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4.お姫様は間違えない
助けて
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終わりのない悪夢の中をずっと彷徨っていた。
どうすれば終わるのかがわからず、ただ闇雲に歩き回るだけだった。
ある日、どこからか光を感じて、そちらへ向かえばこの悪夢から出られるのではないかと、期待した。
「オーリャ様!」
うっすらと目を開けたアルトゥールの頬を、柔らかい手が何度も何度も撫で回している。すぐ目の前で自分を覗き込む女性には見覚えがあるようでないようで、アルトゥールは困惑に眉を寄せた。
「トーヴァ! トーヴァ! オーリャ様が目を開けたわ!」
「――ニナ、姫?」
アルトゥールの知っているジェルヴェーズは、もう少し幼いはずだ。
子供から大人へと変わる年齢にようやく差し掛かったばかりで、こんな、もう淑女と呼んでいい歳ではなかったはずだ。
「でも、ニナ姫は、まだ、十二のはずで……」
ぼんやりとしたまま、アルトゥールは手を伸ばす。触れた頬は滑らかで柔らかく、暖かく……頭はとても心地よいものの上に乗せられている。
「オーリャ様、たしかにニナですわ。やっとオーリャ様に会えました。わたくし、大きくなったでしょう?」
「はい……とてもきれいになられましたね。これは、夢なのでしょうか」
「まあ、オーリャ様」
くすくす笑うジェルヴェーズに、アルトゥールもふっと笑い返す。
「アルトゥール殿下、体調はいかがですか?」
ジェルヴェーズの後ろから、トーヴァが声をかけた。そういえば、ここはいったいどこなのかと視線を巡らせて……。
「ニナ姫、ここは? 僕はたしか遺産の鑑定をしていたはずで、杖に潜んでいた何かに縛られて……いったい何が?
いや、姫。それよりも、僕の頭はもしかして姫の脚の上にあるのでは」
ようやく状況を理解したアルトゥールは、あわてて身体を起こす。周囲を確認すれば、松明と魔法の灯りに照らされた、暗い石造りの地下室だった。
すぐ近くから、詠唱の声と剣戟の音も聞こえる。
「アルトゥール殿下、魔術を阻む魔力の壁は、そろそろもちません」
「ネリアー? 君が、なぜここに……」
ネリアーの声に訝しみつつも、アルトゥールは自分たちの前に立つ半透明の輝く壁が、ゆらゆらと揺らぐのを確認する。
「――僕はどうすればいい?」
「動けるようでしたら、姫殿下を連れてここを出てください。ここは、魔術塔の隠されていた地下で……っ!」
「ごめんなさい、ネリアー!」
魔力の壁が揺らいで消えた瞬間、トーヴァの止め損ねた魔導師の魔術が発動した。壁が消えるタイミングをはかっていたのだろう。鮮やかな色とりどりの光線が放たれ、全員を狙い撃つ。
「ニナ姫!」
とっさにジェルヴェーズを抱き締めて、アルトゥールは身体を伏せた。その上に覆いかぶさるように、トーヴァが身体を投げ出す。
「乙女!」
炎の光線を危ういところで避けながら、ネリアーが悲鳴を上げた。トーヴァの背に光線がふたつ突き刺さる。
「姫さ……」
ジェルヴェーズとアルトゥールの無事を確認して、トーヴァはほっと笑顔を浮かべた。その全身が、たちまち灰色の石に変わる。
「トーヴァ!」
ジェルヴェーズが呼んでも、もちろん、反応はない。
アルトゥールはジェルヴェーズを抱えて、石となり重量を増したトーヴァの下から慎重に身体を引き出した。
「オーリャ様、オーリャ様、トーヴァが彫刻みたいに……!」
「石化、か」
「どうすればトーヴァを助けられるの?」
顔を曇らせるアルトゥールに、ジェルヴェーズの頬がひくりと引き攣った。
また、大魔導師の呪文詠唱の声が響き出す。
しかし、今度はカーティスの剣がそれを止めた。
ちらりと後ろを見やって、カーティスは少し焦りを滲ませつつ叫ぶ。
「姫殿下、殿下とともに上へお逃げください、早く!」
「でも、トーヴァが」
「構わずに置いていってください、おふたりの無事が最優先です!」
大魔導師が次の呪文を唱え始める。
いったいどれだけの魔術を使えるというのか。
「シェーファー!」
『悪しき黒魔術師よ、いい加減に滅べ!』
