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“娘”の物語
1.黒い竜/後篇
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「カルミナ、お前、竜と戦ったことはあるか?」
「あるわけがない」
「実は俺もだ」
イグナーツは、どうしたもんかなと頬杖を突く。カルミナはそんなイグナーツにはちらりと目をやり、このあたりの簡単な地図を出した。
狩人の話からすると、沼はおおよそこの辺りだろうと印をつける。
「――竜のことは知識としては知っている。だが、それだけだ。実物は今回初めて見ることになるな」
「俺も似たようなもんだ。とはいえ、引き受けちまったんだし、なんとか頑張ってみるしかないがな。
とりあえず、黒竜がどんな奴なのか教えてくれよ」
カルミナは頷いて、黒竜の特徴をひとつひとつ数え上げていった。
酸の息吹(ブレス)を吐く、飛ぶことはあまり得意ではないが泳ぐほうは得意である、竜族の中では小柄なほうである……等々。
「沼から引きずり出さなきゃ戦いにもならんうえに、空を飛ばれてもまずいとか、こっちには不利しかないってことかよ」
「人里へ来ないよううまく説得できれば御の字だが、気性は荒いし、竜族のわりに頭も良くない。性格もいいとは言えない竜だ。話し合いは無理だろうな。
せめて、うまく煽ってこっちに有利な場所へおびき出せればいいんだが」
ふと、イグナーツは何かを思いついたように顔を上げた。
「カルミナ、何か竜を足留めできるような魔法はないか?」
「“束縛”の魔法くらいは使えるが、すぐ破られるだろうな。あれは人間を拘束するための魔法だ。小さいとはいえ馬ほどのでかさの竜なら、さすがに力もあるだろう」
「一瞬でいい。お前が隙を作ってくれれば、俺が翼を叩き斬ってやる。そうすりゃ、飛ぶことくらいは邪魔できるだろう?」
「――なるほど。無茶を好むお前らしい作戦だ」
イグナーツの背に背負った大剣を見るカルミナの顔には、呆れ半分といった表情がかすかに浮かんでいた。
だがイグナーツのことだ。いつものとおり、できると言ったことは確実にやってのけるだろう。なら、カルミナは彼が要求する隙を作るだけだ。
「わかった、なんとかしてやる。少なくとも飛ばれなければ、勝算は高くなるからな。
では、いつやる?」
「思い立ったが吉日って言うだろう。明日行くぞ」
イグナーツはいつもの調子でへらへらと笑い、カルミナの肩をぽんと叩いた。
カルミナもいつものようにひとつ溜息を吐こうとして、だが、相手が竜なら今度こそ……そう考えて、了承した。
翌日、村長だけには竜かもしれないと告げた。
「竜?」
「十中八九間違いない。すぐにでも王都へ連絡を送るんだ。この鱗が証拠だと言ってな。そうすれば向こうにも本当に竜だと知れて、すぐにでも討伐隊を派遣するはずだ」
現場に落ちていた鱗を村長に渡すと、まじまじとそれを見つめる。
「まさか……こんなところに、竜なんて」
「俺たちも出来る限りのことはやるが、絶対とは言えないからな。まあ、これ以上被害が出ないようには努力するさ」
「はあ……」
へらへらと笑うイグナーツを、村長は少し不安げに見上げて……それでも今頼れるのはふたりだけなのだと頭を下げた。
「カルミナ、馬はどうする?」
「連れて行く。いざとなったら囮にもできるだろう」
出立の準備をしながら尋ねると、カルミナは平然とそう返してきた。
森の中で、馬はあまり役に立たない。だから置いて行くのだとばかり思っていたが、カルミナは馬具の準備もしていた。
まさかとは思ったがと、イグナーツは軽く瞠目する。
「お前……そりゃ結構酷いんじゃないか?」
「何が酷い? 相手は竜なんだ、使えるものはすべて使わないと死ぬ」
「そりゃそうなんだが」
ま、しかたないかとイグナーツは溜息混じりに肩を竦めた。
あらかじめ狩人に確認していたとおりの場所に、その沼地はあった。
カルミナはできる限り気配を消して、木々の切れ目までゆっくりと進む。そこから木々の切れ目、淀んだ水面へと続く少し開けた地面をじっと観察すると、たしかに沼周辺の泥には、あの現場に残されたものとよく似た足跡が幾つか残されていた。
