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闇夜の錦

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 産みの母親が遺した本は、恋愛小説や文章のリズムや流れを楽しむ日常もの、そして現代ファンタジーなど、優しい内容のものが多かった。
 叔母さんは来る度に行為後は眠ってしまうので、その間に赤ん坊の目が覚めてしまうと何とも奇妙な二人の時間を過ごすこととなる。抱き上げるのも慣れてきてしまい、抱っこして歩きながら本棚を眺める。
「お前、首しっかりしてきたな。なんだっけ。この間調べたんだよな。寝返りとかすんのか?」
 もちろん話しかけても返事はないのだが、なんとなく話しかけてしまう。絵本でもあればいいのだろうが、もちろんそんなものはない。
 代わりに、最近はめっきり読まなくなってしまい、上段に並べられた母の遺品である本を眺める。その中から一冊抜き取っていたら、本棚の空いているスペースの腕時計など小物を置いている場所に小さな手が伸びたので、慌ててその場から離れた。そこには先日もらった睡眠薬も置いてある。口にでも入れたら大変だ。
 赤ん坊を抱っこしながらベッドを背もたれに座布団の上に座る。するとふぎゃ、と顔をむず痒そうにするので本をテーブルに置いて背中を優しくとんとんと叩いてやった。
「泣ーくなって。んー? 泣くの? 泣くか? お前の母ちゃん起きちゃうだろ?」
 声をかけながらしばらくそうしてやっていたら、ずしりと重みが増した。寝たか。下ろすと起きそうだしこのままにしとこ。
 温かさと小さな寝息を感じながら、先程置いた本をまた手に取る。発行日を見ると、まだ俺が生まれる前のものだった。しかし本棚に並ぶ本の中には俺が生まれた後に出た本も少しだけあったので、もしかしたらこうして俺を抱きながら読んでいたのかもしれないなと思い、自然と口元が綻んだ。
 先日、初めて病院に行ってきた。
 学校と連携をとっている医師もいるらしいが、俺に合いそうという理由で加賀見個人から紹介してもらった進藤先生は、金髪に髭を生やしたサーファーみたいな四十代くらいの医者だった。なにやら加賀見の母親が世話になったらしく、古くから知っている信頼のできる人だと話していた。
 二時間近く時間をとってくれてあり、話したくないことは無理をせずにと言う前置きの元、様々な質問を受け、それに答えた。今の状況を話してから、それを少しずつ遡るように話していく中で実の母親の話にもなったのだ。
 何も記憶には残っていない、遺した本のことしかわからない。けれども進藤先生は、君は大事にされていたんじゃないかなぁと言った。
「覚えてないんで全然わかんないですけど、まぁそうだったら嬉しいですね」
 なんの感情もなく答えたが、それはもうバレバレでくはっと顔をくしゃっとして進藤先生は笑っていた。
「君、優しいもん。根が真面目だし。ちゃんと優しくしてもらうことも知ってたんだと思うけどねぇ」
「優しくも真面目でもないですよ。母親のことなんか覚えてないし……そんなもんですか?」
「そんなもん、そんなもん」
「進藤先生、適当だなぁ。診断書の文字もみみずみたいで汚ぇし」
 さらさらと流すように話すので生意気を言ってしまっても、くはっと楽しそうに笑うだけで相手にされない。しかしそんな風に軽く返しながらラフに話を聞いてくれるので、話す必要のない話までしてしまい聞くのが上手い人だなと思った。気づかないところで情報を引き出されていそうだ。
 ちなみにミミズみたいな文字なのは、わざと読みづらくするためらしい。心療内科の診断においては曖昧にしておいた方がいいこともある、のだとか。色んな言い分ができた方がいいし、読みづらくても効力はあるからと。和人さんに病院へ通うことを相談したら一応診断書をもらってきてと頼まれたのでそれを渡したが、何これ全然わかんないと文句を言われ、何となくこういうことかと笑ってしまった。全然わかんない、と言われたことに安心してしまったから。
 睡眠薬の副作用も特に今のところ出ておらず、こんなに楽に寝られるのかとそれだけで日々に余裕ができた。毎日毎日、寝不足の頭痛や眠れないことへの不安を感じることなく送る生活は思っていた以上に穏やかだった。
 しかしそれでもまだ、叔母さんとだけは関係が続いている。
 誘われれば断ることはせず、迎え入れ抱いた。叔母さん以外の女はもう抱いてない。けれどもこうして完全に性的関係を絶てていないことで、この関係を終わらせたらまた眠れなくなる可能性もあるのだろうかという不安が拭いきれないでいた。
 本のページをめくる。
 母が遺した本の中で……いや、今まで読んだ本の中でもこれほど繰り返し読んだものはない。それは少年が母親に会いに行く話で、道中なにかあっても優しい人たちに助けられ進んでいく。小さな頃にこれを何度も読んだ。俺にはもう会いに行く母親はいないのに。 母親に会いに行く、と言うのはイコール死でしかない。
 けふ、と肩に息がかかる。みるく臭い。
 母親の遺書からして俺も道連れにするような内容だったと聞いているが、なぜ俺は生きているんだろうかと不思議に思っていた。一緒に連れて行ってくれればよかったのに。殺されていれば、なんて思ったこともあった。
 けれど、今はできなかったのではないかと思う。どうしても、できなかったのではないかと。
 少しむずむずと手足が動き出したので、赤ん坊の背をさすってやる。小さくてあたたかくて柔らかい。
 その温もりを感じながら、自然と子守唄を口ずさんでいた。
 叔母さんがこの歌を歌っているのは聞いたことがない。それなのに、こいつに歌ってやろうとするといつもこのメロディーが浮かぶ。
 
