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第6話
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――そこには、ふらふらと今にも倒れそうに立っている人間がいた。
驚いたぼくは思わず身を引いた。察しのいい桜はすぐに背後からどいてくれた。
相手はよろよろと、こちらに向かってきた。警察官の制服を着てはいたが、全員が退避したはずの警察署に警察官が残っているはずがなかった。
鍵のかかった部屋に閉じ込められていた者が、正常な人間であるはずがなかった。外に出したくなかった者――つまりそれは、1体の錯乱患者だった。
後から分かったことだが、錯乱患者は多少絶食に強い程度で、食べ物がなければ簡単に衰弱するようだった。あのとき室内にいた錯乱患者はおそらく警察署員が退避してから7日間に渡って取調室に閉じ込められており、食料はおろか水もなく、餓死寸前だったのだと思う。だから動きが緩慢で、声もせきも出せていなかったのだろう。
……そのせいで、そいつが中にいることが分からなかった。
この時ぼくは一歩踏み込んでドアノブをつかみ、内開きのその扉を閉めるべきだった。
だが実際にとった行動は逆だった。すぐそこにいる錯乱患者への恐怖に打ち負けて一歩二歩と後ずさった。そして、そいつがよろよろと向かって来るのを見て気圧されるようにまた下がった。
桜の表情は見ていなかった。ただ、ぼくが後ずさるのを妨げないよう左へ避けてくれていた。
ぼくがあまりに後ずさったため、ぼくは桜よりも後ろへ下がってしまった。そしてこの時は、扉の左側、死角に入ってしまっていた。桜の位置からは、中の様子が見えていなかった。
ずるりと扉を抜けた錯乱患者は、桜の目前に出る形となった。この時、息をのんだだけで声を上げなかった桜は、やっぱり強いひとだった。
だが、錯乱患者が気付くにはそれで十分だった。正面でおびえるぼくよりも、横で息をのんだ桜のほうが近かった。錯乱患者は、ゆっくりと桜のほうを向いた。
ああ、いっそ桜が怖がりだったらこんな結果にはならなかっただろう。ぼくみたいに恐怖にかられて後ずさってくれれば――
桜は下がらなかった。立ちすくんだわけでもなかった。ただとっさに、下がるという動作を思いつけなかった。桜は床を踏みしめてその場に立って、倒れ込むように襲いかかる錯乱患者に対し、右腕を上げて身体をかばった。
そのとき錯乱患者の口は大きく開いていた。横から見ていたぼくにはよく見えた。
桜の声が――
「痛あ――っ!」と絞り出すような声が聞こえて――ぼくは「気付いた」が、それを信じたくなくて頭の隅に追いやった。
ぼくはこの時になって、ようやく前に出た。ふらふらで活力の感じられない錯乱患者の肩をつかみ、力ずくで桜から引き離した。桜は声にならないうめきをあげた。
ぼくは桜から引き離した錯乱患者の両肩をつかみ、室内へ向け突き飛ばした。衰弱していたそいつは簡単に室内に倒れ込んだ。ぼくは室内に踏み込んでドアノブをつかみ、勢いよく扉を閉じた。
ぼくはすぐそばに座り込んでいる桜を見た。桜は右腕を左手で押さえ、すこし背を曲げていた。
ぼくは桜に大丈夫かと聞いたが。桜は苦しげに「だ、大丈夫」と言った。
ぼくは、戻ろう、と言って数歩進んだ。桜が立ち上がってついてきたので、ぼくはそのまま警察署内を出口へ向け急いだ。もう足音なんか気にしてはいなかった。
警察署を出たぼくたちは敷地をまっすぐ突っ切って、道路に並んだバスの間を抜け、死角の先も確かめないで桜の家を目指した。
幸い何者にも出会わず、ぼくたちは家にたどり着いた。
ぼくたちがふたりで暮らしたその家は、またぼくたちを迎え入れてくれた。
だが、桜が家の鍵を取り出した時――押さえていた手を放した時、ぼくは見てしまった。
桜の右腕の袖には、くっきりと深い歯形がついていた。
家に上がって、ぼくはとりあえず桜を居間に座らせた。その時桜はぼくの顔を見上げた。本人としてはは平気そうな顔を見せたつもりだったのだろう。
