をして俺と叔母さんを見比べている。
「隼人……誰なの、その人」
 無視をして進むが浅人は引かず、俺の腕を掴み引き止めた。無理矢理に自分の方へと向かせ、顔を覗き込み、険しい顔をして訴えかけてくる。
「どうしたんだよ。明らかに様子がおかしいじゃないか。どういうこと?」
「育ての……親だよ。久しぶりなんだ、もういいだろ」
「でもあの人なんか変じゃない? 大丈夫なの?」
「もういいって!」
 叔母さんに向けたのとは正反対に低く唸るように怒鳴りつけてしまい、ハッとして浅人を見ると苦虫を潰したような顔をしてそっと握っていた腕を離した。そうして喉の奥から絞り出すように声を出す。
「もう知らないふりはしたくないよ……大丈夫なの?」
 大丈夫ってなんだろうな、と思いながらも俺は返事をしなかった。何も言わずに曖昧に笑って浅人を置いたまま、叔母さんとその赤ん坊と自宅へと向かった。
 道中ずっと自分がいかに今幸せか、そして当時辛かったかをずっと話していたくせに、頭ん中お花畑なこいつは警戒もせず俺ん家に入ってもまだ話し足らないようでずっと何やらぺちゃくちゃと話していた。そのうち赤ん坊が眠りベッドを貸したが、寝かせた途端にぐずり、叔母さんはベッドに乗って子守唄か何かを歌いながらその子をあやした。優しい手つきでぽんぽんと胸を叩く姿はどこもおかしなところはなく、母親そのものだった。
 確かに少し変なところはあるものの、叔母さんは普通に笑って普通に話して普通に赤ん坊の世話をして、特別問題のある人には思えなかった。俺にはそれが許せなかった。
 どうしても許せなかった。
「叔母さん」
 半ば寝転んで我が子をあやす彼女の上に馬乗りになった。叔母さんは俺を見上げて目を丸くする。
 元々可愛らしい顔立ちの人ではあったが、さすがに少し老けたな。大きな目の下や目尻には小じわが目立つ。でも別にそんなことはどうでもいい。ババアになっていようがデブになっていようがそういう問題じゃない。
「昔みたいにしていい?」
「え、は、隼人くん……私、そんなつもりじゃ……」
「俺も子供みたいなものでしょ? 甘えさせてよ」
 服に手を入れても、下着を外しても、何も抵抗はなかった。口だけの拒否は次第に悦びの声へと変わり俺は笑いを堪えるのに精一杯だった。
 気持ち悪い女。
 俺より気持ち悪い。
 俺より何より気持ち悪いのはこの女!
 一人だけ真っ当な人生送ってんじゃねぇよ。
 なんでお前が幸せになってんだよ。
 俺はずっと地べた這いずり回ってんだ。
 お前も同じところまで引き摺り下ろしてやる!
 赤ん坊の隣で喘いで、赤ん坊が泣けば乳をやりながら突かれてるのを見て、心底気持ち悪いと思った。吐き気を堪えながらの行為は辛かった。
 辛かったが、安心した。
 やっぱりこいつが汚い。
 醜い。気持ち悪い。
 俺は悪くない。こいつが悪い。全部この女のせい。
 全て終わると叔母さんは、結婚して東京に越してきていると言い、またねと去っていった。
 おかしくってしょうがない。またね、だってさ。いいさ、別に付き合ってやるさ、可哀想な叔母さん。
 もうどうせ何もない。失って困るものなんて何も持ってない。もうどうでもいい。
 最初から手遅れなのだから。



 高校入学以来、久しぶりの赤点なしの試験結果をもらったと思えば、とっくに冬休みと年末年始がやってきた。年末年始は去年と同じように三十一日から三が日まで家に帰って篤志さん達と過ごすのだが、迎え入れてくれた彼らが叔母さんのことについて何も話さないことに内心では胸を撫で下ろしていた。
 たまに顔を出してはいるものの、リビングで一緒に食事をしたりであまり自分の部屋まで上がることがない。久しぶりに入った部屋は埃ひとつなく、綺麗に掃除されていて思わず口が綻む。持ってきた着替えなどを片付けていると、ノックが響いた。
「隼人くん、ちょっと話せるかい」
 篤志さんの声に返事をして扉を開けた。小さなテーブルを囲んで向かい合って座るが、緊張と罪悪感で顔がまともに見られなかった。
「一人暮らしももう二年近くなるけれど、不便はしてないかい。隼人くんの口座に入れてる生活費が全く減ってないのが逆に心配なんだが……」
「いやちゃんと仕事してるんで! 全然大丈夫です」
「うん。最近コマーシャルで観たよ。あの綺麗なマネージャーさんが挨拶に来た時は驚いたけれど、やりたいことが見つかってよかった」
 やりたいこと……ではないんだけれど。
 お世話になっているし感謝しているのに、後ろめたいことばかりで気まずさに首をさする。
 俺を引き取る時だってきっと色々と大変だったんだろうな。せっかく叔母さんから引き離してくれたのに。この人たちが悪かったわけじゃないけれど、全ては遅すぎた。守ってくれる人がいるのに俺はもうだめだ。
 そんなことを考えてたら急に叫び出したくなった。泣き出したくなった。
 でも俺は我慢する。
 何も見せられない。
「大学はそのまま上がるんだろう」
「はい、そのつもりです」
「校舎が前よりうちに近いみたいだけれど、一人暮らしは続けるかい」
「えっ?」
 てっきりずっとこのまま生活していくものだと思っていたので、驚いてずっと合わせられなかった目線を上げた。やっと目が合うと、篤志さんは柔和な目元をさらに下げて嬉しそうに笑った。
「また家で暮らしてもいいし、今のまま暮らしてもいい。少し考えておくといいよ」
 言葉が出ず、黙って頷く。篤志さんは急がないからねと声をかけて部屋を後にした。
 またここで暮らす、か。
 少しも考えていなかったが、自分の悪癖を考えればやはりありえない選択肢だった。生活を変えてみるのも悪くはないが、無理だ。ここに叔母さんを連れ込むのか、と自嘲する。
 窓の外を見た。
 遠くに玲児と通った中学校が、なんとなく見える気がする。視線を落とせば、いつも玲児が走っていた道がある。
 俺はここが好きだ。
 玲児との思い出があちらこちらに落ちている。
 でもここにいると辛かった。
 玲児が恋しい。
 玲児に会いたい。
 窓枠に凭れて、一人声を押し殺して泣いた。
 もうずっと自分はここから身動きが取れない。沼に足を取られたまま、ずっと動けない。
 玲児に会いたい。



