セレナーデ

桔梗

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episode3

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玄関を開けると、リビングからテレビの音が聞こえてきた。

「おかえりー」

妹の美月がソファから顔を出す。
スマホを片手に、動画を見ている。

「ただいま。何見てんだ?」

「芸能ニュース。てかさ、ここお兄ちゃんの学校だよね?」

美月がスマホを差し出す。

そこには、"IORI"の転校の記事が出ていた。

「……ああ」

喉が、かすかに鳴った。

「なんか知ってる?」

「同じクラス」

「えーーーー!!まじで!?いいなーーーー!!やっぱかっこいいの!?ねえ!どうなの!?」

「……ああ、まあ」

「なにその反応ー!お兄ちゃん面白くないー」

「悪かったな」

不貞腐れた妹を横目に自室へ向かった。

***

ベッドに横たわり、検索欄に《NEBULA メインボーカル IORI》と打つ。

画面に、無数の記事が並ぶ。

《NEBULA メインボーカル "IORI"、脱退&無期限活動休止の真相とは?》
《NEBULA"SHU"の死の真相は?》
《“純情アイドル”の裏の顔》

百合川は、こんなふうに見せ物にされて生きてるのか。
こいつらは人の人生を、こうして好奇心で踏みにじる。
だからあいつはーーあんなふうに怯えたり、言葉に詰まったりするんじゃないのか?

「……くだらねぇ」

朔は、画面を閉じて、小さく息を吐いた。

その時、ふと、昼間の中庭での光景が浮かぶ。
百合川が、ベンチに座って、風に揺れる葉をぼんやりと見ていたどこか悲しげな横顔。

誰にも見られていないと思っていたーーあの、少しだけ気を抜いた表情。

(……あれが、あいつの本当の顔なんだろ)

スマホを伏せ、ベッドに投げる。
それとほぼ同時に、ドアをノックする音が聞こえた。

「……お兄ちゃん?」

美月の声だ。

「入るよー?」

「どうした?」

ドアが開き、美月が顔を出す。

「あのさぁ……」

言いにくそうに、視線を泳がせる。

「IORIくんのことだけどさ、さっきは興奮しちゃって取り乱したけど…」

「なんだよ」

「IORIくんさ、今、きっとすごく辛いと思うんだ…」

指が、わずかに強張る。

「だからさ…お兄ちゃんは優しくしてあげてね?」

俺は、ゆっくりと妹を見る。

「……なんで俺が?」

「だって……」

美月は、唇を噛む。

「……とーにーかーく、お兄ちゃんは優しくしてあげて!」

「はいはい、わかりましたよ」

少しめんどくさそうに答えると、美月は、少しだけ安心したように笑って、部屋を出ていった。

妹が出て行った後も、俺はしばらく扉を見ていた。

「……優しく、ね」

口に出した瞬間、自分の声が自分のものじゃないみたいに聞こえて、少しだけ眉をひそめる。

”優しい”なんて言葉は、俺には似合わない。

スマホに再び手を伸ばし、記事の一つを開く。

長文のインタビュー形式だったが、同じ言葉が何度も目に入った。

《心配をかけてごめんなさい》
《迷惑をかけてごめんなさい》

(……謝ってばっかりだったな、あいつ)

記者に囲まれて、動けなくなって、塀の陰でしゃがみ込んで、『ごめんなさい』って、息を吐くみたいに何度も言ってーー。

朔はスマホを握る手に力が入っていることに気づいて、そっと力を抜いた。

ふと、部屋の隅のギターケースが目に入る。
黒い布に包まれたまま、部屋の隅で息を潜めている。

机に向かい、ノートを開く。
ペンを握って、何か書こうとしたが、結局書けなかった。

(もう二度と曲は書けないかもしれないな)

