7 / 64
第7話
しおりを挟む
それなりに幸せな毎日を送っていたある日の晩、食卓机の椅子に座った母がメソメソと泣いていた。父は残業で帰りが遅れているのか、たった1人きりで。ゴードンのところから戻って来た私は、母の涙を見てギョッとした。もしやお腹の子に何かあったのでは――母の体調が悪いのではないかと焦ったのだ。
大慌てで母の元へ駆け寄れば、涙に濡れた瞳でじっと見上げてきた。
「――どうしたの母さん、平気? どこか痛いの……? 病院、行く?」
なぜ泣いているのかひとつも分からなかったけれど、とにかく落ち着かせなければと思った。私はつい癖で、まるで子供の相手をするように目線を合わせると、ゆっくり問いかけた。すると母は、ますます顔を歪めて涙を零す。
「セラス……私、私……どうしよう、やっぱり自信がないの……」
「……自信?」
「ちゃんとした母親になれる自信がない――」
両手で顔を覆う母に、私は最初、涙の理由を誤魔化すために冗談を言っているのだろうかと思った。母親になれる自信も何も、彼女は既に私の母親なのだから。なんと声を掛けて良いものか分からず、ただ詳しく話を聞こうと震える肩を撫でた。
「お腹の子が生まれても、また甘えてもらえなかったら……頼ってもらえなかったらダメなの。どっちが子供か分からないなんて言われたら、母親失格で――それが嫌だから、ずっと子供をつくらないようにしていたのに。でも、できたことが嬉しいのは確かだし……どうすれば良いのか分からない……」
「え……と、それ、は――」
二の句が継げなかった。母の告白は、私にとってあまりにも衝撃的だったのだ。
甘えて欲しいなんて、今までに言われたことがあっただろうか? 頼って欲しいだなんて、母親失格だなんて、一言も――。
しかしふと、幼い頃はよく「疲れたでしょう? お母さんが抱っこしようか?」なんて聞かれていたことを思い出した。けれど私は、迷惑をかけてなるものかと躍起になって母の言葉に一度も頷かなかった。
そもそもの話、歩けないほど疲れるとか、抱っこしてもらわなければやっていられないとか、そんな状態に陥ったことがなかったのだ。
別に甘えたくなかった訳じゃない。甘える必要性を見出せなかっただけだ。別に母が頼りにならないと思っていた訳じゃない。人の手を借りねば成し遂げられないような難関には、初めから手を出さなかっただけだ。私は誰よりも私の限界を知っていた。だから欲張らずに、ただ自分の手が届く範囲のことだけをこなしていた。
――それに私は、一度だけ理由もなしに試し行動をしてみたことがある。なんとなく甘えたかったから、仕事で忙しい母の服を引いて遊んでとお願いしたことがあるのだ。初めから無茶なお願いだと理解した上で、自分がどれほど愛されているのか確かめてみたくなったから。単なる好奇心だ。
あの日は、まるで花占いでもしているような気分だった。母が私を好きなら、ほんの少しでも時間を割いてくれるだろう。もしも好きじゃないなら、きっと冷たく突っぱねられてしまうだろう――と。
しかし結果は、聞こえぬフリだった。母は私を見向きもせず、かと言って「向こうへ行っていなさい」と追い払う訳でもなく、無心で書類と向き合っていた。遊べるはずがないことは分かっていたのだ。だから構ってくれないことに対する心構えはできていた。――ただ、まさか居ない者として扱われるとは思わなかった。
幼い私はしばらくその場に立ち尽くしたまま母の反応を待ったが、やがてどうにもならないと察してその場を離れた。
成長した今ならば、単に私のタイミングが最悪だっただけということが分かる。別の日に改めて同じ行動をすれば、きっと母はこれでもかと構ってくれただろう。でも幼い頃に経験したたった一度の『失敗』は、私をこれでもかと臆病にした。
二度と失敗してはいけないと、まるで呪いのような強迫観念にとらわれたのだ。その日以来私は、頑なに甘えから遠ざかった。
――私は一体、どうすれば良かったのだろうか。母をいじめから守る盾になるのではなくて、母の自尊心を守るためだけに、何もできない子供のままでいた方が良かったのか。私が守れば守るほど、母の心は傷ついていたのかも知れない。親なのに何もできない、何もしてあげられないと、勘違いさせてしまったのだろうか。
どちらが子供か分からないだなんて、そんな酷い侮辱を受けていたことに今までひとつも気付かなかった。私はただ、両親に褒めてもらいたかっただけなのに。しっかりしているところを見せれば周りが喜んだから、父も母も誇らしげに笑ったから、だから――。
「その……ごめん、なさい。私、そんなつもりはなかったの――母さんも父さんもたくさん愛してくれたから、特別甘えたいとか、なくて……」
どうすれば良いのか分からないまま、とりあえず母を慰めなければと思った。「あの時、母さんが無視したからよ」なんて、激しく責め立てた方が子供らしかったのかも知れない。
とは言え、例えこれだけ大きな衝撃を受けたとしても、今まで甘えは悪と思って生きてきたのだ。そう簡単には、生き方を改められなかった。
母はおもむろに顔を覆っていた両手を下げると、涙に濡れた虚ろな眼差しで、薄ら寒くなるほど酷薄な笑みを浮かべた。
