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最終話 それもただの幻
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眠っているんじゃない……
桜は、もう――
もう――ここに桜はいない。
桜は出て行ってしまった……
こたつに突っ伏して動かないその身体に、ぼくが欲しい桜はいない。この場にいるのは、ぼくひとり……
どこで間違えた……?
どこでどう間違えた? どうするのが正解だった? どうしていれば、こうならなかった――?
「桜……」
声は震えた。
桜を呼んだわけじゃない。失ったそのひとの名を、口にしただけだ。
じわじわと噛みしめた歯が軋みはじめる。今になって、じわりと涙が湧いてきた。
立ったまま、涙が流れて畳に落ちる。甲高く情けない泣き声が、どこまでも情けなく出続ける。
涙は止まらない。涙は鼻にも入って、出てくる鼻水を何度もすするが、それでも鼻からこぼれてくる。
桜のものだった身体は無惨に顔面からこたつに突っ伏している。そこはぼくたちが一緒にご飯を食べて、一緒にトランプやオセロで遊んでいた幸せの場所だったのに。
もう起きてくれないその身体を前に、涙が、嗚咽が、止まらない――
・・・・・・
涙は一度止まっても、こたつに突っ伏した身体を見るとまたあふれ出てきた。
どれだけの時間、それを繰り返したか。ようやく落ち着いてきて、ちゃんと前が見えるようになってきた。
ふと見れば、桜がぼくに書いてくれた手紙が、いつの間にか畳の上に落ちている。
何かの染みがぽたぽたと付いた、桜の手紙――
それを拾おうとして、手が止まった。
手紙には確か「感染するかもしれない」と書いてあった。確かに、ぼくも桜が感染していたのはほぼ確実だったと思う。
そして、それは飛沫感染するかもしれない――
桜は一度もせきをせずに手紙を書いただろうか。
そう思って見渡すと、この部屋の空気そのものが何だか生ぬるく思えてくる。
警察署から帰った時に放り出したままのショルダーバッグが目に入った。あれくらいの大きさなら、それなりの物資が入る。
バッグを開けると懐中電灯が入っていた。警察署前で桜に渡されて、ぼくが持っていたものだ。あまり覚えていないが、たぶん警察署から出てくる時に、自分のバッグに放り込んだのだろう。
水と食べ物――もうガスコンロなど使えないから、乾パンとビスケット、あと糖分補給用にまだ残っていた金平糖を詰めて――
肩に食い込むくらい重くなったショルダーバッグをかけ、もう動かない桜の身体の、後ろを通る。
時間はやや遅いが――まだ夕方には早い。出ていける。
振り返ると、ぐったりと動かない背中と、畳に落ちた手紙が目に入った。
桜がぼくのために書いた手紙――
もう二度と書かれることのない手紙……
決心が揺らぎそうになったが、そのままきびすを返して玄関へ向かった。手紙は感染した桜がその目の前で書いたもの。飛沫がついているのは確実だ。
玄関を開けて、家を出る。7晩に渡ってぼくと桜を住まわせてくれた、家。
その家は、なんだか責めるように黙り込んでいる。
のしかかるように建っているその家は、もうぼくを迎え入れることはない。これから無惨に腐っていくあの身体を、この家は最後まで守り続ける。
ごめんなさい、と下を向いて、そのままぼくは出て行った。
・・・・・・
夕日が差し始めたのはそれからあまり経たない頃だった。土地勘もなく進退窮まったかと思ったが、ふと目にした家の玄関が半開きになっていた。小さな日本家屋だった。
