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闇夜の錦

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 ゴールデンウィークに入ったら暫く実家にいるため、引越しの荷物を減らすのも兼ねて持っていく服や処分する服を休みに入る前に整理することにした。
 そんなに物はないと思っていたが服だけはめちゃくちゃ多い。アルバイトしていたブランドの服が大量にある。いいものだし捨てるのは勿体ないので試しにフリマサイトに出してみたら、貴重なサイズのためか思わぬ需要があり予想外にサクサクと売れてしまった。しかしその手続きややり取りがなかなか面倒くさくてかなり時間を取られてしまう。金になるから仕方ないと自分に言い聞かせながらなんとか梱包作業を進めた。
 発送する分を四つ包み終えたところで、玄関のチャイムが鳴る。特に荷物などが来る予定もないし、今うちにいきなり訪ねてくるような人間はいない。麗奈も俺が実家に入り浸るようになってからは来なくなった。
 もう一度チャイムが鳴り、嫌な予感がしてスマートフォンを確認する。
 やはり叔母さんから何回も着信がきていた。
 玲児と再会できてからずっと連絡が来ても無視していた。もう会いたくなかった。電話も何回もくるので、一昨日やっと勇気を出して着信拒否設定をした所だ。これでもう俺が会いたがっていないのは伝わるだろうし、このまま終わることを切に願っていた。でもそんなに簡単に終わるわけがないのではないかとも予感していた。
 ドアを叩く音が響く。
 ドンドンドンドン!
 廊下が揺れる。
 いるのはわかってるのよとヒステリックな声が頭痛を引き起こした。
 このままでは近所迷惑だなと嫌々ながら扉を開け、俺は驚愕する。叔母さんの腕に抱かれた赤ん坊が最後に会った時と全然違かった。
 連絡を無視していたとはいえ最後に会ってから一ヶ月半くらいしかたっていない。
 けれど背中までしっかり支えてふらふらと座っているという感じだった赤ん坊は、腰を軽く支えられただけでしっかりと縦に抱かれており俺を見ると体をぐっとひねって手を伸ばしてきた。その顔も前よりもハッキリと俺自身を捉えて見ているのだ。
「なんでいくら連絡しても出ないのよ! 着巨したでしょ?!」
 話しかけられてやっと叔母さんに目を向ければ、甘い顔立ちを不気味に吊り上げ完全にお怒りだった。
 とりあえず中に入ってもらうが、その間もずっとくどくどと文句を垂れている。つらい育児の癒しがないだとか、子が動き出して何もできないだとか、旦那は忙しいから何もしてくれないだとか。どれも知るかよってことばかり。真面目に音を言葉として耳に入れないようにしながらコーヒーを入れてやれば授乳しているのにとさらに怒られてしまった。
 こうなるとなかなか止まらないのでなんとなく相槌と謝罪の言葉を述べながら、意識は赤ん坊に向いていた。クッションに転がしていたら勝手に座り、両手を前に出して尻をずりずりと引き摺りながらもちゃんと前へ進んでいる。
 こんな短期間で全く違う生き物になってる。
 玲児はあのまんまなのに。
 玲児がもしも戻らなかったら、ずっと成長することもなくあのままなのだろうか。
「ねぇ聞いてるの? ねぇってば!」
「ん? ごめん、聞いてる」
「本当いつもぼーっとしてるわよね。顔以外になんの取り柄もない。つまんない子」
 今度は俺の悪口か。この人は何か文句言ってないと気が済まないのだろうか。あなたの前でいつもぼーっとしてるのは話をまともに聞いてるとこっちが辛くなるからだ。
「ちょっと待ってなにこれ。部屋片付けてるの?ただでさえつまんない部屋だったのになんもないじゃない」
 叔母さんの向かいに座る俺の膝に赤ん坊が触れる。目が合うとヨダレを垂らしてニコニコ笑ってやがる。
「篤志さん家に戻るんだ。だからもうここに来ても俺はいないよ」
「はぁ?! なんで勝手に……」
「これって不倫だろ? もうやめたい。叔母さんにはもう、一生会わない」
 言葉を失い暫く瞬きもせずに俺を見ていたこの人は、いきなり立ち上がってまた俺を罵り始めた。
 でも断片的にでも聞いていればそれは俺への恨みつらみではなくほとんど父親に対するものだった。
 この人一生こうなのだろうか。復讐のために俺を引き取って虐待して(ずっと虐待されていたというのに抵抗があったが、最近になってやっと自分は虐待されていたのだときちんと理解できるようになった)。せっかく再婚して幸せになったのにわざわざ俺の前にまた現れて。まだ俺の父親に怒ってる。
 叔母さんはひとしきり怒鳴りつけてすっきりしたのか疲れたのか、急に黙り込んだ。そして何も反応を返さない俺をじっと見つめて急に笑顔を作る。
「ごめんね。叔母さんずっと辛いの」
 ゾッとする。罵られてじっと嵐が過ぎるのを待っている方がずっとマシだ。
 近づいてきた彼女は俺の膝に乗り首に腕を絡ませてきた。手が身体を這いながら下がっていく。
「やだ、叔母さん、やめて」
 俺よりずっと小さいこの人にどうして俺は歯向かえないのだろう。再会してから何度も組み敷いていたのに上に乗られると震えが止まらない。
 俺も抜け出せない。全てが上手くいってるのに、ここからだけ抜け出せない。
  
