最終的には球体になる

ゆれ

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 優しいコロンのラストノートと、すこしだけ煙草の。肌の匂いはもう忘れてしまった。忘れたいことは忘れられないのに、忘れたくないことは忘れてしまうなんて、なんて侭ならない。あの夜だって、自分がいろいろ変なことをしたのもバッチリ憶えていて、だからそんな唯織とつき合いたいなどと言い出した入谷はとても変だと思ったのだ。
 いつか笑い話になればいい。そこまで一緒にいられたら、そりゃもう最高だけれど。

「あ、唯織ちゃん、いたいた。そろそろ帰れって栞奈が……」
「おおおお義兄さん」
「……」

 身内に見られて恥ずかしくてつい、勢いよく突き飛ばしてしまっただけで他意はないのだが、入谷は恨めしそうに唯織をにらんでいる。視線が突き刺さる。
 しかし義兄は先程の老婦人の如く咎める気はさらさらないようで、むしろニマニマと、人の悪い笑みを湛えている。『会社の人』じゃないよね、と目が言っている。この夫婦はわりと中身が逆転していると折に触れ唯織は思っていた。姉のほうが男らしくて、義兄のほうがあまい。

 そろーっと入谷をみあげてみると、ちゃんと言え、というプレッシャーをひしひし感じた。でも言葉に出来るような確かな関係性は、果たして自分たちの間に存在しているんだろうか。彼氏? その言葉にあまりいい思い出はない。それにほんの数分前になったばかりだ。厚かましい気もする。

 ものすごく考えた。唯織は、生まれてこれまでの中で一番頭を使って、うんと考え抜いてからようやく、くちを開いた。

「わたしの好きなひとです」
「!」

 義兄が目をみひらいている。入谷のほうは、もう怖くて向けなかった。

 鳥がちいさく鳴き声を上げて飛びまわっている。これだけ広大で贅を尽くした庭だが桜は無くて、散ったあとが美しくないからかしらとぼんやり思った。そのかわり秋は燃えるような紅葉が有名だ。鹿威しが一帯に涼やかな音を響かせる。唯織以外にも、縁談で知り合ったらしき初々しい男女がちらほら庭を見て回っていた。
 たっぷりとした間の後、義兄は「そう」とだけいらえをしてふうっとほほ笑み、ちいさく頷いた。

「すごい男前だなあ。唯織ちゃんもしかしてメンクイ?」
「はは、分不相応デスヨネ……」
「そんなことはないけど、年上好みなんだね」
「えっそっあっそれはっ」

 話を引っ張られると、恥ずかしさがじわじわ襲い来ていっそ笑い飛ばすか、さらっと流してほしかった。歴代の彼氏は家族に会わせたことなどない。このたびも入谷は何故か一方的にやって来たけれど、一応初めて、会わせたことになる。
 既に接触はあったようだがこれがもし栞奈だったら、実の姉だったらキャーキャー喜ぶか感激の涙をだばだば流すか、ちょっとした騒ぎになっていただろう。彼女は姉でありながら母代わりでもあったので。

 会話の止んで天使の過る。何ともいえない沈黙に、ひびを入れたのは入谷だった。

「結婚を前提にお付き合いしたいと思っています」
「ふえっ」
「……今日がどういう日か、そもそもどういう目的で彼女がこちらへ帰ってきたかは知ってたんですが諦めきれずに追いかけてきてすみません。常識を欠いた行動だということは重々承知しています。ですが、どうか許していただけないでしょうか」
「……ち、違うんです。元はと言えばわたしが無理やり、むぐ」

 真実は入谷の手の平に吸い込まれる。んむーんむーと不平を発しても張り付いて離れず、あまりにも気安い様子に義兄は面食らっている。『経理の入谷さん』はきまぐれで、ふたたびかくれんぼしてしまったらしい。意外と乱暴なところがあって適当で、でもやっぱり優しい、地が出ている。

 よく考えなくても、もう会わないからという理由でセックスを迫ったという切っ掛けは口にするのも憚られる。我に返った唯織が首を縮め、入谷が「ばあか」と唱えるのを見守っていた義兄は、やわらかい笑顔のままだった。
 そっと時間を確認し、顔を上げて入谷に向き直る。

「とりあえずうちにいらっしゃいませんか。私だけでは判じかねる問題ですし、栞奈もきっと、あなたから直接さっきの言葉を聞きたがると思いますので」

 日帰りの予定であることを訊きだして、無理をしないよう念押ししてから、義兄は素早く姉にメッセージを飛ばしていた。「私は血のつながりがありませんから」などと他人行儀な文句で遠ざけられなかったことが思いの外嬉しくて、幸せで、ちょっとだけ泣けてくる。栞奈は本当にいい人を選んだ。初めから唯織は反対しなかったけれど、それでも。

 互いを尊重し、あたりまえのように寄り添う、姉夫婦のような結婚がしたい。欠けたところを補い合う、遠い昔に分かたれたという半身みたいな相手と。特別の中の特別。

「いい人だな」
「……そうでしょ」

 本人には届かないよう耳元に囁かれた賛辞に、何故か唯織が胸を張った。めぼしい財産などこれっぽっちも持ち合わせていないけれど家族だけは、いっとう素晴らしい人たちが集まったと自負している。
 義兄と唯織はタクシーで来たので、車だという入谷に乗せていってもらうことで話は決まった。駐車場へと向かう道すがら、当然のように指が結ばれていて、すこし後ろを歩いてくれている義兄に見られていたら爆発しそうだ。首から上がカッカしている。いまさらこのぐらいで何だと思うが、ある意味初心者の唯織には目のまわりそうな衝撃だった。

(夢かしら)

 手にいれてしまったという不安と闘えることは、幸せなのか不幸せなのかわからなかった。でも今は傍にいる。いちどとは言わない一人で泣き明かした夜を思えば、もう充分すぎるほど幸せだ。ぎゅっと手をにぎりこんでそう繰り返す。

「俺もまぜてくれよ」
「…………」
「だからその信じらんねえって面やめろ」

 嫌いだったら取り戻しにくるわけねえだろ。
 それは、それこそが、はぐらかし続けていた今日の目的なんだろうか。訊いてもいいかしら。悩む唯織を、呆れ顔でみつめる入谷は、けれどたぐる腕をつよくした。

 ふらふらと頼りないこいつを、この先ずっとつかまえておけるんだろうか。かれがおなじように思い悩んでいることを、彼女はまだ知らない。




 
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