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しおりを挟む姿を見るかぎりは目も鼻も耳もなく、端のぽこっと丸みを帯びた白い頭らしきところに縁の青いくちが開いているだけ。狙われたら頭から呑まれてお終いとされているが、すこしでも疑えるものは全部潰しておきたい。その執念がこれを引き寄せたようだ。
「朱炎?」
「――お前は先戻ってろ」
「オイまさか」
野槌にしてはあまりにも体がでかいので本来ならもっと鈍かったのだろうが皮肉なことに山津波が通って一帯が拓けてしまった。不審な物音の正体がざあっと土くれを撒き散らしながら頭を擡げたのに気づくや否や、幸良は瞬時に狼をかかえて斥力を放出する。でかぶつは目に見えない力に弾かれて地面に激しくのたうった。少年はそのまま木立を足場に距離を取り様子を窺う。
「先生、だいじょぶー?」
「問題ないよ」
とは呼び返したが如何せん敵が大きい。すこしうずくまっただけで山のように感じられる。しかも既に退けるのは難しく、冷静に弱点を見抜かなければ倒せないのに、ヘドロのような臭いがして思考力をかき乱されるのだ。
恐らくは表には見えない何か他の器官で狼の血の匂いを嗅ぎつけて姿を現したのだろう。声が聞こえるかどうかも不明だが言葉の通じる相手とは思えない。体に触れると死ぬとも言われているか。来良に教わった時、もっとちゃんと憶えておけばよかったと幸良は溜め息を伸ばした。
この狼を犠牲にしたところで然して時間稼ぎにもなるまい。それに出くわしてしまった以上、腹におさめるまで追われるのは必至なのだから無意味な殺生はしないにかぎる。噛んで攻撃するのもあの大野槌より狼のダメージになってしまうだろう。斥力が効いたのでこいつは俺らの客だ。
「いいか、あれはお前の敵う相手じゃない。ここは俺らに任せて上に行くんだ。できるだけ遠くに離れるまでは下におりちゃダメ。仲間と合流しても山の上のほうに向かえよ。もう戻ってきちゃダメだ。わかったな」
幸良は持っていた水で狼の血を洗い落としてやり、指で一生懸命示して言い聞かせる。傾斜を借りてくだるより這い上がるほうが野槌は苦手なのだ。説得を聞き入れたかは謎だが、促すと教えた通りに斜面をのぼっていく。途中何度もこちらを振り返った。気にするなというように合図を送り、獣の姿が無事森にとけこむのを確認してから幸良は五六八の鍔を跳ね上げ、居待月のもとへ移動しようとして、急に強烈な眩暈を感じてその場に倒れた。
「……れ、なんで……」
「幸良くん!」
この状況で何故と思ったが、逆だ。この大野槌の力だろう。狼を逃がすために上へ移動していなければ次の獲物になっていた。つまりは居待月も同様の危機に晒されていることになる。もう気絶からも醒める。一時的に動きを止めていた黒い体が、もぞもぞと活動を再開し始めるのにごくりと喉が鳴る。
居待月は体術に波動の力をのせて戦う。この方法では触れずに戦闘はできず、かなり不利な状況と言わざるを得なかった。それに幸良の容体も気になる。連れて一旦退避することは可能か、考える暇など与えぬとばかりにぽっかりと開いた青い唇が迫ってくる。
「――やだぁ、僕こんなキモい奴に食われたくなぁ~い」
「こいつにも選ぶ権利あるんじゃないか?」
「!」
大きな岩が突然空から降ってきたと思うと野槌の胴にズンと落下した。同時に辺りがじわじわと靄に覆われ始めて、それでも見失うことなくもがいて暴れているあやかしに対峙し、新良が拘束の呪文を詠唱する。居待月はいつの間にか傍にいた黄麻に支えられて少年の背中を見守る。
「黄麻、無事だったんだね」
「お前に心配されたくないんだけどぉ」
「幸良くんが、そちらに」
「じゃあ、ちゃっちゃとやっつけちゃうか、」
「さがってください」
艶やかな声と共に黒い耳と八つの尾を生やした闇色の妖狐がゆらりと出現する。彼が最前線にいた新良ごと三人を押しやったすれすれの間で、中空から青白い鉤爪のような閃光がズバッと走り抜ける。瞬きほどの長さもかからなかったかもしれない。
靄が晴れて周囲が鮮明になると、大野槌は胴にかけられた重石ごと真っ二つに裂かれ、その腸を夜空に曝していた。もはや事切れて、黒くささくれ立った巨体はほろほろと崩れ始めている。跡形もなく消え去るのは時間の問題だ。
「う、うそでしょ……」
「今の……」
一同がまだ事態をよく呑み込めないでいると、おなじく白装束の、こちらは耳や尾まで真っ白い美しいあやかしが降りてくる。着地の動作はあくまでやわらかく、ほんのすぐそこから飛び降りたように軽やかだった。鋭い爪をぺろぺろと舐めて清めていたが、突如秀麗な美貌を引き歪めて大きく舌打ちする。
「ハズレだわ」
「そうか」
冬青がかるく肩を聳やかせる。或いはこのでかぶつの腹の中に淡桃が呑まれているのではと一縷の望みをかけ捜していたのだけれど、徒労に終わって朱炎はすこぶる機嫌が悪かった。不愉快な臭いも立ち込めている。さっさと社に戻って今度こそ来良を叩き起こそう。何事もなかったかのように去りかけて、ごく弱い術が自分にかけられているのを覚った。
半ば首を返せばどこかで見たような顔の少年が印を結んでこちらを見据えている。弟のひとりだとすぐにわかる容姿だった。造作もだが身に着けている物が何となく似ている。
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