でもそれにはだいぶ無理があった。ややこわばった表情が、まだ痛みが引いていないことを物語っていた。右腕を押さえる手は震えていた。
ぼくはこの期に及んで、まだ桜は大丈夫だと思っていた。あの衰弱していた錯乱患者の噛む力は、普通のそれよりも弱かったはず。歯が食い込んだのは服までで、桜が痛がったのは歯で腕を強く挟まれたせいだ――と。
ぼくたちはしばらく、そのまま黙っていた。ぼくは袖をまくらせようとしなかったし、桜もまくろうとしなかった。
……見たくなかった。
長い沈黙――いっそそのまま時が止まってしまえばとさえ思ったが……ついに、桜は押さえていた手を放し、少し表情をゆがめながら、ゆっくりと右の袖をまくった。
現れたなめらかそうできれいな素肌、そこに――
――暴力的につけられた、血のにじんだ歯形。
桜は、噛まれていた。
ぼくはそれを何とかしようと思った。
こいつは病気の一種、病原体が何だか分からないが、噛まれた傷から体内に入るもの。それなら――まず傷口をきれいにするべきか。きれいな水――水道は出ない、雑用の水はやや不安、なら――
ぼくは飲料水のペットボトルを手に取り、桜を台所へ連れて行った。桜はついてはきたが、顔はぼくの方を向いているのに目は、ぼくを見ていないように思えた。
ぼくは流しで桜に腕を出させて、ごめん、痛いと思うけど我慢して、と言って未開封だったペットボトルのキャップを開けた。
その音を聞いた桜は急に我に返って、「やめて、いいから――」と言ったがやめるわけにはいかなかった。大丈夫、なるべくすぐ済ませるから、となだめたが、桜は「やめて――だめ!」とヒステリックな声を出した。桜のそんな声は聞いたことがなかったが、噛まれたことに対するショックのせいだろうと思った。
桜は肘でぼくを押しのけようとした。目には涙が浮かんでいた。ぼくを押した肘の力は、思ったよりだいぶ強かった。
ぼくはそれを押し留めて、桜の傷口に水をかけた。桜は表情を歪めながら、「やめて、もうやめて」と言ってぽろぽろ涙を流したが、ぼくは大丈夫、大丈夫だから、と言いながらひたすら水をかけた。
手にしていたペットボトルを空にして、ようやくぼくは満足した。まずはこれでいいだろう、と。
それから、ネットがまだ繋がっていた時期に流れてきた「噛まれた場所より心臓に近い部分をきつく縛る」という対処法を思い出した。
ぼくは桜を居間に座らせた後、包帯の置いてある場所を聞いて、探し出して桜のそばに戻った。
桜に服を半分脱がせ、二の腕を出させた。だいぶ素肌が露わになったが、どきりとはしなかった。これがうまくいったらまた、いつでもどきどきできるから――そう思って、意識はしなかった。
ぼくは桜の二の腕に包帯を強く巻き付けた。桜はぼくにされるがままで、何も抵抗しなかった。この時どうして抵抗しなかったのかは今でも分からない。
腕の傷口にもそっと包帯を巻いてから、服を元通りに着せて、大丈夫、どうってことないよ、とぼくは言った。桜は「うん」と小さな声で答えた。
ぼくは桜に寄り添って、ふたりでこたつの前に座っていた。桜が元気を取り戻して、また以前のような生活に戻れるまで、ずっとそうしていようと思っていた。
しかし、それからすぐのことだった。桜が「けほっ」と、小さくせきこんだ。
ただのせきだ、なんともない――ぼくはそう考えた。桜が噛まれたせいで、そして飛沫感染のことが頭にあったせいでぼくがせきに敏感になった――単にそれだけのことだと考えた。
今思えば、そんなはずはなかった。確かにそれまで、桜はせきなんてしていなかった。警察署へ向かう時、桜はぼくのすぐ隣にいたが、せき込んではいなかった。
おそらく――いや確実に、桜は感染していたのだ。感染爆発の初めの頃に見たニュースでは、最も短い場合は噛まれてから錯乱まで1時間程度と言っていた。病原体が身体中を巡るのはもっと早いはず。噛まれてから警察署を出て、桜の家に戻るまで、ぼくたちは何の処置もしなかった。「処置」とやらが有効だったかはこの際置いておくとして、家に戻る頃にはもう、桜は病原体に侵されていたのだ。
せきが出始めたのは、桜の身体を侵した病原体が体外へ放出されはじめたからに違いなかった。
