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それから
04
嗅ぎ覚えのある匂いが鼻先を掠めていく。あまくて香ばしい、醤油のそれ。
「えっ……」
もしかして、と思いつつキッチンに立つ入谷の手元を覗こうとする。絶妙にガードされつつ「手、洗ってきな」促された。子どもっぽいことをしてしまったのに時間差で自分でもびっくりする。疲れと空腹で麻痺してたから。いつもこうじゃないもん。言い訳に忙しい。
ついでに服を脱いでネットに入れ、洗濯機に放り込む。料理に熱中している入谷は唯織など気にしていない。薄着でサッと横切り、寝室のクローゼットから部屋着を出してかぶった。
丁寧に配膳された食卓に着くとやっぱりだった。なんで、どうして。偶然、ではないのだと、入谷の表情を見てわかった。
ものすごく嬉しそうだ。
「……あの、すごくおいしそう」
「だろ。やっとうまくできた」
「食べてもいい?」
「もちろん。冷めないうちにどうぞ」
なめことかぼちゃの味噌汁に野菜の塩もみ、玉子豆腐、そして大皿にはさつま芋の甘辛豚肉巻き。唯織の好物ばかりだ。
軽めによそったご飯はかためで、いつもそうだがもう何も言うことはない。ただただ幸せ。食べているだけでそんな気持ちが伝わるのか入谷に笑われてしまっている。
「どうしたんですか、これ。急にすごい」
「うん、なんか……唯織ここんとこ元気なかったろ」
「え」
まじか。というかそれをいつ、どのタイミングで察したのかまるでわからなかった。唯織は日記をつけたりSNSをしたりと自分の日常を記録する習慣を持たない。こっそり見るなどして知るのは不可能なのだ。
「実はお義兄さんに料理習ってたんだ」
「はー……なるほど」
逢引の相手は女将ではなくその夫だったらしい。姉の料理は母のレシピだが、やはり女将業に追われるのもあり、いつからか義兄も食事をつくるようになって、そこから「じゃあ教えてあげるよ」と発展したのだという。
初めは唯織の好物を何か知らないか、尋ねてみるだけのつもりだった。元気づけてやりたいと思ってくれたのはシンプルに嬉しいし、きっと義兄もそう感じて、善意で申し出てくれたに違いない。一人じゃないって素晴らしい。噛み締めながら、美味しい豚肉巻きをしみじみと味わう。
黙っていたのは驚かせたかったからで、手の内を明かしたのでこれからは堂々と、たまに習いに行ってくると宣言されて笑った。もちろん反対する理由もない。唯織もいくらかは作るけれど、お世辞にも上手とは言い難い腕前で、何回やっても悪い意味でおなじような結果になるところからも絶望的に向いてないのだ。
料理は根本的に化学らしい。文系人間にはハードルが高いのかもなと思って納得する。
「でもわたし、入谷さんの簡単な手料理も好きですよ」
「悪かったな……」
「いえ本当に。時間遅いからちょうどいいんです」
今日は明日が休みなので、いつもよりは気持ちにも余裕があるけれど、普段は早く寝なければという考えが常にあり、どうしても食事を楽しむまでいかない。同僚たちも6時間の昼休憩に一番豪華な食事をとって夕食はすくなめ派の人は多かった。
だが唯織は入谷とともに暮らしていて、唯一向かい合ってご飯を食べられるのが夜だけだから。そしてかれが手ずから作ってくれるものだから、どんな献立だろうと有り難くいただいている。
「すみません、大したことじゃないんです。わたしこう見えて失敗とか引きずるタイプなんで、こっそり枕を濡らしててもそっとしておいてくれて大丈夫です」
「そうか……?」
「接客業って大変なんですよ~」
とくちを尖らせると、転職して客の応対をすることになった入谷も激しく同意してくれた。ちょっとした節税の相談はまだしも、えらいレベルの資産家などにも知り合ってしまうため、若くて色男の入谷は「本当にくれぐれも気を付けなさい」と有嶋先生に真顔で説かれているらしい。
唯織も変な客にあたったとか、姉と些細な喧嘩をしたくらいならともかく人間関係についてまでは、それも何もしてないのにいじめられているかもしれないなんて小学生じみた問題は、さすがに入谷に話さない。話せない。今回はそれが裏目に出たようだ。
今度からおくびにも出さぬよう精進しなければ、ではないのかもしれない。どうしても元気になれない時は、思い切って、入谷に甘えてもいいのかもしれない。解決策が自分の中にない場合も必ずある。たとえ一時的な手段だとしても、ずっとまいりっ放しでいるよりは余っ程精神状態的にはいい筈だった。
美味しい食事を楽しく終え、「後片付けやります!」立候補してシンクの前に立ち腕まくりをする。食器をひきあげてきた入谷が「絶対腹が濡れるから」と後ろからエプロンをかけてくれた。自慢じゃないが水難の相はある顔洗うの苦手女子日本代表。実家でもしょっちゅう栞奈を笑わせた。
これまでのヤリモク彼氏どもとは何から何まで違って、比べることすら憚られる。こんなに幸せになるための助走だったのなら、あの最悪な日々も必要な経験だと受け入れられる気がした。
「……入谷さん?」
紐を結んでくれた手が前に回ってきてするりと巻きつく。頭のてっぺんに入谷の顎がのる。
「どうしました?」
「なんか俺、航太くんに懐かれたみたいで」
そうなのだ。移動時間を含めても、料理を習って帰宅するにしてはずいぶん遅い。入谷は3時間近く唯織より早く終業するのだから、行きがけに買い物したとしても唯織の就寝時刻よりあとに戻るのは明らかに時間がかかりすぎている。
しかしそれを聞けば今度こそすべて腑に落ちた。寝かしつけに手間取り、ぐずぐずしていても、入谷の顔を見ると喜んで、疲れて、こてんと寝落ちるらしい。そんな有能な子守はどこにでも需要があるだろう。
「イケメンがわかるんですかねぇ」
うふふと笑いつつ、職場で見るかぎり男性より女性が好きなようなので、そう思われているのではと心の中で推測する。口に出すほど迂闊ではない。
なんせあのお姉ちゃんの息子なのだ。あのお義兄さんの子でもあるため中身もぎっしり詰まっている。職場でも大人気のとろとろの笑顔を思い浮かべて、さもありなんと頷く唯織をさらにぎゅっと入谷が抱きすくめる。
「入谷さん、わたしお皿洗うんで」
「……俺も子ども欲しくなった」
「えっ」
だから結婚しようっていうのは、だめ?
好きなひとに瞳を覗き込んでそう言われたら、返事なんて、ひとつしかない。
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