「――ああ、ほら、やっぱり。母親にこんな酷いことを言われたって、セラスはなんともないんだわ。涙ひとつ流さずに慰めて、これじゃあ本当にどっちが子供だか……どこまでも私を惨めにさせるのね……」
私は喉を引きつらせた。口を開けば開くほど、墓穴を掘る気しかしなかったからだ。
大慌てで母の元へ駆け寄れば、涙に濡れた瞳でじっと見上げてきた。
「――どうしたの母さん、平気? どこか痛いの……? 病院、行く?」
なぜ泣いているのかひとつも分からなかったけれど、とにかく落ち着かせなければと思った。私はつい癖で、まるで子供の相手をするように目線を合わせると、ゆっくり問いかけた。すると母は、ますます顔を歪めて涙を零す。
「セラス……私、私……どうしよう、やっぱり自信がないの……」
「……自信?」
「ちゃんとした母親になれる自信がない――」
両手で顔を覆う母に、私は最初、涙の理由を誤魔化すために冗談を言っているのだろうかと思った。母親になれる自信も何も、彼女は既に私の母親なのだから。なんと声を掛けて良いものか分からず、ただ詳しく話を聞こうと震える肩を撫でた。
「お腹の子が生まれても、また甘えてもらえなかったら……頼ってもらえなかったらダメなの。どっちが子供か分からないなんて言われたら、母親失格で――それが嫌だから、ずっと子供をつくらないようにしていたのに。でも、できたことが嬉しいのは確かだし……どうすれば良いのか分からない……」
「え……と、それ、は――」
二の句が継げなかった。母の告白は、私にとってあまりにも衝撃的だったのだ。
甘えて欲しいなんて、今までに言われたことがあっただろうか? 頼って欲しいだなんて、母親失格だなんて、一言も――。
しかしふと、幼い頃はよく「疲れたでしょう? お母さんが抱っこしようか?」なんて聞かれていたことを思い出した。けれど私は、迷惑をかけてなるものかと躍起になって母の言葉に一度も頷かなかった。
そもそもの話、歩けないほど疲れるとか、抱っこしてもらわなければやっていられないとか、そんな状態に陥ったことがなかったのだ。
別に甘えたくなかった訳じゃない。甘える必要性を見出せなかっただけだ。別に母が頼りにならないと思っていた訳じゃない。人の手を借りねば成し遂げられないような難関には、初めから手を出さなかっただけだ。私は誰よりも私の限界を知っていた。だから欲張らずに、ただ自分の手が届く範囲のことだけをこなしていた。
――それに私は、一度だけ理由もなしに試し行動をしてみたことがある。なんとなく甘えたかったから、仕事で忙しい母の服を引いて遊んでとお願いしたことがあるのだ。初めから無茶なお願いだと理解した上で、自分がどれほど愛されているのか確かめてみたくなったから。単なる好奇心だ。
あの日は、まるで花占いでもしているような気分だった。母が私を好きなら、ほんの少しでも時間を割いてくれるだろう。もしも好きじゃないなら、きっと冷たく突っぱねられてしまうだろう――と。
しかし結果は、聞こえぬフリだった。母は私を見向きもせず、かと言って「向こうへ行っていなさい」と追い払う訳でもなく、無心で書類と向き合っていた。遊べるはずがないことは分かっていたのだ。だから構ってくれないことに対する心構えはできていた。――ただ、まさか居ない者として扱われるとは思わなかった。
幼い私はしばらくその場に立ち尽くしたまま母の反応を待ったが、やがてどうにもならないと察してその場を離れた。
成長した今ならば、単に私のタイミングが最悪だっただけということが分かる。別の日に改めて同じ行動をすれば、きっと母はこれでもかと構ってくれただろう。でも幼い頃に経験したたった一度の『失敗』は、私をこれでもかと臆病にした。
二度と失敗してはいけないと、まるで呪いのような強迫観念にとらわれたのだ。その日以来私は、頑なに甘えから遠ざかった。
――私は一体、どうすれば良かったのだろうか。母をいじめから守る盾になるのではなくて、母の自尊心を守るためだけに、何もできない子供のままでいた方が良かったのか。私が守れば守るほど、母の心は傷ついていたのかも知れない。親なのに何もできない、何もしてあげられないと、勘違いさせてしまったのだろうか。
どちらが子供か分からないだなんて、そんな酷い侮辱を受けていたことに今までひとつも気付かなかった。私はただ、両親に褒めてもらいたかっただけなのに。しっかりしているところを見せれば周りが喜んだから、父も母も誇らしげに笑ったから、だから――。
「その……ごめん、なさい。私、そんなつもりはなかったの――母さんも父さんもたくさん愛してくれたから、特別甘えたいとか、なくて……」
どうすれば良いのか分からないまま、とりあえず母を慰めなければと思った。「あの時、母さんが無視したからよ」なんて、激しく責め立てた方が子供らしかったのかも知れない。
とは言え、例えこれだけ大きな衝撃を受けたとしても、今まで甘えは悪と思って生きてきたのだ。そう簡単には、生き方を改められなかった。
母はおもむろに顔を覆っていた両手を下げると、涙に濡れた虚ろな眼差しで、薄ら寒くなるほど酷薄な笑みを浮かべた。
「――ああ、ほら、やっぱり。母親にこんな酷いことを言われたって、セラスはなんともないんだわ。涙ひとつ流さずに慰めて、これじゃあ本当にどっちが子供だか……どこまでも私を惨めにさせるのね……」