呪文の詠唱なら、どうにか止められる。
けれど、実体を持たない亡霊などいくら剣で斬ってもあまり効果がないようで、カーティスはつい舌打ちをする。
「猛きものの輝ける剣に掛けて、あとどれくらい斬ればこいつを倒せる?」
『黒魔術師どもは逃げ足にも長けている。油断するなよ、若造』
顔色を無くしたまま、ネリアーは顔を上げた。
目を細め、周囲をぐるりと見渡して、正面を指差すように片手をあげる。
「……“混沌の海に漂いし力に命ず”」
もう片手で、触媒袋から取り出した細かな粉末を振り撒いた。粉末は鉱物……宝石を砕いたものだろう。松明の光を反射してチラチラと煌めく雲となり、ネリアーの周囲をぼんやりと取り巻いた。
「“この世ならざるものをこの地に繋ぎ止めよ”」
ネリアーの指先が、雲の上に複雑な紋様を描く。光の粒がその線上に集まり、光を放ちながら紋様の形をはっきりと作っていく。
「“この場にありし、我が世界に属さぬものどもに告げる。汝ら、我が紋より出ること能わず”」
とうとう紋様が完成した。床に降りた輝く紋様は、この部屋の床を埋め尽くすほどに大きく……。
カーティスに対峙する大魔導師が呻き声を上げる。
「ちょっと、どういうつもり!」
困惑と怒りを帯びた表情のアンバーも姿を現すが、ネリアーはそれを無視してカーティスに声を掛ける。
「カーティス殿、これでその亡霊はこの部屋から動くことはできません」
『おお、それは僥倖!』
カーティスではなく剣の応答を聞いて、ネリアーは次の呪文の詠唱に入る。
「“混沌の海よ、彼の者の得物に力を与えよ。現界と幽界、双方に在るものを等しく斬り裂く力を”」
カーティスの剣の光が増した。大魔導師の亡霊を相手に心許無かった手応えが、確かなものに変わる。
「こんな魔術があるなら、最初から使ってくれれば……」
トーヴァが倒れて本気になったということなのか。
最初から出し惜しみしなければトーヴァも無事だったのではないかと、カーティスはつい、愚痴混じりに考えてしまう。
ともあれ、シェーファーの勢いも増している。魔術師の亡霊ひとりくらい、これなら敵ではない。
「シェーファー、やるぞ」
『おうとも。儂の本領発揮じゃ』
ぐるぐるぐるぐる、イラつきを隠さないアンバーが、ネリアーの周囲をひたすらに回っていた。
「どういうつもり! ワタシを巻き込んで結界を張るなんて聞いてないわ!」
「あなたにはまだ用があるので、何としてもここに留まってもらいます」
「――何考えてるか想像できるけど、ワタシはお前の下僕じゃないのよ」
「もちろん知っていますよ。私は召喚術師ですから」
固い石になったトーヴァを何度も何度も執拗に確認したネリアーは、身体の末端までひとかけらの欠損もないことを確認し、ようやくほっと息を吐いた。
それからジェルヴェーズへと顔を向けて、にっこりと微笑む。
「姫殿下、その指輪を私にくださいませんか」
「え……? 指輪って、この?」
ジェルヴェーズは、手にはめたままの“精霊縛りの指輪”に視線を落とす。
「でも、これは……」
もう“お願い”のための石はなく、アンバーだって指輪の呪縛を逃れたはずなのに、と、ジェルヴェーズは困惑に眉を寄せる。
が、アルトゥールは何かに気づいたのか、急に顔を上げた。
「ネリアー、まさか」
「はい、空になったなら、また入れればいいんですよ」
「冗談じゃないってば!」
アンバーの抗議に、そのための結界かとアルトゥールは部屋を見回した。おかしいと思ったのだ。亡霊を逃がさないためにしては、規模が大きすぎる。
「姫さんならともかく、あんたみたいな性格の悪い“水妖”に支配されたら、死ぬまで酷使されるに決まってるじゃない! 断固として抵抗するわよ!」
「構いませんよ。どんな手を使ってでも従えますから。なにしろ、私の乙女がかかっているのです」
「――やっぱり!」
アンバーはこめかみに青筋を立てながら、頭を掻き毟る。
こんなことならさっさと風の精霊界へ帰ってしまえばよかった。この件を最後まで見物してから……などと、好奇心に負けてしまったのは失敗だった。
悔やんでも悔やみきれない。
水と風という属するものの違いはあるが、ネリアーの半分は精霊族だ。アンバーも、水霊たちのしつこさはよく知っている。
