いつか夜明けをあなたと

ぎんげつ

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“娘”の物語

8.“父”/後篇

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「悪い子だね、ラーベ」

 名を呼ばれ、ラーベの身体がびくりと震えて竦んだ。

「“父”の言い付けを守れないなんて、カルミナがどう思うだろうね。カルミナはお前のせいで死んだというのに、本当に悪い子だ」
「父さま」
「カルミナの命に免じて、私はお前に時間を与えたのだよ? まさか、長く一緒にいたから絆されたとでも言うのかい?」

 薄く笑みを湛えたまま、“父”はじっと部屋の隅に佇む。
 イグナーツは油断なく剣を構えるが、“父”は彼を無視して言葉を続けた。

「お前の出来の悪さには、本当にがっかりさせられる。だが――」

 “父”はまた、くっと笑った。

「それでも、お前には見込みがあるのだ。このまま私のところに戻るならこの男は見逃してやるが、どうする、ラーベ」
「ラーべは行かない」

 伸ばされた手を遮って、イグナーツはラーベを隠すように位置をずらした。

「行かせない!」

 宣言とともに、イグナーツはひと息にベッドを踏み越え、斬り掛かった。だが、“父”は難なくその斬撃を躱し、おどけたように肩を竦める。

「残念だが、時間切れのようだ、ラーベ」

 さっと振った手から、ナイフが放たれる。
 イグナーツの急所を正確に二箇所狙った刃は、けれど大剣の平が弾き返した。

「かわいそうに。ラーべ、お前のせいで、今度はこの男が死んでしまうね」

 ますます楽しそうに笑う“父”は、すらりと長剣を抜いた。



 “父”の剣は速い。
 イグナーツも速いが、やはり得物の差は大きい。大剣では速度で長剣に劣る。
 それでもイグナーツはよく躱しているし、“父”への斬撃も負けていない。何度も何度も繰り出される素早い斬撃を、イグナーツは危なげなく躱している。
 ラーべも、正直ここまでイグナーツが躱せるとは、思っていなかったほどに。

 “父”は小剣と短剣をラーべに教えたが、本来は長剣使いだ。
 ラーべの目から見ても、間合いの長さでイグナーツに分があっても、技量と速度では“父”に分があるとわかった。
 イグナーツは勘の良さでかなりを避けているけれど、それがいつまで続けられるかはわからない。

「なるほど、お前のその勘は、素養持ちだからか」
「何?」

 ラーべはハッと顔を上げる。
 魔法の素養を持つ者は、その魔法適性に応じて魔力を滲ませるものだ。イグナーツの尋常ではない勘の良さも素養ゆえだとしたら――
 “父”は、面白そうに口の端を歪めた。

「お前は感覚系の素養持ちなのだろう。だから、人より勘が働く。だがね」
「何のことだ?」

 訝しむイグナーツに、“父”は続ける。

「ならば、お前の魔法を阻害してやればいい。それだけでお前は動けなくなる」

 “父”が呪文を唱え始めた。
 イグナーツの斬撃を躱しながらなのに、詠唱は止まらない。

「だめだ!」

 ラーべはとっさに飛び出した。なるべく“父”の不意を突けるように死角を狙い、短い魔法とともに炎を放った。
 もちろん、“父”の唱えようとした魔法……感知疎外の魔法を阻止するために。

 この状況でイグナーツの“勘”が働かなくなるのは致命的だ。ラーべでもたやすく想像できるほど、致命的だ。

「ラーベ、“父”に逆らうのか。本当に悪い子だ」

 難なく避けはしたものの、さすがに詠唱を中断せざるを得なかった“父”が、ラーべをちらりと一瞥した。

「この魔法、父さまが、最初に教えてくれた」

 怯えは拭いきれないけれど、それでもラーベは顔を上げて“父”を睨んでいた。
 そんなラーベに、“父”はさらに楽しげに嗤った。

「そうだったね。だが、お前はまだまだ甘い。まだまだ未熟だ」
「――避けろ!」

 いきなり“父”の姿が消えた。
 ほとんど同時に叫んだイグナーツに強く腕を引かれ、ラーべはよろめく。たまらず一歩下がったところに、ほんの一瞬前までラーべがいた場所を、大きな炎が舐めた。
 お前は下がっていろと背後に押しやられて、ラーべは思わず唇を噛む。