「ここで間違いなさそうだ」
竜の気配を感じてか、連れてきた馬は耳を伏せ目を剥いてすっかり落ち着きを無くしている。
「カルミナ、馬はここに繋いでおこう」
イグナーツの言葉に頷いて、引綱を手近な木に結ぶ。それから沼へと一歩近づいて、カルミナは小さく魔法を唱えた。
「いる……こっちへ来る」
カルミナの魔法を察知したのか、それとも、そもそもこの沼に近づいた時から気づいていたのか。カルミナの魔法に、淀んだ水の中を進んでくる生き物がはっきりと捉えらる。
「奴だ」
いきなり、カルミナが走り出した。それに合わせて彼女とは逆の方向に、イグナーツも大剣を抜いて走り出す。
ざば、と水柱が上がったと思った瞬間、カルミナは地面を蹴って前へと転がる。
直前までカルミナの身体があった空間を竜の酸の息が薙ぐ。吐きかけられた酸が地面を焦がし、あたりに胸を焼くような嫌な臭いが立ち込めた。
「カルミナ!」
「問題ない」
イグナーツか大剣を構え、竜へ突進する。カルミナの姿を一瞬だけ確認し、それから視線を竜へと戻して、イグナーツの大剣は、水面から突き出した竜の首を狙って思い切り斬り払った。竜にしては小柄で、馬ほどの大きさだとは言っても、首と長い尾を合わせた体長はその3倍ほどにはなるだろう。
もちろん、力も人間よりはずっと強い。
「トカゲ野郎! 俺が相手をしてやるよ!」
黒い竜は、嘲るようなイグナーツの声と斬撃にぐるりと首を巡らせる。黒い竜は咆哮を上げ、ガチガチと牙を嚙み鳴らす。
その隙にカルミナも立ち上がり、次の魔法を唱え出した。
竜はばさりと翼を広げた。ばさりばさりた羽ばたきながら、水底を蹴り、空へと飛び立とうとする。
「縛った」
カルミナの声と同時に、竜の足が止まった。
藻や草に絡みつかれ、動きを封じられた黒い竜が、怒りに再度咆哮をあげる。すぐに戒めから逃れようと四肢に力を込めて――
「よし!」
イグナーツはその隙を逃さず、竜の片翼を狙って大剣を振り抜した。カルミナもダメ押しだと短剣を投げつける。
広げた翼の片方が、だらりと力なく垂れ下がった。
痛みと屈辱に怒り狂った竜が、さらに凄まじい咆哮を上げる。
鋭い牙で嚙み裂こうとイグナーツを振り返る竜に、さらなる大剣の一撃をお見舞いする。割れて飛び散った鱗が光を反射して、きらきらと輝いた。
どうにかイグナーツをなぎ払おうと、竜は太い尾を振り回した。完全に避けそこなったのか、身体をかすめた尾の衝撃によろめいたイグナーツは後ろへと数歩下がってしまう。
すかさず、黒い竜はカルミナへと突進した。
イグナーツの大剣よりカルミナの魔法のほうが脅威だと考えたのか、それとも単に、板金鎧を付けていないカルミナのほうが容易く圧倒できると考えたのか。
「カルミナ避けろ!」
竜に一拍遅れて、イグナーツも走り出す。
カルミナは軽く目を見開いて横へと飛び退り、竜の突進を避けた――が、しかし、泥に足を取られてバランスを崩し、転がってしまった。
「カルミナ!」
イグナーツがカルミナを庇い、竜の目の前に立ちはだかった。素早く繰り出された黒竜の鋭い爪を、辛うじて大剣で弾く。
「立てるか?」
視界の端で確認すると、カルミナは少し俯いたままこくりと頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「竜の息だ」
大きく息を吸い込む竜に気づいて、カルミナが横に飛び退る。促されて、イグナーツも横に飛んだところを、間一髪で黒竜の酸の息が焼いた。
「さすが竜だ。小さいくせに強いな」
まだ完全な成竜とは言えない程度の大きさのくせに、この竜の鱗は硬く力は強く爪も鋭い。尾の一撃も強力で、とても無視できるものではない。
さすが、神話の頃から存在すると言われる生き物だ。とても侮れたものではない。すべての生き物の頂上に君臨すると称されるのも、宜なるかなと納得できる。
イグナーツは、竜の隙を伺いながら、油断なく大剣を構えた。
「たとえ倒せなくても、人間はやられたら何度でも報復する生き物なのだと、そいつの身体にしっかりと刻み込んでやればいい」