そう思って項垂れていると、携帯がなった。

時雨:『朔ー!これ、見た?(リンク)』

リンクを開くと、それは動画サイトの切り抜きだった。
NEBULAのライブ映像。

観客の歓声の中、7人のシルエットの中に、百合川がいた。
まるで別人のようだった。

百合川のソロパートになった瞬間ーー心臓が止まるかと思った。

これはーー紫苑の声だ。
いや、そんなわけないってわかってる。けどーー。

あまりの衝撃にしばらく固まっていたが、時雨が送ってくれた物以外のサイトもいくつも検索して、百合川のソロパートだけを何度も聞いた。

(なんなんだよ一体……)

朔:『おい、なんだよこれ』

時雨:『どうだった?』

朔:『お前、何が言いたいの?』

時雨:『俺の言いたいこと、わかるだろ?』

俺はそれ以上返事を打てず、スマホを伏せた。

代わりに、机の引き出しから古い箱を出す。

箱を開けると、懐かしい匂いがして、一瞬であの頃に引き戻されそうになる。

中に入っているのは、ライブのチケット半券、書きかけの歌詞ノートの切れ端、
そして――中学最後の文化祭での写真。

気づいたら、涙が込み上げていた。
ずっと見ないようにしていたのにーー。

写真の端が、少しだけ濡れて、慌てて袖で拭う。

泣くつもりなんてなかった。
泣く資格もないと思っていた。

***

カーテンの隙間から差し込む朝の光がまぶたを容赦なくこじ開けた。

「……もう朝か」

枕元のスマホを手探りで掴む。
通知は特にない。

(そういや、時雨に返信してなかったな)

水を飲んで、顔を洗う。
鏡に映った自分は、死んだような顔をしていた。

ちゃんと眠れた気がしない。
きっと、昨日、百合川の動画を見たせいだ。紫苑のことまで思い出してしまった。

制服に袖を通し、ネクタイを締める。指先が妙に鈍い。
机の端に置きっぱなしになっていた、あの古い箱を一瞬だけ見て視線を逸らす。

「お兄ちゃん、行ってらっしゃーい!……ね、優しくしてあげてね!」

「はいはい」

適当に返し、家を出た。

団地には、湿った朝の空気が満ちている。
外は掃除をしているおじさんと、子供たちの声。
この景色だけはずっと変わらない。

変わったのはーー

階段を下り、いつもの場所へ向かう。
コンクリートの角、植え込みの前。そこに蓮が立っていた。

「おはよ」

「おはよ」

蓮は言葉が少ない。けれど、言葉が少ない分だけ、余計なことも言わない。
しばらくして、背後から誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。

