いつか夜明けをあなたと

ぎんげつ

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“娘”の物語

8.“父”/前篇

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「ラーべ」

 イグナーツの声が、優しく呼ぶ。
 胸に顔を埋めるラーベの背をそっと撫でて、イグナーツはそれから、たった今聞いたばかりの、その“護衛”の仕事のことを考えていた。
 たしかに、その時期にそんな仕事を引き受けた。賊の襲撃も受けたことも、その賊を逃してしまったこともよく覚えていた。
 それに、ラーべにはああ言ったが、しかし――

「けどな、ラーベ。ひとつだけ弁解させてくれないか?」

 イグナーツはラーベの頬に手を添えて、上を向かせた。わずかに眉を寄せるラーべの額にひとつキスをして、ひどく真剣な表情で、言葉を続ける。

「俺は、カルミナを殺していない」
「殺して……いない?」
「ああ、俺は殺しちゃいないんだ」

 はっきりと告げられた言葉にラーベは瞠目する。

「じゃあ、どうして――」



 あの時、イグナーツを護衛として雇っていたのはある領主だった。
 跡目争いのあおりで後継候補たちが欲をかいたのか、周囲がキナ臭くなってきたという理由だった。いよいよ次代への代替わりが迫り、それが無事に済むまでという内容で、護衛を依頼してきたのだ。

 問題のその日の夜更け、見張りを交代した直後だった。
 部屋に引っ込んだとたん急な胸騒ぎに襲われて、イグナーツは剣を手にとんぼ返りで領主の部屋へと走ったのだ。
 この胸騒ぎはいつもの“勘”で、つまり、領主が危ないということだと。
 “勘”の知らせたとおり、領主はたしかに賊の襲撃を受けていた。

 部屋の前には事切れた仲間の傭兵が倒れ伏し、中からは争うような音にくぐもった悲鳴――

「おい!」

 扉を乱暴に蹴り開けて中へ飛び込むと、もうひとりの傭兵が小柄な賊に追い詰められ、斬り倒されるところだった。

「領主どの!」

 イグナーツが慌てて確認すると、領主その人は部屋の隅に蹲っていた。幸い、まだ怪我もなかったようで、イグナーツは心の底からほっとした。
 賊は、邪魔が入ったと舌打ちをして、たった今斬り捨てたばかりの傭兵の身体をイグナーツへと蹴り飛ばす。イグナーツはそれを躱しながら斬り掛かった。
 数合斬り結び、一撃を与えて、イグナーツはこの相手なら問題ないだろうと考えた。賊も、イグナーツには敵わないと悟ったのか、即座に逃亡してしまった。

「あれは致命傷というほど深くはなかったはずだ。それくらいは手応えでわかるさ」

 イグナーツは嘘を吐いているようには見えない。
 ラーベは小さく頷く。
 でも、それならなぜなのか。

「それに、その三日後だか四日後だかに、結局、領主はられちまった」

 少し悔しそうに顔を顰めて、イグナーツは自分が外れた時間を狙われたのだと言った。二回目の襲撃にも“勘”は働いたのに、間に合わなかったのだ。
 ラーベは思わず見返した。
 問うような視線にイグナーツは少し考えてから、言葉を続ける。

「誰がやったかはわからない。だが、魔法も使う賊だったはずだ」
「――魔法」

 あの後――カルミナが失敗した後で魔法も使う賊だというなら……それに、何よりあの“父”が「失敗した」で依頼を終わらせるわけがない。

「ラーべ?」

 カルミナは、何を話したかったのだろう。
 あの日、自分の待つ森へ来るまでの間に、カルミナに何があったんだろう。
 思い返せば、あの日のカルミナはいつもと違っていた。なのに、ラーべはそれを見過ごして……いや、見なかったことにしてしまった。

「父さまは、カルミナを仕方のない子だって」

 “父”は、まるでカルミナとの別れ・・を終えるまで待っていたかのようなタイミングで、ラーべを迎えに現れた。
 カルミナとの待ち合わせの場所は、“父”に内緒だったはずなのに。

「カルミナは、父さまに手を掛けさせて、悪い子だって」

 なぜ忘れていたのだろう。
 なぜ考えなかったのだろう。
 “父”のことを「好きだ」と語るカルミナの言葉は、本当に、心の底からのものだったのか。そこに、何かが隠れていなかったか。

