【完】グランディール学院の秘密

伊藤クロエ

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 学院長に報告をし、いまだ落ち着かぬ生徒たちを宥めきちんと食事をとるよう指示する監督生たちに目を配り、怪我人には適切な手当てを、騒動を間近に見て精神的なショックを受けている一部の運営担当の者は先に部屋に引き取らせて代わりの人員を配置する。その上で今回の各参加者たちの成績を集計し、査定し、順位をつける。
 一連の作業と後片付けがすべて終わったのはちょうど日付が変わろうとしている頃だった。
 アーサーたちと別れて自分の寮の部屋に戻り、着替えもそこそこにベッドに倒れ込む。
(疲れた……、本当に疲れた……)
 それは肉体的な疲労というよりも精神的なものが遥かに大きかったが、アリスティドはすぐに自分の愚痴を否定する。
(……いや、何を大袈裟な。単に天候の不順から突発的なアクシデントが重なり、予想外のトラブルが起きた。ただそれだけのことだ)
 もちろん同じ事故が起こらぬよう詳しい報告書を作り、それに対する対処法を議論する必要はあるだろう。だがそれは後日に先送りで構わない。
 とりあえず目先のことでアリスティドがこれ以上考えるべきことはないし、すぐに沐浴をし服を着替えて一刻も早くベッドに入り眠るべきだ。そう頭ではわかっているのに指一本動かすことができない。
(…………疲れた。今日はもう、何もかもが、どうでもいい)
 乱れた服のままベッドに上がり寝てしまうなどということは、普段のアリスティドからは到底許せない怠慢だったが、もうそれ以上何も考えることができなかった。
(…………きっと、明日になれば、皴だらけの制服とべたつく身体と自分自身に、相当腹を立てることになるんだろうな……)
 まるで他人事のように思いながらアリスティドは気絶するように眠ってしまった。


     ◇   ◇   ◇


 そして次に意識を取り戻した瞬間、アリスティドは自分がどこで何をしているのかまるでわからなかった。
 温かい湯に胸まで浸けられ、雨に濡れて気持ち悪かった髪を誰かが梳いて洗っている。ため息が出るほど気持ちのいい温かさと、太くて硬い指に頭皮を擦られる感触に思わずぞくり、と快感が走った。
「目が覚めましたか」
 頭上から落ちてきた、今となっては誰よりも聞きなれてしまった低く落ち着いた声に、アリスティドはなんと答えるべきか一瞬迷う。
「…………なぜ、お前がここにいる」
「ひどくお疲れのようだったので」
 手伝いに、と言うゲオルグの手が湯を掬って、アリスティドの髪から泡を落とした。

 グランディールの寮では生徒たちは皆、寮の地階のシャワーで汗を流すが、筆頭監督生の個室にだけは小さなバスルームがある。とはいえ、かなり小ぶりなものとはいえ沐浴用のバスタブにいちいち湯を張るのは相当な手間になるので、アリスティドはせいぜい手桶に汲んだ湯で身体を拭き清めるくらいでしか使ったことがなかった。
 だが今はアリスティドが眠っている間にゲオルグが用意したのか、琺瑯製のバスタブにはたっぷりと湯がはられていて、アリスティドはそこに浸かったままゲオルグに髪と身体を洗われていたようだった。
「…………疲れているのはお前の方だろう」
 アリスティドはズキズキと痛むこめかみを押さえたくなるのを堪えて視線を上げる。するとバスタブの脇に跪き、白いシャツを腕まくりしたゲオルグが首を傾げて「それほどでも」と答えた。
 一体、何をこの男に言うべきなのか。
 いっそ一日中ずっと心の中に澱のように溜まり続けたこのもやもやとしたやり場のない感情を全力でぶつけて湯をぶちまけ怒鳴り散らしてやりたかったが、それを意地と理性でなんとか押さえ込む。
 するとゲオルグがまた湯を掬ってアリスティドの髪を梳いた。その指が耳の後ろを掻いた瞬間、気持ちよさに声が漏れそうになる。アリスティドがすんでのところでそれを噛み締め飲み込むと、今度はその手がうなじを滑り降り一日続いた緊張に凝り固まった肩を揉みほぐし始めた。
「…………っ、ふ…………」
 あまりの気持ちよさに思わずため息が零れる。恐らくは本人以上にアリスティドの身体を知り尽くしている大きく無骨な手が肩を、腕を、そして手のひらを擦り、指の先まで綺麗に磨いていく。自分のものよりも一回り大きく、貴族階級ではないことがひと目でわかるごつごつとした硬い手に包まれた自分の指先をぼんやりと眺めて、アリスティドは口を開いた。
「…………ゲオルグ、もういい。お前は部屋に戻れ」
 その時ゲオルグが何を思ったにせよ、その表情には何も現われてはいなかった。ゲオルグは傍らに置いていた沐浴用の大きなタオルを手にいつもの低く静かな声で答える。
「わかりました。貴方の着替えを手伝ったら、すぐ」
「必要ない」
「しかし……」
 そう言いかけたゲオルグを遮って、アリスティドは言った。
「私は今夜、寮監の目安箱にメモを入れた覚えはない」
 狭い浴室に沈黙が落ちる。やがてゲオルグは頭を下げてから立ち上がり、見上げるほど大きな身体からは想像もつかぬほど静かな足取りで部屋を出て行った。