せきの音を聞くと思い出されるのは数年前まで流行った感染症――今でもまだ、ぞっとする。
……そうだ、桜の傷口を何とかしなければ――ぼくはそう考えた。まだ水で洗って包帯を巻いただけだ。何か変な菌でも入ったらまずい、病院なんてもう当てにできないのだから――そう思った。
市販の傷薬でも、塗らないよりだいぶましだろう、錯乱患者に出くわす危険はあるが探してこよう――
それを伝えると、桜は悲痛な面持ちでこくりとうなづいた。ぼくは出来る限り力強くうなづいて、桜のリュックを背負い、途中で飲むために中身の残った水のペットボトルを入れて、足早に家を出た。鍵がないので玄関は施錠できなかったが、錯乱患者はドアを開けられないから大丈夫だろうと思ってそのままにした。
傷薬があるのは薬局か。いや、その程度ならコンビニにあるかもしれない、当てずっぽうに歩いていてもそのうち見つかる――そう思って、外の空気を吸いながら慎重に歩いた。
そしてぼくは、手ぶらで桜の家に戻ってきた。
コンビニも薬局も、場所を知らなければたどり着けはしなかった。どこかに錯乱患者が紛れている街の中を、自由に歩けるわけがなかったのだ。
帰ってきたぼくは玄関を開けて中に入って小声で、ただいま、優だよ、と言った。
桜の声はしなかった。
居間を覗くと、桜はこちらに背中を向けて、こたつに突っ伏して眠っていた。
あれだけのことがあったんだ、きっと疲れ果ててしまったのだろう――そう思った。
居間に入ると妙な臭いがした。
こんな臭いのするものはあっただろうか――ぼくは首をかしげたが、桜が何か開けでもしたのだろうと思った。
眠っている桜のすぐ横には、ガラスのコップが置いてあった。こたつの向こう側には、1枚の紙が置かれていた。それは手紙に使う便箋らしく、几帳面な桜の字がずらりと並んでいた。
ぼくは桜に帰ってきたことを知らせようとして、顔も見せたくて、そっと声をかけてとんとんと背中をたたいた。反応はなかった。
そんなに深く眠っているのか……それならそっとしておこう――そう思って、起こすのをやめた。
それよりも、置かれている便箋が気になった。桜が書いたに違いないが、何を書いていたのだろう、ちょっと読んでみようか――そう思った。もし読んではいけない内容だったら、桜が起きても読まなかったふりをするつもりだった。
手に取った便箋は良いものらしく、手触りがよかった。隅には淡い色の桜が描かれていた。
そして――
・・・・・・
今まさに手に持っている桜の便箋、鼻に寄せるときつい刺激臭がしたガラスのコップ、叩いても揺すっても、糸が切れたようにぐらぐら揺れるだけの桜――
桜が綴ったその手紙は――
-------------
優くんへ
ごめんなさい、私はもうだめです。
優くんは頑張って私をを助けようとしてくれているのに、勝手にこんなことをしてごめんなさい。優くんを独りで放り出すようなことをして、ごめんなさい。あのとき私がすぐに動いていれば、こんなことにはなりませんでした。迷惑をかけて、本当にごめんなさい。どうか許してください。
優くんはとてもやさしくていい人です。だからここで二人で過ごした七日間は、私の人生で一番楽しい日々でした。こんなに幸せな思いをさせてくれて、ありがとう。
優くんに辛い思いをさせたくはないけど、それよりも優くんを錯乱患者にしたくありません。だから、まだ私の意思があるうちに命を絶って、優くんには感染させないようにします。私のことは大丈夫だから、心配しないでください。
優くんを独りぼっちにさせたくなかったけど、他に手段がありませんでした。でも、せめて私は、命がなくなってからも優くんのことを思い続けます。だから優くんも、私がずっとそばにいると思って、生き延びてください。優くんは、必ず生き延びられます。
私の体はこのまま触らないでください。感染するかもしれません。私はこのままでいいので、優くんは残っている水と食べ物を持って早くここを出てください。水は大切に使ってください。
今日まで一緒に過ごさせてくれてありがとう。これからも、お元気で。
高山桜
-------------
そうか、眠っているんじゃない……