「ほんとうに、これだから感覚系の素養持ちは厄介だよ」

 やれやれと首を振る“父”を、イグナーツは無言のまま剣で薙いだ。だが、“父”の結界の盾に阻まれ、傷を与えることができない。
 舌打ちをひとつして、しかしそれでもイグナーツは攻撃の手を緩めなかった。

「若い割に腕もなかなかだ。こんなに腕がいいのに、とても残念だよ」

 “父”は長剣でイグナーツの斬撃を滑らせた。流れるようにもう片手を伸ばし、短い呪文とともにまた炎を襲わせる。
 だが、イグナーツは即座に身体を滑らせて、炎の直撃を避けた。

「ほう、これも避けるのか」

 “父”は大げさに感心してみせる。
 立て続けに何度か魔法を放つが、イグナーツはその全部を避けてみせた。

 ――完全に遊ばれている、とラーべは思う。

 “父”は、完全に、ラーベとイグナーツで遊んでいる。
 本来なら、“父”がここまで戦いを長引かせることはない。魔法と毒と剣、それを駆使してさっさと対象を始末するのが“父”のやり方だ。
 なのに、今は剣とほんの少しの魔法だけで、イグナーツをまともに相手にしている。イグナーツとラーべふたり掛りでも、とうてい“父”には及ばないと考えているのだろう。
 それが慢心だとは、ラーべも思っていない。

 鎧を付けていないからとはいえ、イグナーツの身体はすでに傷だらけだ。浅く掠っただけとはいえ、あれは“いつでも仕留められる”という“父”の意思表示だろう。
 なのに、イグナーツは未だに一撃も“父”に当てられていない。

 おまけに、“父”とイグナーツの斬り合いでは、ラーベが加わることもできない。ふたりの斬撃を目で追うだけで精いっぱいでは、加勢したつもりでイグナーツの足を引っ張るだけだ。
 それに、魔法と剣を自在に操る“父”を相手にこの狭い室内では、イグナーツにとって不利しかない。得物の大きさが違いすぎる。

 不利さえ無くなれば。
 一瞬だけでも“父”に隙を作ることができれば。
 今、イグナーツのために自分にできることは。

 ラーべは、ギリっと歯を軋ませる。
 何か……何かができるはずだ。ラーべだって、黒と赤の双子として名を売って、腕がいいと評されたのだ。
 イグナーツより、“父”のやり方だって知っている。
 イグナーツの戦い方だって知っている。

 できるはずの何かを探してぐるりと見回して、それ・・が目に入った。

 ――ああ、きっと“父”には気づかれてしまう。

 だけど、イグナーツならなんとかしてくれるはずだ。
 イグナーツならちゃんとわかって動いてくれるはずだ。

 ラーベはベッドに刺さったままのナイフに手を伸ばし、短い魔法を唱える。
 この一撃を失敗すれば、もう後はない。

「ラーベ、お前はほんとうに悪い子になってしまったな」

 背後に現れることも予想のうちだったのか、“父”はラーベの現れた場所を振り向きもせず、無造作に剣で薙いだ。
 鋭い一閃は、イグナーツに庇う暇も与えなかった。
 けれどラーべは、肉を斬られる衝撃によろめきつつ、それでも右のナイフでかろうじて急所を守り、左のナイフを“父”に突き立てる。

 急所になんてまったく届かない、弱々しい一撃だった。
 肩をほんの少し斬り裂いただけだった。
 けれど、一瞬。本当にほんの一瞬だけ、“父”の意識は完全にラーベへと向いた。

「――イグナーツ!」

 ラーベの呼びかけと同時にイグナーツが大剣を振るう。
 その一撃が“父”の胸を浅く斬りつけて、初めて“父”の顔から笑みが消えた。
 ラーベが畳みかけるように背後からナイフを振るう。
 イグナーツも、返す手で大剣を薙ぐ。

 “父”が、膝をついた。

 ぱっくりと開いた喉からひゅうひゅうと息が漏れ、ぱくぱくと何かを告げるように“父”の口が動き……それから、ばたりと倒れた。 

「イグナーツ」

 目の前の光景が信じられなくて、ラーベはぺたりと座り込んだ。“父”に斬られた傷が熱く疼くように痛み始めて、ラーベの気が遠くなっていく。

「ラーベ、しっかりしろ!」

 慌てて駆け寄るイグナーツが、ラーべを抱き起すのを感じた。
 けれど、すぐにその声は遠くなり、そして何も聞こえなくなった。

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