「おっはよー!」

時雨が、相変わらず無駄に明るい声で現れた。

隣の高級マンションから、毎朝わざわざ団地まで来て合流するのが、三人の習慣だった。

マンションの前まで迎えに行くようなことはしない。
時雨が「こっちのほうが楽しいし」と言って勝手に来るからだ。

「朔、なんか顔死んでない?」

「うるせぇ」

「いやいやマジで。目、寝起きの猫みたいになってるよ~」

「黙れ」

時雨はケラケラ笑いながら俺の肩を軽く叩く。

蓮はそのやり取りを見ても、何も言わない。
ただ、時雨のテンションが上がりすぎないように、少しだけ歩く速度を落とした。

「昨日、寝れなかった?」

「別に」

「また”別に”って言ってる~」

「……」

「だって昨日のこと、気になるじゃん」

時雨はわざとらしく声を落とす。

「……」

「IORIの声、似てたでしょ?」

「誰にだよ」

「わかってるくせに」

時雨が真剣な顔になる。
蓮が黙っているということは、すでにこの二人の間では会話済みということだろう。

「もうその話やめてくれ」

蓮と時雨が顔を見合わせて黙り込んだ。
時雨が再び口を開く。

「そういえばさ、昨日の……今朝、ネットニュースになってたよ?」

「何が?」

「朔とIORIの写真。まあ、朔の顔にはちゃんとモザイク入ってたけどさ、見る人が見ればわかるよねー」

「……」

「今日も来てるんじゃない?記者とか」

「そんなに毎日来るもんか?」

「わかんない。けど、ネットでは結構騒がれてるよ」

「は?」

時雨は淡々と続ける。

「IORIの転校先、特定しようとしてる奴がいて、まあその中にはファンもアンチもいるよね」

「……学校名までは出てない?」

「今のところはね」

時雨が、今度は妙に真面目な声で言った。

「今日さ、もし校門にまた人いたら、どうする?」

「……俺には関係ねえよ」

「うそ。朔そんなこと言いながら、結局助けてあげるんでしょ?」

「しねぇって」

「昨日はしてたじゃん」

時雨と言い合っていると、蓮が口を開いた。

「騒ぎになりそうなら、ちゃんと距離取れよ。余計なことには関わらないこと。いいな?」

「……お前、たまに親みたいなこと言うよな」

時雨が横から笑う。

「蓮はねー、俺たちの保護者なんだよ」

「違う」

即答が重なり、三人の間に、薄い笑いが落ちた。
紫苑がいない日常に慣れたくないくせに、慣れてきてしまっている自分たちがいる。
そのことがたまらなく悲しい。

校舎が見えてくると、やけに騒がしい声が聞こえてきた。

無意識に、校門のあたりを見渡す。

「……あ」

時雨が、遠くを指差す。

校舎前の掲示板の近くに、人だかりができていた。
数人の女子、男子、後ろから覗き込む他クラスらしき生徒。スマホを構えているやつもいる。
中心にいるのは、――百合川依織だ。

胸の奥が、静かにざわめく。

「あちゃ~囲まれてるな~」

時雨が小さく言う。

蓮がため息をつく。

「昨日と同じか。あいつらほんと暇人だな」

朔は、足を止めなかった。

(俺には関係ない)と頭の中で何度も言い聞かせる。

俺はただのクラスメイトだ。昨日はたまたま助けただけ。
優しくする義務も、守る責任もない。
……ないはずだ。

だが、人だかりの中から聞こえてくる声が耳に入る。

「ねえ、ほんとにIORIなの?なんかイメージと違うよねー!」

「一言だけでいいから、なんか言ってよ」

「写真撮っちゃダメ?SNSには載せないからさー!」

百合川は、反応が遅い。
頷くでも否定するでもなく、ただ目だけが動いている。
昨日の塀の陰でしゃがみ込んだ時と同じ目だ。

意識していないのに、体が勝手にそっちへ近づこうとする。

「朔」

蓮が低い声で呼んだ。

「行くのか?」

その一言で、朔は我に返る。
自分が、今どこへ向かおうとしていたのかに気づいて、背中に冷たい汗が浮かぶ。

(……何してんだ、俺)

時雨が、朔の横顔を盗み見る。

「……でもさ」

言いかけて、飲み込む。
時雨にしては珍しく、言葉が途切れた。

人だかりの向こうで、百合川が一歩だけ後ろに下がった。
誰かが、その腕を掴むのが見えた。
百合川の肩が小さく跳ねる。

(……またかよ!)

昨日と同じ場面が繰り返されようとしている。

そのとき、百合川がふと顔を上げた。
人だかりの隙間から、こちらを見る。
目が合った、気がした。

(……期待すんなって言っただろ)

なのに、あの目はずるい。安心したような目しやがって。

「すみません、こいつ連れて行くんでどいて下さい」

声を低くして言う。
すると数人が振り返った。

「あれ、桐生くんだ」

「なになに?IORIのナイト様?」

「は?」

くだらない。
それでも、そのくだらなさが一瞬だけ空気をゆるめた。

百合川は、視線を落としたまま動かない。
指先が、俺の制服の裾をぎゅっと掴んでいる。

「……教室行くぞ」

百合川の肩が、わずかに震えた。
それから、ほんの小さく頷く。

百合川が、かすれる声で言った。

「……ごめ……」

「言うな」

その言葉を遮ると、百合川は口を閉じた。

教室までの廊下が、今日はやけに長く感じた。
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