桜は――
驚いたぼくは思わず身を引いた。察しのいい桜はすぐに背後からどいてくれた。
相手はよろよろと、こちらに向かってきた。警察官の制服を着てはいたが、全員が退避したはずの警察署に警察官が残っているはずがなかった。
鍵のかかった部屋に閉じ込められていた者が、正常な人間であるはずがなかった。外に出したくなかった者――つまりそれは、1体の錯乱患者だった。
後から分かったことだが、錯乱患者は多少絶食に強い程度で、食べ物がなければ簡単に衰弱するようだった。あのとき室内にいた錯乱患者はおそらく警察署員が退避してから7日間に渡って取調室に閉じ込められており、食料はおろか水もなく、餓死寸前だったのだと思う。だから動きが緩慢で、声もせきも出せていなかったのだろう。
……そのせいで、そいつが中にいることが分からなかった。
この時ぼくは一歩踏み込んでドアノブをつかみ、内開きのその扉を閉めるべきだった。
だが実際にとった行動は逆だった。すぐそこにいる錯乱患者への恐怖に打ち負けて一歩二歩と後ずさった。そして、そいつがよろよろと向かって来るのを見て気圧されるようにまた下がった。
桜の表情は見ていなかった。ただ、ぼくが後ずさるのを妨げないよう左へ避けてくれていた。
ぼくがあまりに後ずさったため、ぼくは桜よりも後ろへ下がってしまった。そしてこの時は、扉の左側、死角に入ってしまっていた。桜の位置からは、中の様子が見えていなかった。
ずるりと扉を抜けた錯乱患者は、桜の目前に出る形となった。この時、息をのんだだけで声を上げなかった桜は、やっぱり強いひとだった。
だが、錯乱患者が気付くにはそれで十分だった。正面でおびえるぼくよりも、横で息をのんだ桜のほうが近かった。錯乱患者は、ゆっくりと桜のほうを向いた。
ああ、いっそ桜が怖がりだったらこんな結果にはならなかっただろう。ぼくみたいに恐怖にかられて後ずさってくれれば――
桜は下がらなかった。立ちすくんだわけでもなかった。ただとっさに、下がるという動作を思いつけなかった。桜は床を踏みしめてその場に立って、倒れ込むように襲いかかる錯乱患者に対し、右腕を上げて身体をかばった。
そのとき錯乱患者の口は大きく開いていた。横から見ていたぼくにはよく見えた。
桜の声が――
「痛あ――っ!」と絞り出すような声が聞こえて――ぼくは「気付いた」が、それを信じたくなくて頭の隅に追いやった。
ぼくはこの時になって、ようやく前に出た。ふらふらで活力の感じられない錯乱患者の肩をつかみ、力ずくで桜から引き離した。桜は声にならないうめきをあげた。
ぼくは桜から引き離した錯乱患者の両肩をつかみ、室内へ向け突き飛ばした。衰弱していたそいつは簡単に室内に倒れ込んだ。ぼくは室内に踏み込んでドアノブをつかみ、勢いよく扉を閉じた。
ぼくはすぐそばに座り込んでいる桜を見た。桜は右腕を左手で押さえ、すこし背を曲げていた。
ぼくは桜に大丈夫かと聞いたが。桜は苦しげに「だ、大丈夫」と言った。
ぼくは、戻ろう、と言って数歩進んだ。桜が立ち上がってついてきたので、ぼくはそのまま警察署内を出口へ向け急いだ。もう足音なんか気にしてはいなかった。
警察署を出たぼくたちは敷地をまっすぐ突っ切って、道路に並んだバスの間を抜け、死角の先も確かめないで桜の家を目指した。
幸い何者にも出会わず、ぼくたちは家にたどり着いた。
ぼくたちがふたりで暮らしたその家は、またぼくたちを迎え入れてくれた。
だが、桜が家の鍵を取り出した時――押さえていた手を放した時、ぼくは見てしまった。
桜の右腕の袖には、くっきりと深い歯形がついていた。
家に上がって、ぼくはとりあえず桜を居間に座らせた。その時桜はぼくの顔を見上げた。本人としてはは平気そうな顔を見せたつもりだったのだろう。
でもそれにはだいぶ無理があった。ややこわばった表情が、まだ痛みが引いていないことを物語っていた。右腕を押さえる手は震えていた。
ぼくはこの期に及んで、まだ桜は大丈夫だと思っていた。あの衰弱していた錯乱患者の噛む力は、普通のそれよりも弱かったはず。歯が食い込んだのは服までで、桜が痛がったのは歯で腕を強く挟まれたせいだ――と。