半開きという不用心な状態からみて、まともな人間はいないだろうと思った。あとは錯乱患者が入り込んでいなければ、今日の宿として使える――
緊張で全身をこわばらせながら中へ入り、家じゅうを隈なく見て回ったが何者もいなかった。知らない家のにおいがしていた。
畳敷きの居間にはやや古風なちゃぶ台が置いてあった。ぼくはひとまず荷物を置いて家の周りを見て回ったが、ガスボンベらしいものは見当たらなかった。ガスは使えなさそうだが、この際文句は言えない。
障子を細目に開けて外が見えるようにし、それからバッグから出した乾パンをぼりぼり食べた。
押入れを開けると布団が積んであったので、借りることにした。少しでもいい環境で寝て、明日の行動力を養うべきだった。
寝る準備はまだ少し明るさが残っていたので、バッグから金平糖の袋を探り当て、残り少ない甘い小さな星々をちゃぶ台に転がした。くすんだその星はただ甘いだけで、乾燥していて口の中に張り付いた。
ひとまず布団にくるまったが、ちゃぶ台の向こうには何もない。視線を合わせて笑ってくれるひとはそこにいない。
目を閉じたが、いつまで経っても眠くならない。重いショルダーバッグをかついで来て、疲れているはずなのに。
ああ、昨日までは桜の布団で寝ていたのに。夜はふたりで一緒に寝て、昼は食事に洗い物に洗濯、物干し――なんて幸せな共同生活だったろう。
そうだぼくは、同い年の桜と同じ屋根の下で、同じ部屋で寝起きしていたのだ。
学校では桜はだいたい遠くにいて、ぼくはそれを目で追うだけだった。それがここ7日ばかり、ぼくは誰にも邪魔されず、桜を独り占めしていた。遊ぼうと言えば応じてくれて、ずっとぼくだけと遊んでくれた。
そばに寄ってきた桜の吐息、必ず枕元でぼくの目覚めを待っている桜、無防備に開けっ放しの脱衣所の扉――幾度も幾度も、これ以上ないくらいどきどきさせられた。
満足だったのだろうか……ぼくは。
桜は、どう思っていただろうか――ぼくを。
桜はらしくもなく、水や食料の残りを確認せずに、洗濯や洗い物などに水を浪費した。
今思えば、まるで……ぼくたちの暮らしはまるで――
その生活のほとんどは、桜が提案したものだった……。
桜は――ぼくと同じように浮かれていたのだろうか。ふたりだけの暮らしに。
もしも――
――ぼくが桜に、ずっと胸にしまっていた言葉を……
――桜がぼくに、ずっと期待していたのかもしれないその言葉を……
……伝えていたなら。
もっと違う暮らしが、もっと甘くて幸せな暮らしができたかもしれない。
――桜はあの暮らしを通して、それをぼくに求めていたのかもしれない。
……何が「かもしれない」だ。
桜がいなくなってしまってから、今さら――
涙が布団に染み込んでいく。
慰めてくれるひとは、もういなかった。
・・・・・・
――目を覚ました時には、もう明るかった。
居間の壁に掛けられた時計が、もう昼前であることを示していた。
ぼくはひとりで起き上がった。
生きるだめだけの乾いた食事の後、ぼくはすぐに家を出た。
何の未練もなかった。誰もいない家に、何の暮らしもない家には、未練など生まれなかった。
ぼくは無造作に家を出て、オレンジ色のセンターラインが伸びる道を歩き出した。
・・・・・・
このまま歩いて、果たして生きられるのか――
行く先がどうとか、それ以前の問題だった。重いショルダーバッグをかついだぼくの歩みはのろい。これでもし錯乱患者に出くわしたら――?