飽きれば忘れてさっさと次へ行く風霊とは違い、水霊は忘れない。呆れるほどに執着し、何年も何百年も根に持ち続けるのが、水霊の性質なのだ。
ネリアーは水妖と呼ばれる水の上位精霊の血族で、トーヴァへの執着が見せているように、水霊の性質を色濃く受け継いでいる。
そんなネリアーを自分の主人に迎えるなんて、心の底から冗談ではない。
「ネリアー。つまり、アンバーをもう一度この指輪に縛り付けるということ?」
「はい。ですから姫殿下、指輪を私に」
にこやかに頷いて、ネリアーはもう一度指輪を要求する。
ジェルヴェーズはじっと指輪を見つめた。
魔道具というのは、いったん力をなくしたら、もう使えなくなってしまうものではないのかと。
「でも……」
「姫殿下、“石化”を治すのはとても難しいのですよ。治すまでの間に、万が一身体が欠ければ、欠けたまま戻ることになり……つまり、その箇所によっては即座に死を迎えることとなります」
ジェルヴェーズが息を呑む。
アルトゥールが口を開きかけるが、ネリアーは構わずに言葉を続ける。
「さらに加えれば、石化からの復活自体は魔術で可能です。しかし、その魔術で戻す際にも本当の死のリスクは伴うのです」
「そんな……」
「ゆえに、私はより確実に乙女を戻す手段が欲しい。姫殿下も、乙女が無事に助かったほうがよろしいとお考えですよね?」
アルトゥールが、顔色を変えたジェルヴェーズをそっと抱き締めた。それから、ネリアーに「本気か?」と問う。
「ネリアー、精霊を指輪に封じ込めるには、力で従えなければならない」
「存じていますよ、殿下」
「ジンニーヤはかなり上位の風霊だろう? それを力で負かすなんて」
「殿下、私は専門魔術師で、召喚術師なのですよ。それに、乙女の生命がかかっていますから」
ネリアーはアンバーを見上げてにいっと笑う。
“精霊縛りの指輪”に精霊を捕らえるには、対象から同意を得る必要がある。だが、大抵の精霊は支配をよしとせず、力で打ち負かし、無理やり同意させることとなるのだ。おまけに、風の上位精霊であるアンバーは強敵だ。
けれど、ネリアーは召喚術師だ。精霊の扱いに長けているという自負も勝算もある。アンバーはその自信のほどを察してか、心底嫌そうに顔を顰めた。
「絶対嫌よ。あんた気持ち悪いし」
「私も、風霊など信用ならないのですが、あなたの力は必要なのですよ。
“混沌の海に揺蕩いし力よ”」
じっと凝視したまま呪文を唱え出すネリアーに、ひ、と息を呑んで、アンバーは慌ててジェルヴェーズを振り返った。
「姫さん!」
「え?」
「ワタシの言葉にはいと答えて!」
「どういうこと? わたくしに、何を……」
「“世界を駆ける風の源たる我は、汝ジェルヴェーズ・ニナ・フォーレイに従おう”……早く、姫さん、“はい”って!」
「でも……」
「ニナ姫、大丈夫。アンバーの言うとおりに」
戸惑うジェルヴェーズの耳元に、アルトゥールが囁いた。
ここでネリアーとアンバーまでが戦い出したら収拾がつかなくなる。それに、ネリアーの目的に、ネリアー自身が主人である必要はないはずだ。
「は、はい……はい、アンバー。これでいいのかしら……えっ?」
頷いたとたん、ジェルヴェーズの指輪が輝いた。驚いて目を落とすと、空っぽだったはずの指輪に緑の石が三つ、しっかりと嵌め込まれていた。
アンバーが勝ち誇った顔でネリアーを見返す。
「これでワタシを支配するのは無理ね! ワタシのご主人様はニナ姫よ!」
「姫殿下、逃げ――!」
得意満面なアンバーにネリアーが何かを言い返そうとした瞬間、カーティスの叫びとともにいきなり光が爆発した。
しまった、まだ大魔導師がいたのだった、とジェルヴェーズは目を見開く。
ネリアーが「乙女!」と叫んで石になったトーヴァを抱える。アルトゥールがジェルヴェーズをすっぽりと隠すように覆い被さる。
それらすべてが、ジェルヴェーズの目の前でおかしいくらいにゆっくりと進んで行って……ああ、この爆発した光はとても危険なものなのかとぼんやり考えて、そこでやっと我に返った。
――なら、どうにかしないと。
指輪の石が、きらりと光る。
「アンバー、“お願い”よ!」
「はあい?」