 ベットで叔母さんが眠りにつくのを確認してからゆっくり立ち上がり、洗面台に行って顔を洗った。鏡を見たら唇の端に吸われた痕が残っており、気持ち悪くて何度も手の甲でそこを擦り付けた。首筋にもある。週末の撮影までに消えるだろうか。ドーランで消せるだろうがあまりにみっともない。
 幼少期のトラウマというのはここまで根強いものなのだろうか。いつまで追われるのだろうか。終わりはいつかくるのだろうか。
 今は頼れる人がたくさんいる。けれどこんなこと言えるか? 叔母さんに逆らえないって。こんな小柄な女性に襲われたって誰が信じる?
 無理やりあんなことしてしておいて、よくもそんなにぐっすり眠れるものだ。俺に刺されるとか考えないのだろうか。舐め腐ってやがる。
 そうだよな。俺の方が力が強いんだ。どうにでもなるはずなんだ。
 もうすぐ誕生日がきて十八歳になる。今のうちに刺してしまった方がいいんじゃないか?
 洗面台から廊下へ顔を出せば、水切りラックに置きっぱなしになった洗い物の中にシェフナイフが残っていた。
 部屋に目を向ける。
 叔母さんはベッドで、そして赤ん坊は行為の途中から床に置いてあるクッションの上で眠っていた。
 おばさんを刺したらあの子はどうしようかと思いながらシェフナイフを手に取り、料理する時とは違い、刃を下に向けて柄をぎゅっと握り直す。
 足音を立てないようにベッドへ近づき、上に乗って叔母さんの腹の下あたりを跨ぐ。
 右手で握っていた柄を両手で握り直し、落とさないように力を込める。ヒューヒューと自分の呼吸音がうるさい。
 いやだめだろ。
 何やってるんだよ。
 こんなことしたらもう玲児に会いに行けなくなるだろ。
 でも、でも。
 俺、この人に一生脅えて生きるのか。
 気持ち悪い、ずっと気持ち悪い自分のまま。
 玲児に後ろめたい気持ちのまま。
 それに玲児はいつ戻ってくるんだよ。
 ヒューッと漏れていた呼吸がはーっ、はーっと全力疾走した後のようになる。
 俺は思い切り、今までの全てを込めてナイフを振り下ろした。
 軽い感触と共に、叔母さんと目が合った。刃を抜くと一緒に羽が舞った。
 また振り上げ、刺しこむ。何度も何度も何度も何度も。その度に羽が舞って俺の周りをふわふわと遊んでから叔母さんの上に、床に、赤ん坊の上に舞い落ちていった。
 ナイフを振り落とすだけで大した運動量でもないが汗だくになって、汗で滑り落ちるようにナイフは俺の手の中から抜けていった。音もなくベッドの上に落ちる。
 恐怖で顔を歪める叔母さんの顔の横で、枕やマットレスは切り刻まれ中身が露出し、叔母さんの長い髪の毛は向かって右側だけ短くなってしまっていた。ベッドに切れた長い髪の毛が散らばっている。
「叔母さん……子守唄歌って」
 極限まで熱をもった頭でそんなことを呟いていた。
 叔母さんが震えた掠れ声でたどたどしく歌ったそれはやっぱり知らない歌だった。
「なんで俺にはその歌を歌ってくれなかったの? あいつには歌ってたじゃん」
 赤ん坊を指差すと、叔母さんはカクカクとした不自然な動きで首を横に振った。
「あなたは……私の子じゃないもの。姉さんとあの人の……あの人に、本当によく似てる……」
 出たよ、何があの人だ。お前もいつまで過去に縛られてるんだよ。
 いつも俺を見てるようで見ていない。この人は俺の父親というやつを、ずっとずっと追い求めてる。俺にはなんにも関係ないのに。
「絶対に愛せないくせに自分の親が死んだことも理解できねぇガキ引きとんなよ! あんたのせいで俺の人生台無しだ! ふざけんなよ! ふざけんなよっ!」
「わ、私だってあなたのお父さんのせいで……っ」
「知らねぇよ! 俺のせいじゃねぇよ! なんのことだかさっぱりだ!」
 頭が痛い。あんまり血が上って血管が切れてしまいそうだった。
 ぐらぐらする頭を抑え、乱れた息を整える。
「俺の顔……雑誌やらで見る度に辛かったって?」
 固唾を飲み込み頷くのを見て、俺は再び落ちていたナイフを握り叔母さんの顔の横にぶっ刺した。来た時はあんなにうるさかったのにここまでしても短い悲鳴を漏らすだけだ。ナイフは抜かずに刺したまま、柄から手を離す。
「遠くから一生見せてやるよ。一生忘れんなよ。お前の人生台無しにして、お前が人生台無しにした男の顔、ずっと拝ましてやるよ!」
 そう怒鳴りつけた途端、力が抜けてベッドからゆらりと落ちるように床へ降りて膝をつき、そのまま動けなくなった。重力でも変わったかのように肩が重い。
「出てけよ。もう二度と俺の前に現れんな。次は絶対に刺してやる……」
 力のない声では脅すほどの迫力などなかったかもしれないが、叔母さんは乱れた衣服を直し、髪はざんばらに切れてぼさぼさのまま、赤ん坊抱えてさっさと出ていった。
 座り込んだまま動けない。別になんにもすっきりなんかしなかった。本当にこれで一生会わなくて済むという安堵感がある訳でもない。あの人頭おかしいからここまでしてもひょっこりまた出てくるんじゃないかとすら思う。
 それでもただ、少しだけ。
 少しぐらいはあの日の自分が救われたような気がしていた。
 
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