「まあな」
カルミナの言葉ににやりと笑って、イグナーツは再び竜へ向けて突進する。
黒い竜との戦いはずいぶんと長く続いたような気がする。だが、戦いとは得てしてそういうものだ。実際はそれほどでもなかったのかもしれない。
結局、黒竜を仕留めることはできなかった。
しかし、ほうほうの体で逃げ出した竜の様子からすると、しばらく村を襲うことはないだろう。なら、あとは騎士団の討伐隊を待っても問題はないはずだ。
あちこちにできた傷や酸で焼けた箇所の手当てを簡単に済ませると、すっかり怯えきった馬をなだめ、ふたりは村へと引き返す。
「カルミナ、町に戻ったら、治癒魔法使いのところへ行こう」
何やら考えていたイグナーツが、急にそんなことを言い出した。カルミナは軽く眉を顰めて、胡乱なもののようにイグナーツを見返す。
「そこまでの傷とは思わないが」
「酸の火傷は残るんだぞ。女が身体に傷を残すな」
「この仕事をしている以上、気にしてもしかたないのに?」
「ああ、それでもだ。行くぞ」
渋面になるイグナーツに、カルミナは「そこまで言うなら」と溜息を吐いた。
そのまま、ふたりはぽくぽくと馬を歩かせていく。
あの時……イグナーツが倒れたカルミナを庇うように立った時、一瞬だけ嬉しそうに笑ったのは、気のせいだったのだろうか?
――一瞬だけの錯覚でもなんでもいい。
イグナーツはカルミナの笑顔をもっとしっかり見たいと思ってしまった。
――竜ならこいつを殺せると思ったのに。
イグナーツの後ろで、カルミナは目を伏せる。
カルミナ自身の腕ではイグナーツを害することなど到底無理だと、この三ヶ月で痛いほどに思い知っていた。
何しろ、隙だらけに見えるのに驚くほど隙がない。おまけに気配にも敏(さと)く、何かを仕掛けようとすれば必ず察知されてしまう。
与えられた期間は、残すところあと九ヶ月だ。
自分は本当にやりきれるのだろうか?
偶然と成り行きを装い、首尾よく近づくことはできた。けれど、果たして本当に可能なのかと自信は揺らぎ疑念は増すばかりだ。
「カルミナ、どうした?」
「いや、疲れたなと考えていただけだ」
いつものような軽い調子のイグナーツに、カルミナも、いつものように感情の乗らない平板な声で応えた。
「あるわけがない」
「実は俺もだ」
イグナーツは、どうしたもんかなと頬杖を突く。カルミナはそんなイグナーツにはちらりと目をやり、このあたりの簡単な地図を出した。
狩人の話からすると、沼はおおよそこの辺りだろうと印をつける。
「――竜のことは知識としては知っている。だが、それだけだ。実物は今回初めて見ることになるな」
「俺も似たようなもんだ。とはいえ、引き受けちまったんだし、なんとか頑張ってみるしかないがな。
とりあえず、黒竜がどんな奴なのか教えてくれよ」
カルミナは頷いて、黒竜の特徴をひとつひとつ数え上げていった。
酸の息吹(ブレス)を吐く、飛ぶことはあまり得意ではないが泳ぐほうは得意である、竜族の中では小柄なほうである……等々。
「沼から引きずり出さなきゃ戦いにもならんうえに、空を飛ばれてもまずいとか、こっちには不利しかないってことかよ」
「人里へ来ないよううまく説得できれば御の字だが、気性は荒いし、竜族のわりに頭も良くない。性格もいいとは言えない竜だ。話し合いは無理だろうな。
せめて、うまく煽ってこっちに有利な場所へおびき出せればいいんだが」
ふと、イグナーツは何かを思いついたように顔を上げた。
「カルミナ、何か竜を足留めできるような魔法はないか?」
「“束縛”の魔法くらいは使えるが、すぐ破られるだろうな。あれは人間を拘束するための魔法だ。小さいとはいえ馬ほどのでかさの竜なら、さすがに力もあるだろう」
「一瞬でいい。お前が隙を作ってくれれば、俺が翼を叩き斬ってやる。そうすりゃ、飛ぶことくらいは邪魔できるだろう?」
「――なるほど。無茶を好むお前らしい作戦だ」
イグナーツの背に背負った大剣を見るカルミナの顔には、呆れ半分といった表情がかすかに浮かんでいた。
だがイグナーツのことだ。いつものとおり、できると言ったことは確実にやってのけるだろう。なら、カルミナは彼が要求する隙を作るだけだ。
