最終的には球体になる

ゆれ

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「誰にも言うなよ」
「はい」
「うち姉が三人いるんだけど、やつらに思春期にからかわれて無理っつうか、若干トラウマになってな……」
「それは……」

 思ったより根が深いというか可哀想な感じだった。入谷が悪いわけでもない。唯織は幸か不幸か同性のきょうだいしかいないが、友人などは兄や弟がいるので家の中で薄着したくてもできないと嘆いていた。無頓着なタイプと神経質なタイプがいるらしいけれど、後者は圧倒的に損をする。

「まあ、思ったより気にならないというかあんま見てなかったし、憶えてなかったのかもしれないけど、俺が考えてたのはその前とか後のことで、なんかいろいろ変なこと言ってたなあとか、たぶん、幸せな恋愛してこなかったんだろうな、とか」
「!」

 図星を指されてつい、唯織の足が止まる。草履の底が敷石の上の砂利を踏んでかすかに鳴った。
 反応して首を返した入谷がくちびるだけでごめんと言った。いいえ、ひどいことをしたのはあなたじゃない。そう返したいのに嵐のような羞恥でそんな余裕もなかった。唯織は思わず手を振りほどいて顔を覆った。

「あの朝いつ高頭さんが出てったのかも気づかなかったし、最後がそんな別れ方でいいっていうのも正直びっくりして、あんまり潔すぎてほんとは俺を好きとかじゃなくて一遍寝てみたかっただけだったんじゃねえかと思ってた。で、目的果たして今頃もう、あっさり幸せになってんのかと思ったら腹が立って、さっさと忘れようとしたけど忘れられなくて」

 気が付いたら、実家調べて車乗ってた。

 すこしだけ熱の引いてきた顔を恐る恐る上げると、入谷がゆるりとほほ笑んでいた。きらきらと光が粒になってそこだけ輝いて見える。特別なひと。ずっと、身体が熱に浮かされていたとしてもあの告白に偽りはない。今も、すきですきで仕方ない。
 起きている状態で別れることがどうしても出来ずに、入谷の寝顔を眺めたあと結局ありがとうございましたと書き置きだけ残して去らざるを得なかった。いざとなるとあんなにも惜しがった自分に嫌気がさして、でもおなじだけどこか誇らしかった。

「俺は高頭さんのことが好きなんだと思う」
「――っ……」

 おなじ勘違いをしていたからあの反応か。顧みればなるほどこっちも充分ヤリモクめいていた。何度もかぶりを振る唯織を、優しい目はひたと見据えてつなげる。

「……それで、もし、きみが厭じゃなければ、最初からやり直さないか」
「最初から?」
「ああ」

 つき合い始めるところから。
 願ったり叶ったりの提案に、しかし一も二もなく頷く気になれないのは現在進行形で人目を惹きまくっている入谷の容姿というか存在の所為なのだが、心なしか選択肢がひとつしかないような気がする。「わたしやきもち焼きですよ」と申告してみても、「どうぞ?」と不敵に笑まれただけで済まされてしまった。

 現実的なことを考えると、今日縁談がご破算になってしまって、それで諦める栞奈ではないだろう。仲居としても修業を積まなければならないし、もしまた東京に戻るのなら、まずは彼女を説得しなければ。

(でも)

 好きなものは好きだ。どうしようもない。だからあんな博打に出てしまったのだ、しかも激しく幻滅されて、というほどそもそも好印象もなく、さっと散って終わる筈だった恋。
 唯織がくしゃくしゃに丸めて捨てたそれを入谷は、わざわざ拾って、たいせつに皺を伸ばしてとっておいてくれた。

「入谷さん、変です」
「……マジで高頭さんにいわれたくねーんだけど」

 そんなの初めて言われたし、とくちをへの字にする。子どもみたいに拗ねている。ひとつひとつは些細な変化なのかもしれないが、そこににじむ感情の色に敏感になれるのは肌を重ねたからだろうか。

 春の陽が足元にまつわりつく影の角度をゆっくりと変えていく。明日もまた会えないことの苦しみは、今日会わなければ知らずに済んだのにと思う。潔いなんて言うけれどそれは、自分が置いていく側だったからだと痛感した。今度はこうして、入谷を送り出さなければならない立場で、本当に関係を続けていけるのかという不安よりもまず離れ離れになる寂しさにちぎれそうだった。

 毎日こんな思いをしていたら気が変になる。でもそれを、選び取ろうとしている。すくなくても入谷は。

「だめ?」
 などと可愛いことを言って、首なんて傾げて、大の男が。という発想自体がもうない。だってこれは好きな人といういきものなのだ。

「だめじゃない! です! けど!」
「うお、」

 いきなり、がっしと抱きついてぎゅーっと腕で締めつけた唯織に頭の上から驚いた声が降ってくる。もういっか~では諸々済まない。あの夜じゃないのだ。胸の痛みは解消されたわけではない。

 頭が悪いからどうしていいかわからなかった。入谷が言うなら、それに任せればいいんだろうか。衆人環境で、どこからどう見ても見合い仕様で男性にしがみついている唯織を、如何にも気難しそうな和服を着慣れた感じの女性が非難の眼でじろじろ見て通り過ぎる。羨ましかろう。フンと鼻で笑ってやった。つれの女性はそんな彼女の態度を申し訳なく感じているのか眉を下げている。
 
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