 夜になり、少し豪華な食卓に年越しそばを食べ、年末特番も終盤に差し掛かる頃には篤志さんは酔っ払って寝てしまっていた。美穂さんが仕方ないわねぇ、と声をかけて布団まで歩かせていくのを見ながら、穏やかな気持ちでいられている自分を感じる。
「もうこの人起きないわぁ。二人で初詣行ってきたら?」
「去年もそういえば二人で行ったな。今年も行くか」
 当然喜ぶものかと思ってダイニングテーブルで隣に座る麗奈に声をかけたが、もう少し遠慮しろよと思うほど顔を顰めて不満そうな顔をした。
「えー、やだぁ。今年は玉貴ちゃんと約束したもん」
「はぁ? お前、せっかくの年末に玲児から玉貴ちゃんとるなよ。可哀想だろ」
「なら隼人が誘えばいいじゃない」
 思わず普通に返してしまったら、麗奈は元々つんとした唇をさらに尖らせて不貞腐れてそう言った。上目遣いにこちらの様子を見ているが、どこまで知っているのやら。玲児にもう会うなという玉貴ちゃんの隣にいた癖にな。
 そっぽを向いて支度しよーっと去っていく麗奈の後に続いて、俺も二階に上がった。話がしたいことはこいつもわかっているようで、自分の部屋の前で立ち止まり、扉を背に寄りかかってこちらへ向き直った。
「玲児どうしてるか聞いてるか」
「通院はこれからも続けるけど、今のところ熱は出してないみたい」
「飯は?」
「あんまりだって……少しずつ三食は食べてくれてるって言ってたけど……」
「そうか……」
 少しはマシ、て状態が続いているのかな。この年末くらいは美味いもの食って過ごしてくれてるだろうか。
 黙って俯いていると、麗奈は俺の鼻を摘んでそのまま顔を上に向かせ、痛さに顔を歪ませるこちらを睨みつけてきた。
「なんだよ、痛てぇな、離せって」
 手を掴んで離させるが、睨んだ瞳は鋭く光ったままだ。
「そんなに気になるなら会いに行けばいいのに」
「無理だよ。玉貴ちゃんにも約束したろ」
「でも!」
「無理なんだよ……」
 煮え切らない俺にもういいと麗奈は部屋に入ってしまった。
 俺も部屋に入り、先日携帯電話を紛失したために買い換えたスマートフォンを手に取る。連絡することもないのでもういいのだが、玲児の連絡先は入っていない。
 会いたくて仕方ないけれど、会えるわけがない。たくさん傷つけた、一緒にいたらますます傷つけてしまう。それにもう玲児に顔向けなんでできない。叔母さんを抱いたこの身体でどうしろというのだ。
 また、窓の外を見る。日付があと十五分ほどで変わる真夜中であるが、ぽつぽつと人の歩く姿が見える。
 家族と、友人と、恋人と……それぞれが皆、寒い中で身を寄せ微笑み合い、幸せそうだった。
 近くの神社は例年参拝客が多く、長い階段の一番下、さらに道路まで人が並んでいた。甘酒を配り、少しの夜店も出て賑わっているのだ。
 連絡も取らずに都合よく会えるような場所ではない。
 しかし俺はコートを手に取り羽織った。まだ支度しているだろう麗奈よりも先に、美穂さんに声をかけて外へ出る。
 一本違う道に入ると、少し人の数が減る。久しぶりに歩く道。
 この間玲児を家まで送った時は家が増えているような気がしたが、暗い夜道では変化は感じられなかった。
 歩いて五分かかるその道を懐かしむ余裕はあまりなく、緊張して歩いていくと、二分ほどで電柱の近くに立つ人影を見つけた。
 夜の闇の中でそこだけまるでスポットライトを浴びているのかと錯覚するほど、きらきらと輝いて見えた。
 急ぎ足で駆け寄ると、目が合う。
 玲児は俺を見て、微笑んだ。
 
 
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