バッグを捨てれば逃げられるだろうが、その後捨てたバッグを回収しに戻れるのか? 土地勘がない場所を逃げ回った後で。
それにこの道を歩いてどうするつもりだ? どこへ行けばいいのかも分からないのに……
生きるっていったって、どうすればいいんだ。
・・・・・・
出発して、たかだか20分くらいだろうか。ぼくは足を止めた。
道路上に、何か落ちている。
何か黒いもの。そこまで大きくない、手のひらで持てそうなくらいだ。
見慣れたアスファルトの道路上で場違いな雰囲気を放っているそれに、ぼくはゆっくりと歩み寄った。
それは1丁の拳銃だった。
「……」
特に驚きはしなかった。
ぼくはショルダーバッグを降ろして、しゃがんで拳銃を手に取った。ひやりと冷たく、意外に重かった。
どうしてここに落ちているのだろう――ぼくが見た限り警察は銃を使っていなかったが。
……いや、警察の物とは限らないか。
日本国内でも、拳銃は手に入る。もちろんそれは違法のはずだが。
時々ニュースで、暴力団員が持っていただとか、そういう事務所を捜索したらいくつも出てきたとか、そんな話が流れてくる。法律で禁じられてはいても、実際にはその隙を通って手に入れる者はいるのだ。
もしぼくがそういう立場の人間だったら――手に取れる所に拳銃が置いてあったなら、まず間違いなく持っていく。錯乱患者がうろつく街の中を、手ぶらで進むよりはずっといい。
今ぼくの手のひらにあるこの拳銃も、そういった人たちが持ってきたのかもしれない。どうしてここに落としていったのかまでは、分からないが。
手にした拳銃を見て、これで錯乱患者と戦える――とは思わなかった。
拳銃を持って戦う気力なんて湧いてこない。もう、疲れた。
・・・・・・
桜……昨日まではぼくのすぐそばにいたのに。吐息を感じられるくらい、身を寄せ合っていたのに。
今はもう声も聞けない。その姿さえ、二度と目にすることはできない。思えば形見の品のひとつも、ぼくは持ってこなかった。
あ、手紙――
桜が、ぼくに書いた最後の手紙……ぼくのためを思って、ぼくのために綴ったぼくへの手紙――
桜が書いてくれたあの手紙、せめてこの手に持って来ればよかった。
そうすれば、桜のあの几帳面な字を何度も見返すことができた。書いてくれた言葉を、何度も読み返すことができた。桜が最後に触れたその手紙に、何度も触れ直すことができた。
それが今、手元にない。書いてくれた言葉も、もう思い出そうとしてもほとんど思い出せない。
もう一度、桜の手紙が読みたい。
幻でもいい、そばに桜の気配を感じたい――
――そうだ、持ってくればよかったんだ。
桜の手紙には、確かに危険な飛沫が付いていただろう。だが家じゅう探せばビニール袋くらいどこかにあったはずだ。袋に入れて、輪ゴムで縛って――手紙の1枚くらい、持ってこれた。
そうしていれば、ぼくが欲しかった桜の、その欠片くらいはここにあっただろうに。
飛沫感染におびえて、大切なひとの大切な手紙をそのまま置いてきた。なんて情けないんだろう、ぼくは……
・・・・・・
立つ気も失せて、道路の真ん中に座った。
謎の奇病の流行、人間社会の崩壊――そんなものは、もうぼくにはどうでもいい。
ぼくは桜を、どれくらい幸せにできたのだろうか。
少なくとも最期の瞬間、桜は幸せではなかったはずだ。
桜が命の終わりを見つめている時、そこにぼくはいなかった。桜は独りきりだった。
飛沫感染が怖くなったぼくが、傷薬を探しに行くと嘘をついて逃げたからだ。
ぼくに独りきりにされた桜は、命がなくなる恐怖にひとりで耐えながら最後の手紙を書き、誰にも看取られず突っ伏して二度と起きなくなった……
・・・・・・
目を閉じて、桜の顔を思い浮かべる。黒い瞳、優しそうな目、きれいな唇――優しい笑顔に、こそばゆい吐息、どこか浮かれて楽しそうな姿――
――そして、突っ伏したまま起きない背中。
何度思い浮かべても、桜は途中で消えてしまう。夢なら覚めてくれ、そうすれば枕元に桜が座っているはずなんだから――
幸せだった思い出、大切だったひと――
幾度擦ってもすぐ消える。まるでひと時限りのマッチの光――
いくら擦っても、火がつかない。涙に湿気たマッチが折れる――
座り込んだぼくが散らした思い出のマッチ――
昔、本で読んだ「マッチ売りの少女」――
その少女は、マッチが見せる幻を見続けた果てに――
・・・・・・
右手には1丁の拳銃。
桜……ごめん。ぼくはきみなしで生きれる気がしない。きみに後押しされてここまでは来たけれど、もう――だめだ。
拳銃――こめかみに当てると、恐怖で向きがずれると聞いたことがある。
上下を逆にし、ぼくは銃口を咥えた。冷たい金属の感触がする。
こうして下から脳を貫いた事例を、聞いたことがある。
逆さになった拳銃を右手で握り、引き金に左の親指をかける。
目を、つむった。
ごめんよ、桜……
そして、ぼくは引き金を押し込んだ――
・・・・・・
その瞬間、街に慟哭の音色がこだました。
桜は、もう――
もう――ここに桜はいない。
桜は出て行ってしまった……
こたつに突っ伏して動かないその身体に、ぼくが欲しい桜はいない。この場にいるのは、ぼくひとり……
どこで間違えた……?