ぼくたちはしばらく、そのまま黙っていた。ぼくは袖をまくらせようとしなかったし、桜もまくろうとしなかった。
……見たくなかった。
長い沈黙――いっそそのまま時が止まってしまえばとさえ思ったが……ついに、桜は押さえていた手を放し、少し表情をゆがめながら、ゆっくりと右の袖をまくった。
現れたなめらかそうできれいな素肌、そこに――
――暴力的につけられた、血のにじんだ歯形。
桜は、噛まれていた。
ぼくはそれを何とかしようと思った。
こいつは病気の一種、病原体が何だか分からないが、噛まれた傷から体内に入るもの。それなら――まず傷口をきれいにするべきか。きれいな水――水道は出ない、雑用の水はやや不安、なら――
ぼくは飲料水のペットボトルを手に取り、桜を台所へ連れて行った。桜はついてはきたが、顔はぼくの方を向いているのに目は、ぼくを見ていないように思えた。
ぼくは流しで桜に腕を出させて、ごめん、痛いと思うけど我慢して、と言って未開封だったペットボトルのキャップを開けた。
その音を聞いた桜は急に我に返って、「やめて、いいから――」と言ったがやめるわけにはいかなかった。大丈夫、なるべくすぐ済ませるから、となだめたが、桜は「やめて――だめ!」とヒステリックな声を出した。桜のそんな声は聞いたことがなかったが、噛まれたことに対するショックのせいだろうと思った。
桜は肘でぼくを押しのけようとした。目には涙が浮かんでいた。ぼくを押した肘の力は、思ったよりだいぶ強かった。
ぼくはそれを押し留めて、桜の傷口に水をかけた。桜は表情を歪めながら、「やめて、もうやめて」と言ってぽろぽろ涙を流したが、ぼくは大丈夫、大丈夫だから、と言いながらひたすら水をかけた。
手にしていたペットボトルを空にして、ようやくぼくは満足した。まずはこれでいいだろう、と。
それから、ネットがまだ繋がっていた時期に流れてきた「噛まれた場所より心臓に近い部分をきつく縛る」という対処法を思い出した。
ぼくは桜を居間に座らせた後、包帯の置いてある場所を聞いて、探し出して桜のそばに戻った。
桜に服を半分脱がせ、二の腕を出させた。だいぶ素肌が露わになったが、どきりとはしなかった。これがうまくいったらまた、いつでもどきどきできるから――そう思って、意識はしなかった。
ぼくは桜の二の腕に包帯を強く巻き付けた。桜はぼくにされるがままで、何も抵抗しなかった。この時どうして抵抗しなかったのかは今でも分からない。
腕の傷口にもそっと包帯を巻いてから、服を元通りに着せて、大丈夫、どうってことないよ、とぼくは言った。桜は「うん」と小さな声で答えた。
ぼくは桜に寄り添って、ふたりでこたつの前に座っていた。桜が元気を取り戻して、また以前のような生活に戻れるまで、ずっとそうしていようと思っていた。
しかし、それからすぐのことだった。桜が「けほっ」と、小さくせきこんだ。
ただのせきだ、なんともない――ぼくはそう考えた。桜が噛まれたせいで、そして飛沫感染のことが頭にあったせいでぼくがせきに敏感になった――単にそれだけのことだと考えた。
今思えば、そんなはずはなかった。確かにそれまで、桜はせきなんてしていなかった。警察署へ向かう時、桜はぼくのすぐ隣にいたが、せき込んではいなかった。
おそらく――いや確実に、桜は感染していたのだ。感染爆発の初めの頃に見たニュースでは、最も短い場合は噛まれてから錯乱まで1時間程度と言っていた。病原体が身体中を巡るのはもっと早いはず。噛まれてから警察署を出て、桜の家に戻るまで、ぼくたちは何の処置もしなかった。「処置」とやらが有効だったかはこの際置いておくとして、家に戻る頃にはもう、桜は病原体に侵されていたのだ。
せきが出始めたのは、桜の身体を侵した病原体が体外へ放出されはじめたからに違いなかった。
せきの音を聞くと思い出されるのは数年前まで流行った感染症――今でもまだ、ぞっとする。
……そうだ、桜の傷口を何とかしなければ――ぼくはそう考えた。まだ水で洗って包帯を巻いただけだ。何か変な菌でも入ったらまずい、病院なんてもう当てにできないのだから――そう思った。