「皆を助けて!」
くすりと笑って、アンバーが手を閃めかせる。
「了解よ、ご主人様」
どうすれば終わるのかがわからず、ただ闇雲に歩き回るだけだった。
ある日、どこからか光を感じて、そちらへ向かえばこの悪夢から出られるのではないかと、期待した。
「オーリャ様!」
うっすらと目を開けたアルトゥールの頬を、柔らかい手が何度も何度も撫で回している。すぐ目の前で自分を覗き込む女性には見覚えがあるようでないようで、アルトゥールは困惑に眉を寄せた。
「トーヴァ! トーヴァ! オーリャ様が目を開けたわ!」
「――ニナ、姫?」
アルトゥールの知っているジェルヴェーズは、もう少し幼いはずだ。
子供から大人へと変わる年齢にようやく差し掛かったばかりで、こんな、もう淑女と呼んでいい歳ではなかったはずだ。
「でも、ニナ姫は、まだ、十二のはずで……」
ぼんやりとしたまま、アルトゥールは手を伸ばす。触れた頬は滑らかで柔らかく、暖かく……頭はとても心地よいものの上に乗せられている。
「オーリャ様、たしかにニナですわ。やっとオーリャ様に会えました。わたくし、大きくなったでしょう?」
「はい……とてもきれいになられましたね。これは、夢なのでしょうか」
「まあ、オーリャ様」
くすくす笑うジェルヴェーズに、アルトゥールもふっと笑い返す。
「アルトゥール殿下、体調はいかがですか?」
ジェルヴェーズの後ろから、トーヴァが声をかけた。そういえば、ここはいったいどこなのかと視線を巡らせて……。
「ニナ姫、ここは? 僕はたしか遺産の鑑定をしていたはずで、杖に潜んでいた何かに縛られて……いったい何が?
いや、姫。それよりも、僕の頭はもしかして姫の脚の上にあるのでは」
ようやく状況を理解したアルトゥールは、あわてて身体を起こす。周囲を確認すれば、松明と魔法の灯りに照らされた、暗い石造りの地下室だった。
すぐ近くから、詠唱の声と剣戟の音も聞こえる。
「アルトゥール殿下、魔術を阻む魔力の壁は、そろそろもちません」
「ネリアー? 君が、なぜここに……」
ネリアーの声に訝しみつつも、アルトゥールは自分たちの前に立つ半透明の輝く壁が、ゆらゆらと揺らぐのを確認する。
「――僕はどうすればいい?」
「動けるようでしたら、姫殿下を連れてここを出てください。ここは、魔術塔の隠されていた地下で……っ!」
「ごめんなさい、ネリアー!」
魔力の壁が揺らいで消えた瞬間、トーヴァの止め損ねた魔導師の魔術が発動した。壁が消えるタイミングをはかっていたのだろう。鮮やかな色とりどりの光線が放たれ、全員を狙い撃つ。
「ニナ姫!」
とっさにジェルヴェーズを抱き締めて、アルトゥールは身体を伏せた。その上に覆いかぶさるように、トーヴァが身体を投げ出す。
「乙女!」
炎の光線を危ういところで避けながら、ネリアーが悲鳴を上げた。トーヴァの背に光線がふたつ突き刺さる。
「姫さ……」
ジェルヴェーズとアルトゥールの無事を確認して、トーヴァはほっと笑顔を浮かべた。その全身が、たちまち灰色の石に変わる。
「トーヴァ!」
ジェルヴェーズが呼んでも、もちろん、反応はない。
アルトゥールはジェルヴェーズを抱えて、石となり重量を増したトーヴァの下から慎重に身体を引き出した。
「オーリャ様、オーリャ様、トーヴァが彫刻みたいに……!」
「石化、か」
「どうすればトーヴァを助けられるの?」
顔を曇らせるアルトゥールに、ジェルヴェーズの頬がひくりと引き攣った。
また、大魔導師の呪文詠唱の声が響き出す。
しかし、今度はカーティスの剣がそれを止めた。
ちらりと後ろを見やって、カーティスは少し焦りを滲ませつつ叫ぶ。
「姫殿下、殿下とともに上へお逃げください、早く!」
「でも、トーヴァが」
「構わずに置いていってください、おふたりの無事が最優先です!」
大魔導師が次の呪文を唱え始める。
いったいどれだけの魔術を使えるというのか。
「シェーファー!」
『悪しき黒魔術師よ、いい加減に滅べ!』
呪文の詠唱なら、どうにか止められる。
けれど、実体を持たない亡霊などいくら剣で斬ってもあまり効果がないようで、カーティスはつい舌打ちをする。
「猛きものの輝ける剣に掛けて、あとどれくらい斬ればこいつを倒せる?」