どこでどう間違えた? どうするのが正解だった? どうしていれば、こうならなかった――?
「桜……」
声は震えた。
桜を呼んだわけじゃない。失ったそのひとの名を、口にしただけだ。
じわじわと噛みしめた歯が軋みはじめる。今になって、じわりと涙が湧いてきた。
立ったまま、涙が流れて畳に落ちる。甲高く情けない泣き声が、どこまでも情けなく出続ける。
涙は止まらない。涙は鼻にも入って、出てくる鼻水を何度もすするが、それでも鼻からこぼれてくる。
桜のものだった身体は無惨に顔面からこたつに突っ伏している。そこはぼくたちが一緒にご飯を食べて、一緒にトランプやオセロで遊んでいた幸せの場所だったのに。
もう起きてくれないその身体を前に、涙が、嗚咽が、止まらない――
・・・・・・
涙は一度止まっても、こたつに突っ伏した身体を見るとまたあふれ出てきた。
どれだけの時間、それを繰り返したか。ようやく落ち着いてきて、ちゃんと前が見えるようになってきた。
ふと見れば、桜がぼくに書いてくれた手紙が、いつの間にか畳の上に落ちている。
何かの染みがぽたぽたと付いた、桜の手紙――
それを拾おうとして、手が止まった。
手紙には確か「感染するかもしれない」と書いてあった。確かに、ぼくも桜が感染していたのはほぼ確実だったと思う。
そして、それは飛沫感染するかもしれない――
桜は一度もせきをせずに手紙を書いただろうか。
そう思って見渡すと、この部屋の空気そのものが何だか生ぬるく思えてくる。
警察署から帰った時に放り出したままのショルダーバッグが目に入った。あれくらいの大きさなら、それなりの物資が入る。
バッグを開けると懐中電灯が入っていた。警察署前で桜に渡されて、ぼくが持っていたものだ。あまり覚えていないが、たぶん警察署から出てくる時に、自分のバッグに放り込んだのだろう。
水と食べ物――もうガスコンロなど使えないから、乾パンとビスケット、あと糖分補給用にまだ残っていた金平糖を詰めて――
肩に食い込むくらい重くなったショルダーバッグをかけ、もう動かない桜の身体の、後ろを通る。
時間はやや遅いが――まだ夕方には早い。出ていける。
振り返ると、ぐったりと動かない背中と、畳に落ちた手紙が目に入った。
桜がぼくのために書いた手紙――
もう二度と書かれることのない手紙……
決心が揺らぎそうになったが、そのままきびすを返して玄関へ向かった。手紙は感染した桜がその目の前で書いたもの。飛沫がついているのは確実だ。
玄関を開けて、家を出る。7晩に渡ってぼくと桜を住まわせてくれた、家。
その家は、なんだか責めるように黙り込んでいる。
のしかかるように建っているその家は、もうぼくを迎え入れることはない。これから無惨に腐っていくあの身体を、この家は最後まで守り続ける。
ごめんなさい、と下を向いて、そのままぼくは出て行った。
・・・・・・
夕日が差し始めたのはそれからあまり経たない頃だった。土地勘もなく進退窮まったかと思ったが、ふと目にした家の玄関が半開きになっていた。小さな日本家屋だった。
半開きという不用心な状態からみて、まともな人間はいないだろうと思った。あとは錯乱患者が入り込んでいなければ、今日の宿として使える――