市販の傷薬でも、塗らないよりだいぶましだろう、錯乱患者に出くわす危険はあるが探してこよう――
それを伝えると、桜は悲痛な面持ちでこくりとうなづいた。ぼくは出来る限り力強くうなづいて、桜のリュックを背負い、途中で飲むために中身の残った水のペットボトルを入れて、足早に家を出た。鍵がないので玄関は施錠できなかったが、錯乱患者はドアを開けられないから大丈夫だろうと思ってそのままにした。
傷薬があるのは薬局か。いや、その程度ならコンビニにあるかもしれない、当てずっぽうに歩いていてもそのうち見つかる――そう思って、外の空気を吸いながら慎重に歩いた。
そしてぼくは、手ぶらで桜の家に戻ってきた。
コンビニも薬局も、場所を知らなければたどり着けはしなかった。どこかに錯乱患者が紛れている街の中を、自由に歩けるわけがなかったのだ。
帰ってきたぼくは玄関を開けて中に入って小声で、ただいま、優だよ、と言った。
桜の声はしなかった。
居間を覗くと、桜はこちらに背中を向けて、こたつに突っ伏して眠っていた。
あれだけのことがあったんだ、きっと疲れ果ててしまったのだろう――そう思った。
居間に入ると妙な臭いがした。
こんな臭いのするものはあっただろうか――ぼくは首をかしげたが、桜が何か開けでもしたのだろうと思った。
眠っている桜のすぐ横には、ガラスのコップが置いてあった。こたつの向こう側には、1枚の紙が置かれていた。それは手紙に使う便箋らしく、几帳面な桜の字がずらりと並んでいた。
ぼくは桜に帰ってきたことを知らせようとして、顔も見せたくて、そっと声をかけてとんとんと背中をたたいた。反応はなかった。
そんなに深く眠っているのか……それならそっとしておこう――そう思って、起こすのをやめた。
それよりも、置かれている便箋が気になった。桜が書いたに違いないが、何を書いていたのだろう、ちょっと読んでみようか――そう思った。もし読んではいけない内容だったら、桜が起きても読まなかったふりをするつもりだった。
手に取った便箋は良いものらしく、手触りがよかった。隅には淡い色の桜が描かれていた。
そして――
・・・・・・
今まさに手に持っている桜の便箋、鼻に寄せるときつい刺激臭がしたガラスのコップ、叩いても揺すっても、糸が切れたようにぐらぐら揺れるだけの桜――
桜が綴ったその手紙は――
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優くんへ
ごめんなさい、私はもうだめです。
優くんは頑張って私をを助けようとしてくれているのに、勝手にこんなことをしてごめんなさい。優くんを独りで放り出すようなことをして、ごめんなさい。あのとき私がすぐに動いていれば、こんなことにはなりませんでした。迷惑をかけて、本当にごめんなさい。どうか許してください。
優くんはとてもやさしくていい人です。だからここで二人で過ごした七日間は、私の人生で一番楽しい日々でした。こんなに幸せな思いをさせてくれて、ありがとう。
優くんに辛い思いをさせたくはないけど、それよりも優くんを錯乱患者にしたくありません。だから、まだ私の意思があるうちに命を絶って、優くんには感染させないようにします。私のことは大丈夫だから、心配しないでください。
優くんを独りぼっちにさせたくなかったけど、他に手段がありませんでした。でも、せめて私は、命がなくなってからも優くんのことを思い続けます。だから優くんも、私がずっとそばにいると思って、生き延びてください。優くんは、必ず生き延びられます。
私の体はこのまま触らないでください。感染するかもしれません。私はこのままでいいので、優くんは残っている水と食べ物を持って早くここを出てください。水は大切に使ってください。
今日まで一緒に過ごさせてくれてありがとう。これからも、お元気で。
高山桜
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そうか、眠っているんじゃない……
桜は――
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