『黒魔術師どもは逃げ足にも長けている。油断するなよ、若造』
顔色を無くしたまま、ネリアーは顔を上げた。
目を細め、周囲をぐるりと見渡して、正面を指差すように片手をあげる。
「……“混沌の海に漂いし力に命ず”」
もう片手で、触媒袋から取り出した細かな粉末を振り撒いた。粉末は鉱物……宝石を砕いたものだろう。松明の光を反射してチラチラと煌めく雲となり、ネリアーの周囲をぼんやりと取り巻いた。
「“この世ならざるものをこの地に繋ぎ止めよ”」
ネリアーの指先が、雲の上に複雑な紋様を描く。光の粒がその線上に集まり、光を放ちながら紋様の形をはっきりと作っていく。
「“この場にありし、我が世界に属さぬものどもに告げる。汝ら、我が紋より出ること能わず”」
とうとう紋様が完成した。床に降りた輝く紋様は、この部屋の床を埋め尽くすほどに大きく……。
カーティスに対峙する大魔導師が呻き声を上げる。
「ちょっと、どういうつもり!」
困惑と怒りを帯びた表情のアンバーも姿を現すが、ネリアーはそれを無視してカーティスに声を掛ける。
「カーティス殿、これでその亡霊はこの部屋から動くことはできません」
『おお、それは僥倖!』
カーティスではなく剣の応答を聞いて、ネリアーは次の呪文の詠唱に入る。
「“混沌の海よ、彼の者の得物に力を与えよ。現界と幽界、双方に在るものを等しく斬り裂く力を”」
カーティスの剣の光が増した。大魔導師の亡霊を相手に心許無かった手応えが、確かなものに変わる。
「こんな魔術があるなら、最初から使ってくれれば……」
トーヴァが倒れて本気になったということなのか。
最初から出し惜しみしなければトーヴァも無事だったのではないかと、カーティスはつい、愚痴混じりに考えてしまう。
ともあれ、シェーファーの勢いも増している。魔術師の亡霊ひとりくらい、これなら敵ではない。
「シェーファー、やるぞ」
『おうとも。儂の本領発揮じゃ』
ぐるぐるぐるぐる、イラつきを隠さないアンバーが、ネリアーの周囲をひたすらに回っていた。
「どういうつもり! ワタシを巻き込んで結界を張るなんて聞いてないわ!」
「あなたにはまだ用があるので、何としてもここに留まってもらいます」
「――何考えてるか想像できるけど、ワタシはお前の下僕じゃないのよ」
「もちろん知っていますよ。私は召喚術師ですから」
固い石になったトーヴァを何度も何度も執拗に確認したネリアーは、身体の末端までひとかけらの欠損もないことを確認し、ようやくほっと息を吐いた。
それからジェルヴェーズへと顔を向けて、にっこりと微笑む。
「姫殿下、その指輪を私にくださいませんか」
「え……? 指輪って、この?」
ジェルヴェーズは、手にはめたままの“精霊縛りの指輪”に視線を落とす。
「でも、これは……」
もう“お願い”のための石はなく、アンバーだって指輪の呪縛を逃れたはずなのに、と、ジェルヴェーズは困惑に眉を寄せる。
が、アルトゥールは何かに気づいたのか、急に顔を上げた。
「ネリアー、まさか」
「はい、空になったなら、また入れればいいんですよ」
「冗談じゃないってば!」
アンバーの抗議に、そのための結界かとアルトゥールは部屋を見回した。おかしいと思ったのだ。亡霊を逃がさないためにしては、規模が大きすぎる。
「姫さんならともかく、あんたみたいな性格の悪い“水妖”に支配されたら、死ぬまで酷使されるに決まってるじゃない! 断固として抵抗するわよ!」
「構いませんよ。どんな手を使ってでも従えますから。なにしろ、私の乙女がかかっているのです」
「――やっぱり!」
アンバーはこめかみに青筋を立てながら、頭を掻き毟る。
こんなことならさっさと風の精霊界へ帰ってしまえばよかった。この件を最後まで見物してから……などと、好奇心に負けてしまったのは失敗だった。
悔やんでも悔やみきれない。
水と風という属するものの違いはあるが、ネリアーの半分は精霊族だ。アンバーも、水霊たちのしつこさはよく知っている。
飽きれば忘れてさっさと次へ行く風霊とは違い、水霊は忘れない。呆れるほどに執着し、何年も何百年も根に持ち続けるのが、水霊の性質なのだ。