 ゆりかごのゆめに
 きいろいつきが かかるよ
 ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

 


 朝、ようやく明るくなりはじめた空を見ながら頬に刺さるような寒さを感じる。コンクリートで固められた駐車場と道路の隙間から見える土に霜ができているのを横目で見送りながら、自宅の門の前で待っていた玲児に手を振った。
 三学期が始まってからは週末は実家に戻り、月曜だけは実家から玲児と一緒に登校してしている。
「今日一段と寒くね? 早くあったかくなんねぇかな」
「むぅ……本当にな……手袋が手放せぬ」
「あ、手袋といえば」
 ん、とリュックから紺色のギフトバッグにゴールドのリボンでラッピングされた包みを渡す。そんな大層なものではないからきちんと包装されているのが照れくさいくらいだ。玲児はそれを受け取りながらいつもの眉間のシワをますます寄せた。
「俺の誕生日は四月なのだが」
「知ってるよ。じゃなくて、手袋してるとスマホが使えんって言ってたから。使えるやつ」
「む! そんなのがあったのか」
 いや色んな店にめちゃくちゃ売ってるじゃん、とツッコミたいところだったが、そわそわと俺とプレゼントを交互に見るのが可愛いのでからかうのはやめておいた。
「こんな歩きながら中を見るのは良くないだろうか……早く見たいぞ」
「誰もいないし別にいいんじゃね? カバン持っててやるよ」
 肩掛けのスクールバッグを受け取ると、玲児は早速リボンタイを外し、中身を取り出す。
 玲児の代わりに前を見て歩かなければと思いつつ、ちらちらと反応を気にしてしまう。紺色の雪の結晶柄の中に小さくペンギンの絵が添えられたデザインの手袋を見て、星が瞬くように玲児の目が煌めく。ああ良かった喜んでると思ったが、しかし次の瞬間には眉が八の字に下がり困った顔をして俺を見上げた。
「俺には……可愛すぎないか?」
「へ? なんで?」
「いや、嬉しいのだが……似合うだろうか」
「似合うよ、つけてみ?」
 スクールバッグだけでなく包装もつけていた手袋も渡してもらい勧めれば、少し戸惑いながらも玲児はプレゼントした手袋をはめた。本人は可愛すぎると言っていたが、シンプルだし何も問題ないと思うのだが。というかちゃんと似合ってる。
「どうだ?」
 不安そうに両手を顔のあたりまで上げて見せるので、笑って頷いてやる。
「いいじゃん、似合ってる」
「そうか?」
「そのデザイン好きじゃなかったら仕方ねぇけど……でも玲児、ちょっと可愛いやつ好きだと思ってたんだけどな」 
「む?! な、な、なぜだ!」
 別になんの気なしに言ったので、焦って顔を真っ赤にする玲児に逆に驚いて、一瞬口を閉ざしてしまった。すると玲児はハッと目を開いてますます顔を赤くする。元々寒さで鼻の頭がちょっと赤かったというのに、頬まで真っ赤だ。
「この間スマホケースとかストラップとか見てても、ちょっと可愛いやつ見てはやめてたじゃん」
「ば、バレていたのか……」
「気にしてんの? 別にいいじゃん、そんくらい。好きなもん持てよ」
「む、むぅ……」
 住宅街から大きな道路沿いに出て人が増え始めた。玲児は道行く人々を見て、手袋を見て、むず痒そうな顔をして頷いた。
「もらっていいのか?」
「もちろん」
「礼を言わねばな……ありがとう。その……ペンギンは好きだ」
「うん」
 マフラーに顔を埋めて赤い頬を隠しながら礼を言う姿に、俺の方が嬉しくなってしまう。マフラーを掴む手に浮かぶペンギンを見て思わずニヤけてしまった。
 玲児ってモノトーンのものしか使ってるの見たことないけど、こういうのも嫌いじゃないんだろうな。きっと抵抗があるのだろうから、たまにプレゼントしてやろう。それで何も気にせず好きな物を選べるようになればいい。
 駅について電車を待っていると、早速スマホを使って操作ができると喜ぶ姿にほっこりしていたら、手首に包帯が巻かれているのがちらりと見えた。あれ、と思い指摘する。
「なぁ、それ随分前に腱鞘炎って言ってたやつ? まだ治らねぇの?」
 確か正月明けに大掃除で痛めたと言っていた。それにしては長いような気がする。
 玲児は俺の指摘を受け、喜んでスイスイとスワイプしていた指の動きをぴたりと止めた。
「む……そう、だな。まだ痛む」
 画面に目を向けたまま返事をし、あんなに楽しそうにしていたのにそのままスマートフォンをポケットにしまって黙り込んでしまった。そして手首をぎゅっと握りしめる。
 玲児は最近、よく手首を握りしめる。しかも決まって深刻な顔をしている。絶対になにかあるに違いないので、今は落ち着かないし昼休みにでも詳しく聞いてみようと電車に乗った。 
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