「わかった、なんとかしてやる。少なくとも飛ばれなければ、勝算は高くなるからな。
では、いつやる?」
「思い立ったが吉日って言うだろう。明日行くぞ」
イグナーツはいつもの調子でへらへらと笑い、カルミナの肩をぽんと叩いた。
カルミナもいつものようにひとつ溜息を吐こうとして、だが、相手が竜なら今度こそ……そう考えて、了承した。
翌日、村長だけには竜かもしれないと告げた。
「竜?」
「十中八九間違いない。すぐにでも王都へ連絡を送るんだ。この鱗が証拠だと言ってな。そうすれば向こうにも本当に竜だと知れて、すぐにでも討伐隊を派遣するはずだ」
現場に落ちていた鱗を村長に渡すと、まじまじとそれを見つめる。
「まさか……こんなところに、竜なんて」
「俺たちも出来る限りのことはやるが、絶対とは言えないからな。まあ、これ以上被害が出ないようには努力するさ」
「はあ……」
へらへらと笑うイグナーツを、村長は少し不安げに見上げて……それでも今頼れるのはふたりだけなのだと頭を下げた。
「カルミナ、馬はどうする?」
「連れて行く。いざとなったら囮にもできるだろう」
出立の準備をしながら尋ねると、カルミナは平然とそう返してきた。
森の中で、馬はあまり役に立たない。だから置いて行くのだとばかり思っていたが、カルミナは馬具の準備もしていた。
まさかとは思ったがと、イグナーツは軽く瞠目する。
「お前……そりゃ結構酷いんじゃないか?」
「何が酷い? 相手は竜なんだ、使えるものはすべて使わないと死ぬ」
「そりゃそうなんだが」
ま、しかたないかとイグナーツは溜息混じりに肩を竦めた。
あらかじめ狩人に確認していたとおりの場所に、その沼地はあった。
カルミナはできる限り気配を消して、木々の切れ目までゆっくりと進む。そこから木々の切れ目、淀んだ水面へと続く少し開けた地面をじっと観察すると、たしかに沼周辺の泥には、あの現場に残されたものとよく似た足跡が幾つか残されていた。
「ここで間違いなさそうだ」
竜の気配を感じてか、連れてきた馬は耳を伏せ目を剥いてすっかり落ち着きを無くしている。
「カルミナ、馬はここに繋いでおこう」
イグナーツの言葉に頷いて、引綱を手近な木に結ぶ。それから沼へと一歩近づいて、カルミナは小さく魔法を唱えた。
「いる……こっちへ来る」
カルミナの魔法を察知したのか、それとも、そもそもこの沼に近づいた時から気づいていたのか。カルミナの魔法に、淀んだ水の中を進んでくる生き物がはっきりと捉えらる。
「奴だ」
いきなり、カルミナが走り出した。それに合わせて彼女とは逆の方向に、イグナーツも大剣を抜いて走り出す。
ざば、と水柱が上がったと思った瞬間、カルミナは地面を蹴って前へと転がる。
直前までカルミナの身体があった空間を竜の酸の息が薙ぐ。吐きかけられた酸が地面を焦がし、あたりに胸を焼くような嫌な臭いが立ち込めた。
「カルミナ!」
「問題ない」
イグナーツか大剣を構え、竜へ突進する。カルミナの姿を一瞬だけ確認し、それから視線を竜へと戻して、イグナーツの大剣は、水面から突き出した竜の首を狙って思い切り斬り払った。竜にしては小柄で、馬ほどの大きさだとは言っても、首と長い尾を合わせた体長はその3倍ほどにはなるだろう。
もちろん、力も人間よりはずっと強い。
「トカゲ野郎! 俺が相手をしてやるよ!」
黒い竜は、嘲るようなイグナーツの声と斬撃にぐるりと首を巡らせる。黒い竜は咆哮を上げ、ガチガチと牙を嚙み鳴らす。
その隙にカルミナも立ち上がり、次の魔法を唱え出した。
竜はばさりと翼を広げた。ばさりばさりた羽ばたきながら、水底を蹴り、空へと飛び立とうとする。
「縛った」
カルミナの声と同時に、竜の足が止まった。
藻や草に絡みつかれ、動きを封じられた黒い竜が、怒りに再度咆哮をあげる。すぐに戒めから逃れようと四肢に力を込めて――
「よし!」
イグナーツはその隙を逃さず、竜の片翼を狙って大剣を振り抜した。カルミナもダメ押しだと短剣を投げつける。
広げた翼の片方が、だらりと力なく垂れ下がった。
痛みと屈辱に怒り狂った竜が、さらに凄まじい咆哮を上げる。