ネリアーは水妖と呼ばれる水の上位精霊の血族で、トーヴァへの執着が見せているように、水霊の性質を色濃く受け継いでいる。
そんなネリアーを自分の主人に迎えるなんて、心の底から冗談ではない。
「ネリアー。つまり、アンバーをもう一度この指輪に縛り付けるということ?」
「はい。ですから姫殿下、指輪を私に」
にこやかに頷いて、ネリアーはもう一度指輪を要求する。
ジェルヴェーズはじっと指輪を見つめた。
魔道具というのは、いったん力をなくしたら、もう使えなくなってしまうものではないのかと。
「でも……」
「姫殿下、“石化”を治すのはとても難しいのですよ。治すまでの間に、万が一身体が欠ければ、欠けたまま戻ることになり……つまり、その箇所によっては即座に死を迎えることとなります」
ジェルヴェーズが息を呑む。
アルトゥールが口を開きかけるが、ネリアーは構わずに言葉を続ける。
「さらに加えれば、石化からの復活自体は魔術で可能です。しかし、その魔術で戻す際にも本当の死のリスクは伴うのです」
「そんな……」
「ゆえに、私はより確実に乙女を戻す手段が欲しい。姫殿下も、乙女が無事に助かったほうがよろしいとお考えですよね?」
アルトゥールが、顔色を変えたジェルヴェーズをそっと抱き締めた。それから、ネリアーに「本気か?」と問う。
「ネリアー、精霊を指輪に封じ込めるには、力で従えなければならない」
「存じていますよ、殿下」
「ジンニーヤはかなり上位の風霊だろう? それを力で負かすなんて」
「殿下、私は専門魔術師で、召喚術師なのですよ。それに、乙女の生命がかかっていますから」
ネリアーはアンバーを見上げてにいっと笑う。
“精霊縛りの指輪”に精霊を捕らえるには、対象から同意を得る必要がある。だが、大抵の精霊は支配をよしとせず、力で打ち負かし、無理やり同意させることとなるのだ。おまけに、風の上位精霊であるアンバーは強敵だ。
けれど、ネリアーは召喚術師だ。精霊の扱いに長けているという自負も勝算もある。アンバーはその自信のほどを察してか、心底嫌そうに顔を顰めた。
「絶対嫌よ。あんた気持ち悪いし」
「私も、風霊など信用ならないのですが、あなたの力は必要なのですよ。
“混沌の海に揺蕩いし力よ”」
じっと凝視したまま呪文を唱え出すネリアーに、ひ、と息を呑んで、アンバーは慌ててジェルヴェーズを振り返った。
「姫さん!」
「え?」
「ワタシの言葉にはいと答えて!」
「どういうこと? わたくしに、何を……」
「“世界を駆ける風の源たる我は、汝ジェルヴェーズ・ニナ・フォーレイに従おう”……早く、姫さん、“はい”って!」
「でも……」
「ニナ姫、大丈夫。アンバーの言うとおりに」
戸惑うジェルヴェーズの耳元に、アルトゥールが囁いた。
ここでネリアーとアンバーまでが戦い出したら収拾がつかなくなる。それに、ネリアーの目的に、ネリアー自身が主人である必要はないはずだ。
「は、はい……はい、アンバー。これでいいのかしら……えっ?」
頷いたとたん、ジェルヴェーズの指輪が輝いた。驚いて目を落とすと、空っぽだったはずの指輪に緑の石が三つ、しっかりと嵌め込まれていた。
アンバーが勝ち誇った顔でネリアーを見返す。
「これでワタシを支配するのは無理ね! ワタシのご主人様はニナ姫よ!」
「姫殿下、逃げ――!」
得意満面なアンバーにネリアーが何かを言い返そうとした瞬間、カーティスの叫びとともにいきなり光が爆発した。
しまった、まだ大魔導師がいたのだった、とジェルヴェーズは目を見開く。
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それらすべてが、ジェルヴェーズの目の前でおかしいくらいにゆっくりと進んで行って……ああ、この爆発した光はとても危険なものなのかとぼんやり考えて、そこでやっと我に返った。
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けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
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