緊張で全身をこわばらせながら中へ入り、家じゅうを隈なく見て回ったが何者もいなかった。知らない家のにおいがしていた。
畳敷きの居間にはやや古風なちゃぶ台が置いてあった。ぼくはひとまず荷物を置いて家の周りを見て回ったが、ガスボンベらしいものは見当たらなかった。ガスは使えなさそうだが、この際文句は言えない。
障子を細目に開けて外が見えるようにし、それからバッグから出した乾パンをぼりぼり食べた。
押入れを開けると布団が積んであったので、借りることにした。少しでもいい環境で寝て、明日の行動力を養うべきだった。
寝る準備はまだ少し明るさが残っていたので、バッグから金平糖の袋を探り当て、残り少ない甘い小さな星々をちゃぶ台に転がした。くすんだその星はただ甘いだけで、乾燥していて口の中に張り付いた。
ひとまず布団にくるまったが、ちゃぶ台の向こうには何もない。視線を合わせて笑ってくれるひとはそこにいない。
目を閉じたが、いつまで経っても眠くならない。重いショルダーバッグをかついで来て、疲れているはずなのに。
ああ、昨日までは桜の布団で寝ていたのに。夜はふたりで一緒に寝て、昼は食事に洗い物に洗濯、物干し――なんて幸せな共同生活だったろう。
そうだぼくは、同い年の桜と同じ屋根の下で、同じ部屋で寝起きしていたのだ。
学校では桜はだいたい遠くにいて、ぼくはそれを目で追うだけだった。それがここ7日ばかり、ぼくは誰にも邪魔されず、桜を独り占めしていた。遊ぼうと言えば応じてくれて、ずっとぼくだけと遊んでくれた。
そばに寄ってきた桜の吐息、必ず枕元でぼくの目覚めを待っている桜、無防備に開けっ放しの脱衣所の扉――幾度も幾度も、これ以上ないくらいどきどきさせられた。
満足だったのだろうか……ぼくは。
桜は、どう思っていただろうか――ぼくを。
桜はらしくもなく、水や食料の残りを確認せずに、洗濯や洗い物などに水を浪費した。
今思えば、まるで……ぼくたちの暮らしはまるで――
その生活のほとんどは、桜が提案したものだった……。
桜は――ぼくと同じように浮かれていたのだろうか。ふたりだけの暮らしに。
もしも――
――ぼくが桜に、ずっと胸にしまっていた言葉を……
――桜がぼくに、ずっと期待していたのかもしれないその言葉を……
……伝えていたなら。
もっと違う暮らしが、もっと甘くて幸せな暮らしができたかもしれない。
――桜はあの暮らしを通して、それをぼくに求めていたのかもしれない。
……何が「かもしれない」だ。
桜がいなくなってしまってから、今さら――
涙が布団に染み込んでいく。
慰めてくれるひとは、もういなかった。
・・・・・・
――目を覚ました時には、もう明るかった。
居間の壁に掛けられた時計が、もう昼前であることを示していた。
ぼくはひとりで起き上がった。
生きるだめだけの乾いた食事の後、ぼくはすぐに家を出た。
何の未練もなかった。誰もいない家に、何の暮らしもない家には、未練など生まれなかった。
ぼくは無造作に家を出て、オレンジ色のセンターラインが伸びる道を歩き出した。
・・・・・・
このまま歩いて、果たして生きられるのか――
行く先がどうとか、それ以前の問題だった。重いショルダーバッグをかついだぼくの歩みはのろい。これでもし錯乱患者に出くわしたら――?