「私……私は……」
「ラーべ、大丈夫か?」

 いつもどこかに感じてた、けれど深く考えることなく押し込めていた歪な違和感のようなものが、どんどん膨れ上がってくる。
 バラバラだったものが集まって形を成していく。

 ――怖い。

 ガタガタと震えだすラーベをイグナーツはしっかりと抱きしめた。

「どうした、ラーべ」
「父さまは、私に、悪い子になったらいけないと言ったんだ。カルミナは、仕事が終わったらいろいろ話したいことがあると言っていて……」

 そう。
 “父”のもとを出る時に言われたのだ。カルミナのように自分をがっかりさせるなと。なぜ、“父”はわざわざそんなことを告げたのか。
 カルミナは、ラーべに何を話したかったのか。

「カルミナ、は」

 あの時、カルミナの背はべっとりと血で濡れていた。カルミナ自身の血で。
 背中に突き立つ短剣の傷は深く、よくここまでもったと思うくらいの出血だった。血止めをしようとするラーべを押し留めてもう無理だと、「このまま、どこかに」と。

 このままどこかに……何だと言おうとしたのか。

「カルミナの背には短剣が刺さっていて……」
「短剣は俺じゃない。俺が短剣を使わないこと、お前は知ってるだろう?」
「ああ……知ってる」

 そうだ、イグナーツにやられたのなら、大剣で大きく斬り裂かれた傷のはずだ。掴みあいにでもならなければ、彼が戦いで短剣を使うことはない。
 それに、あの短剣は突き立てられたというより、投げつけられたようで……。

 ひとりでカルミナを埋葬した後、ただ呆然としているだけのラーべを迎えに来た“父”は、何と言った?

「カルミナは期待はずれだったが、ラーベは期待に応えてくれるね?」

 あの時は何も考えられず、ただ、微笑む“父”の差し出した手を取って……。

「イグナーツ」
「なんだ?」
「私は父さまのところへ戻らなければいけない」
「ラーベ?」

 抱き締めるイグナーツの腕に力がこもる。
 ラーベの顔が、イグナーツへと向かされる。

「待てよ。いきなりなんだ?」

 イグナーツの覗き込んだラーベの目は、不安と恐怖に揺れていた。

「領主も、カルミナも、全部父さまがやったんだ」

 苦々しさに目を眇めて、イグナーツは「だろうな」と吐き捨てた。
 ここまでくればイグナーツにだって察しはつく。
 通り名は知らない。ただ、魔法と剣を自在に使いこなす手練れの暗殺者の話なら、どこかで聞いた覚えがある。

 ラーべもカルミナも、そいつに育てられて教育されたのか。生まれた時から自分を“父”と呼ばせておいて、それか。
 カルミナはそいつに反抗したか何かで始末された。
 ラーべは、カルミナに手を下した者がイグナーツなのだと思い込まされた。

 目的は知らない。
 もしかしたら、単にラーべの反抗心を試したいだけかもしれない。
 単に、思い通りに動くはずの人形が急に自分の意思を示したものだから、面白くなかっただけかもしれない。

「そんな父親がいて、たまるかよ」
「イグナーツ?」

 どうしてもイグナーツの腕が解けない。
 振り解こうと力を込めても、それ以上の力で抱き締め返してくる。
 
「か――カルミナは、悪い子だから罰を受けたんだ。私だって、結局、父さまの思うようにできなかった。だから」
「それがどうした」
「わたしがここにいたら、イグナーツも危ない。だから、私は戻って」

 イグナーツの力はますます強くなる。
 絶対にラーべを離さないと主張するように。

「だめだ」
「だって、イグナーツ」
「戻るな」
「だって、父さまは、すごく強いのに」
「大丈夫だよ」
「でも」
「もっと俺を信じ――」

 突然、イグナーツはラーベを抱えたままベッドの横へと転がり落ちた。
 間髪入れず、さっきまでふたりのいた場所にナイフが三本、刺さる。

「驚いた。本当に噂どおり勘がいい」
「驚いたのはこっちだよ。出るなら出るで、空気読んで後にしろっての」

 くつくつと笑いながら、いつの間にか“父”が部屋の中にいた。
 ラーべを背に庇うように立ち上がりながら、イグナーツはベッドに立て掛けていた大剣を取った。

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