私は喉を引きつらせた。口を開けば開くほど、墓穴を掘る気しかしなかったからだ。
0
あなたにおすすめの小説
【完】夫に売られて、売られた先の旦那様に溺愛されています。
112
恋愛
夫に売られた。他所に女を作り、売人から受け取った銀貨の入った小袋を懐に入れて、出ていった。呆気ない別れだった。
ローズ・クローは、元々公爵令嬢だった。夫、だった人物は男爵の三男。到底釣合うはずがなく、手に手を取って家を出た。いわゆる駆け落ち婚だった。
ローズは夫を信じ切っていた。金が尽き、宝石を差し出しても、夫は自分を愛していると信じて疑わなかった。
※完結しました。ありがとうございました。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
『すり替えられた婚約、薔薇園の告白
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢シャーロットは幼馴染の公爵カルロスを想いながら、伯爵令嬢マリナの策で“騎士クリスとの婚約”へとすり替えられる。真面目なクリスは彼女の心が別にあると知りつつ、護るために名乗りを上げる。
社交界に流される噂、贈り物の入れ替え、夜会の罠――名誉と誇りの狭間で、言葉にできない愛は揺れる。薔薇園の告白が間に合えば、指輪は正しい指へ。間に合わなければ、永遠に
王城の噂が運命をすり替える。幼馴染の公爵、誇り高い騎士、そして策を巡らす伯爵令嬢。薔薇園で交わされる一言が、花嫁の未来を決める――誇りと愛が試される、切なくも凛とした宮廷ラブロマンス。
皇帝の命令で、側室となった私の運命
佐藤 美奈
恋愛
フリード皇太子との密会の後、去り行くアイラ令嬢をアーノルド皇帝陛下が一目見て見初められた。そして、その日のうちに側室として召し上げられた。フリード皇太子とアイラ公爵令嬢は幼馴染で婚約をしている。
自分の婚約者を取られたフリードは、アーノルドに抗議をした。
「父上には数多くの側室がいるのに、息子の婚約者にまで手を出すつもりですか!」
「美しいアイラが気に入った。息子でも渡したくない。我が皇帝である限り、何もかもは我のものだ!」
その言葉に、フリードは言葉を失った。立ち尽くし、その無慈悲さに心を打ちひしがれた。
魔法、ファンタジー、異世界要素もあるかもしれません。
【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される
風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。
しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。
そんな時、隣国から王太子がやって来た。
王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。
すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。
アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。
そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。
アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。
そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。
前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!
ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。
前世では犬の獣人だった私。
私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。
そんな時、とある出来事で命を落とした私。
彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。
【完結】番(つがい)でした ~美しき竜人の王様の元を去った番の私が、再び彼に囚われるまでのお話~
tea
恋愛
かつて私を妻として番として乞い願ってくれたのは、宝石の様に美しい青い目をし冒険者に扮した、美しき竜人の王様でした。
番に選ばれたものの、一度は辛くて彼の元を去ったレーアが、番であるエーヴェルトラーシュと再び結ばれるまでのお話です。
ヒーローは普段穏やかですが、スイッチ入るとややドS。
そして安定のヤンデレさん☆
ちょっぴり切ない、でもちょっとした剣と魔法の冒険ありの(私とヒロイン的には)ハッピーエンド(執着心むき出しのヒーローに囚われてしまったので、見ようによってはメリバ?)のお話です。
別サイトに公開済の小説を編集し直して掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる