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本編
05 春の酔い ⑤
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なんだかおいしそうな匂いがして目が覚めた。
「ようやく起きたか」
時任が背を向けて洗い物をしたまま声を掛けてくる。
時計を見ると十八時過ぎ。春休みとはいえ、完全に昼夜逆転している。まずい。
ゆっくり振り向いた時任と目が合う。ついにイカされてしまったことを思い出し、なんだか落ち着かない。
「美羽、何、照れてんの」
「照れてない」
「ふうん」
時任のにやにやした顔が、すごくむかつく。こういう時こそ忖度しろよ。
「やっとわかった」
「何が」
「最初に諦めた、一番したかったセックスをすればよかったって」
一番したかった? よくわからない。そんな珍しい体位してない、というか、単なる正常位だった気がする。正常位、何度もしたことあるのに。
「これからは、毎回気持ちよくしてやるから」
西日が時任を照らしている。初めて関係を持った翌朝を思い出すけど、その目に涙はない。時任はやわらかい笑みを浮かべている。天使のように無垢な笑みではなく、苦さと痛みを知っている生身の男の人の笑み。
「片づけ終わったら、ビール買いに行こう。美羽の好きなやつ」
「時任に作ってもらったし、片づけとくから、買ってきて」
「散歩がてら、一緒に行きたい」
「日が暮れる前に行った方がいいんじゃない?」
「今くらいの時季は、日暮れの後がいいんだよ。春宵一刻値千金っていうだろ。散歩にぴったりだ」
忖度といい、そんなに漢文が好きか。そして、散歩に行きたがるところが、本人の申告通り犬っぽいかもしれない。
結局二人で片づけを終え、コンビニへビールを買いに行くことにした。日はもうとっぷり暮れている。
確かに、この時間はいいかもしれない。少しひんやりした風が、花の香りを運んでくる。甘く、清らかで、澄んだ匂い。空を眺めると、月がおぼろで、なんだか不思議な世界に紛れ込んでしまいそうに錯覚する。
そんなことを考えていると、時任が私の手を取り、ゆっくり指を絡めてきた。
「なんで、手?」
「夜の闇に溶けて、消えそうだから」
意味がわからない。人はそんなに簡単に消えないだろう。私の部屋に転がり込んできたのは時任の方だし、むしろ消えるならそっちだ。こっちは動けない。
「美羽、お前、野良猫みたいだな」
「野良猫」
「きまぐれで、何考えてるかも、いついなくなるかも、わかんなくて」
私達の関係は、真夏の灼熱のように激しく運命的なものでも、穏やかな晩秋のようにゆっくり丁寧に育んでいるものでも、極寒の真冬に互いの体温を奪うように身を寄せ合うものでも、ない。
たぶん、春に酔ったのだ。ぼんやり、ふわふわと、心地よくなったところで、ちょうど側に時任がいた。本当にそれだけだ。でも、そのちょうどいい感じは、意外とない。このまま気持ちよく酔い続けるのも悪くない。
とりあえず、春の宵を一緒に過ごしてやろう。二度あることは三度あるというし、もし時任がまた夜明けに涙を流しても、側にいることができるから。
そっと手を握り返してやると、時任はやっぱり少し情けない顔で笑った。
「ようやく起きたか」
時任が背を向けて洗い物をしたまま声を掛けてくる。
時計を見ると十八時過ぎ。春休みとはいえ、完全に昼夜逆転している。まずい。
ゆっくり振り向いた時任と目が合う。ついにイカされてしまったことを思い出し、なんだか落ち着かない。
「美羽、何、照れてんの」
「照れてない」
「ふうん」
時任のにやにやした顔が、すごくむかつく。こういう時こそ忖度しろよ。
「やっとわかった」
「何が」
「最初に諦めた、一番したかったセックスをすればよかったって」
一番したかった? よくわからない。そんな珍しい体位してない、というか、単なる正常位だった気がする。正常位、何度もしたことあるのに。
「これからは、毎回気持ちよくしてやるから」
西日が時任を照らしている。初めて関係を持った翌朝を思い出すけど、その目に涙はない。時任はやわらかい笑みを浮かべている。天使のように無垢な笑みではなく、苦さと痛みを知っている生身の男の人の笑み。
「片づけ終わったら、ビール買いに行こう。美羽の好きなやつ」
「時任に作ってもらったし、片づけとくから、買ってきて」
「散歩がてら、一緒に行きたい」
「日が暮れる前に行った方がいいんじゃない?」
「今くらいの時季は、日暮れの後がいいんだよ。春宵一刻値千金っていうだろ。散歩にぴったりだ」
忖度といい、そんなに漢文が好きか。そして、散歩に行きたがるところが、本人の申告通り犬っぽいかもしれない。
結局二人で片づけを終え、コンビニへビールを買いに行くことにした。日はもうとっぷり暮れている。
確かに、この時間はいいかもしれない。少しひんやりした風が、花の香りを運んでくる。甘く、清らかで、澄んだ匂い。空を眺めると、月がおぼろで、なんだか不思議な世界に紛れ込んでしまいそうに錯覚する。
そんなことを考えていると、時任が私の手を取り、ゆっくり指を絡めてきた。
「なんで、手?」
「夜の闇に溶けて、消えそうだから」
意味がわからない。人はそんなに簡単に消えないだろう。私の部屋に転がり込んできたのは時任の方だし、むしろ消えるならそっちだ。こっちは動けない。
「美羽、お前、野良猫みたいだな」
「野良猫」
「きまぐれで、何考えてるかも、いついなくなるかも、わかんなくて」
私達の関係は、真夏の灼熱のように激しく運命的なものでも、穏やかな晩秋のようにゆっくり丁寧に育んでいるものでも、極寒の真冬に互いの体温を奪うように身を寄せ合うものでも、ない。
たぶん、春に酔ったのだ。ぼんやり、ふわふわと、心地よくなったところで、ちょうど側に時任がいた。本当にそれだけだ。でも、そのちょうどいい感じは、意外とない。このまま気持ちよく酔い続けるのも悪くない。
とりあえず、春の宵を一緒に過ごしてやろう。二度あることは三度あるというし、もし時任がまた夜明けに涙を流しても、側にいることができるから。
そっと手を握り返してやると、時任はやっぱり少し情けない顔で笑った。
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