鋭い牙で嚙み裂こうとイグナーツを振り返る竜に、さらなる大剣の一撃をお見舞いする。割れて飛び散った鱗が光を反射して、きらきらと輝いた。
どうにかイグナーツをなぎ払おうと、竜は太い尾を振り回した。完全に避けそこなったのか、身体をかすめた尾の衝撃によろめいたイグナーツは後ろへと数歩下がってしまう。
すかさず、黒い竜はカルミナへと突進した。
イグナーツの大剣よりカルミナの魔法のほうが脅威だと考えたのか、それとも単に、板金鎧を付けていないカルミナのほうが容易く圧倒できると考えたのか。
「カルミナ避けろ!」
竜に一拍遅れて、イグナーツも走り出す。
カルミナは軽く目を見開いて横へと飛び退り、竜の突進を避けた――が、しかし、泥に足を取られてバランスを崩し、転がってしまった。
「カルミナ!」
イグナーツがカルミナを庇い、竜の目の前に立ちはだかった。素早く繰り出された黒竜の鋭い爪を、辛うじて大剣で弾く。
「立てるか?」
視界の端で確認すると、カルミナは少し俯いたままこくりと頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「竜の息だ」
大きく息を吸い込む竜に気づいて、カルミナが横に飛び退る。促されて、イグナーツも横に飛んだところを、間一髪で黒竜の酸の息が焼いた。
「さすが竜だ。小さいくせに強いな」
まだ完全な成竜とは言えない程度の大きさのくせに、この竜の鱗は硬く力は強く爪も鋭い。尾の一撃も強力で、とても無視できるものではない。
さすが、神話の頃から存在すると言われる生き物だ。とても侮れたものではない。すべての生き物の頂上に君臨すると称されるのも、宜なるかなと納得できる。
イグナーツは、竜の隙を伺いながら、油断なく大剣を構えた。
「たとえ倒せなくても、人間はやられたら何度でも報復する生き物なのだと、そいつの身体にしっかりと刻み込んでやればいい」
「まあな」
カルミナの言葉ににやりと笑って、イグナーツは再び竜へ向けて突進する。
黒い竜との戦いはずいぶんと長く続いたような気がする。だが、戦いとは得てしてそういうものだ。実際はそれほどでもなかったのかもしれない。
結局、黒竜を仕留めることはできなかった。
しかし、ほうほうの体で逃げ出した竜の様子からすると、しばらく村を襲うことはないだろう。なら、あとは騎士団の討伐隊を待っても問題はないはずだ。
あちこちにできた傷や酸で焼けた箇所の手当てを簡単に済ませると、すっかり怯えきった馬をなだめ、ふたりは村へと引き返す。
「カルミナ、町に戻ったら、治癒魔法使いのところへ行こう」
何やら考えていたイグナーツが、急にそんなことを言い出した。カルミナは軽く眉を顰めて、胡乱なもののようにイグナーツを見返す。
「そこまでの傷とは思わないが」
「酸の火傷は残るんだぞ。女が身体に傷を残すな」
「この仕事をしている以上、気にしてもしかたないのに?」
「ああ、それでもだ。行くぞ」
渋面になるイグナーツに、カルミナは「そこまで言うなら」と溜息を吐いた。
そのまま、ふたりはぽくぽくと馬を歩かせていく。
あの時……イグナーツが倒れたカルミナを庇うように立った時、一瞬だけ嬉しそうに笑ったのは、気のせいだったのだろうか?
――一瞬だけの錯覚でもなんでもいい。
イグナーツはカルミナの笑顔をもっとしっかり見たいと思ってしまった。
――竜ならこいつを殺せると思ったのに。
イグナーツの後ろで、カルミナは目を伏せる。
カルミナ自身の腕ではイグナーツを害することなど到底無理だと、この三ヶ月で痛いほどに思い知っていた。
何しろ、隙だらけに見えるのに驚くほど隙がない。おまけに気配にも敏(さと)く、何かを仕掛けようとすれば必ず察知されてしまう。
与えられた期間は、残すところあと九ヶ月だ。
自分は本当にやりきれるのだろうか?
偶然と成り行きを装い、首尾よく近づくことはできた。けれど、果たして本当に可能なのかと自信は揺らぎ疑念は増すばかりだ。
「カルミナ、どうした?」
「いや、疲れたなと考えていただけだ」
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