バッグを捨てれば逃げられるだろうが、その後捨てたバッグを回収しに戻れるのか? 土地勘がない場所を逃げ回った後で。
それにこの道を歩いてどうするつもりだ? どこへ行けばいいのかも分からないのに……
生きるっていったって、どうすればいいんだ。
・・・・・・
出発して、たかだか20分くらいだろうか。ぼくは足を止めた。
道路上に、何か落ちている。
何か黒いもの。そこまで大きくない、手のひらで持てそうなくらいだ。
見慣れたアスファルトの道路上で場違いな雰囲気を放っているそれに、ぼくはゆっくりと歩み寄った。
それは1丁の拳銃だった。
「……」
特に驚きはしなかった。
ぼくはショルダーバッグを降ろして、しゃがんで拳銃を手に取った。ひやりと冷たく、意外に重かった。
どうしてここに落ちているのだろう――ぼくが見た限り警察は銃を使っていなかったが。
……いや、警察の物とは限らないか。
日本国内でも、拳銃は手に入る。もちろんそれは違法のはずだが。
時々ニュースで、暴力団員が持っていただとか、そういう事務所を捜索したらいくつも出てきたとか、そんな話が流れてくる。法律で禁じられてはいても、実際にはその隙を通って手に入れる者はいるのだ。
もしぼくがそういう立場の人間だったら――手に取れる所に拳銃が置いてあったなら、まず間違いなく持っていく。錯乱患者がうろつく街の中を、手ぶらで進むよりはずっといい。
今ぼくの手のひらにあるこの拳銃も、そういった人たちが持ってきたのかもしれない。どうしてここに落としていったのかまでは、分からないが。
手にした拳銃を見て、これで錯乱患者と戦える――とは思わなかった。
拳銃を持って戦う気力なんて湧いてこない。もう、疲れた。
・・・・・・
桜……昨日まではぼくのすぐそばにいたのに。吐息を感じられるくらい、身を寄せ合っていたのに。
今はもう声も聞けない。その姿さえ、二度と目にすることはできない。思えば形見の品のひとつも、ぼくは持ってこなかった。
あ、手紙――
桜が、ぼくに書いた最後の手紙……ぼくのためを思って、ぼくのために綴ったぼくへの手紙――
桜が書いてくれたあの手紙、せめてこの手に持って来ればよかった。
そうすれば、桜のあの几帳面な字を何度も見返すことができた。書いてくれた言葉を、何度も読み返すことができた。桜が最後に触れたその手紙に、何度も触れ直すことができた。
それが今、手元にない。書いてくれた言葉も、もう思い出そうとしてもほとんど思い出せない。
もう一度、桜の手紙が読みたい。
幻でもいい、そばに桜の気配を感じたい――
――そうだ、持ってくればよかったんだ。
桜の手紙には、確かに危険な飛沫が付いていただろう。だが家じゅう探せばビニール袋くらいどこかにあったはずだ。袋に入れて、輪ゴムで縛って――手紙の1枚くらい、持ってこれた。
そうしていれば、ぼくが欲しかった桜の、その欠片くらいはここにあっただろうに。
飛沫感染におびえて、大切なひとの大切な手紙をそのまま置いてきた。なんて情けないんだろう、ぼくは……
・・・・・・
立つ気も失せて、道路の真ん中に座った。
謎の奇病の流行、人間社会の崩壊――そんなものは、もうぼくにはどうでもいい。
ぼくは桜を、どれくらい幸せにできたのだろうか。
少なくとも最期の瞬間、桜は幸せではなかったはずだ。
桜が命の終わりを見つめている時、そこにぼくはいなかった。桜は独りきりだった。
飛沫感染が怖くなったぼくが、傷薬を探しに行くと嘘をついて逃げたからだ。
ぼくに独りきりにされた桜は、命がなくなる恐怖にひとりで耐えながら最後の手紙を書き、誰にも看取られず突っ伏して二度と起きなくなった……
・・・・・・
目を閉じて、桜の顔を思い浮かべる。黒い瞳、優しそうな目、きれいな唇――優しい笑顔に、こそばゆい吐息、どこか浮かれて楽しそうな姿――
――そして、突っ伏したまま起きない背中。
何度思い浮かべても、桜は途中で消えてしまう。夢なら覚めてくれ、そうすれば枕元に桜が座っているはずなんだから――
幸せだった思い出、大切だったひと――
幾度擦ってもすぐ消える。まるでひと時限りのマッチの光――
いくら擦っても、火がつかない。涙に湿気たマッチが折れる――
座り込んだぼくが散らした思い出のマッチ――
昔、本で読んだ「マッチ売りの少女」――
その少女は、マッチが見せる幻を見続けた果てに――
・・・・・・
右手には1丁の拳銃。
桜……ごめん。ぼくはきみなしで生きれる気がしない。きみに後押しされてここまでは来たけれど、もう――だめだ。
拳銃――こめかみに当てると、恐怖で向きがずれると聞いたことがある。
上下を逆にし、ぼくは銃口を咥えた。冷たい金属の感触がする。
こうして下から脳を貫いた事例を、聞いたことがある。
逆さになった拳銃を右手で握り、引き金に左の親指をかける。
目を、つむった。
ごめんよ、桜……
そして、ぼくは引き金を押し込んだ――
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