 誰もいなくなった浴室で湯に半ばまで浸かりながら、アリスティドは息を殺して外の足音が聞こえなくなるまで待った。そして両手で顔を覆い、深々と息を吐きだした。
「…………最悪だ」
 アリスティドは今度こそ本当におのれに愛想を尽かす。

 性欲に負け、淫らな行為なしにはいられない身体になるだけならまだましだ。そんな人間は恐らく貴族の中にいくらでもいるだろうし、アリスティドさえ上手に立ち回ればおのれの性欲を満たす相手と手段などいくらでも見つけられるだろう。
 だが、何もかも投げ出してもいいと思えるほど自分が弱くなるのだけは絶対に駄目だ。

 アリスティドは幸か不幸か人より随分と目立つ容姿を持って生まれ、人質同然に輿入れした他国の姫を先祖に持つという些か面倒な立場にあった。
 それでもより優れた人間になり、自分に誇れる生き方がしたいという望みを持っている。そのためには決して人に侮られたり足元を掬われたりすることなく、常に人の一歩先を見て考える人間にならなければならない。
 決して他人に膝を屈したりはしない。他人の指図に従い、他人にいいように操られる駒にはならない。そのためにはアリスティドの主人はあくまでアリスティド自身であらねばならないのだ。


 今日のオリエンテーリングの最中、黒々と聳える山と降りしきる雨を見上げながらアリスティドは何度全てを投げ出してあの山道を駆け上りたいと思ったことだろう。
 ウィリアムやテオには鹿爪らしい顔をして二次遭難の可能性を示唆し、落ち着いて待つように、などと言っていたくせに、誰よりも一番ゲオルグを探しに校庭を飛び出して行きたいと思っていたのは自分だった。
 それでもアリスティドは必死に自分を抑え、歯を食いしばって冷静さを装い、そしてついに無事彼らが戻ってきた時も安堵のあまり無様にその場にくずおれるようなこともしなかった。
 けれど下級生を背負い、同じく泣きじゃくる二学年生の手を引いた彼に皆が一斉に駆け寄り口々に賛辞を呈する姿を見て、自分も泣いて喚いてなぜもっと早く戻らなかったか、どうしてこんなに心配させたのかと八つ当たりにも等しい悪態をつきながら彼にしがみつきたくて仕方がなかった。
 もし本当にそんなことをすればきっとあの男は驚愕に目を見開いただろうし、周りの生徒たちもアリスティドの醜態に目を剥いたことだろう。アリスティドとて、ゲオルグが戻ってこないと聞いた時にまさかあそこまで自分が狼狽え取り乱しそうになるとは思いもしなかった。
(なぜだ。私はあの男を憎んでさえいたはずなのに)
 ひと目はばかる痴態を彼に知られてしまっているという負い目は確かにある。ほかの誰にもそれをバラされてはならないという恐怖も。
 なのになぜ自分はあの男を案じ、心配しているのか。なぜあの男が自分の目の届くところにいないことにこんなにも動揺しているのか、まったくわからなかった。

 だが彼が無事に戻った姿を見て、アリスティドにはわかったことが一つある。
(あの男は毒だ)
 アリスティドはようやくゲオルグという男の本当の正体に気づいた。
 あの男は、容赦ない愛撫と責めと、あの硬く猛々しいモノで完全にアリスティドを肉欲の虜にしておきながら、同時にひどく優しい手と無言の甘やかしでアリスティドの心をも奪ってしまった。
 下級生たちを連れて無事に山から下りてきた彼の姿を見た時、いつでも冷静なはずのアリスティドの頭は真っ白になってしまった。そしてあのあまり感情を見せない彼の黒い目が一瞬アリスティドを見た時に自分の中に沸き起こったとてつもない歓喜と深い深い安堵を、アリスティドはもう否定することができなかった。

 あの男はまさに毒だ。アリスティドから理性もプライドも意地も何もかも剥ぎ取って丸裸にし、ひと目も気にせず地位もプライドもかなぐり捨てて一人の男の無事をただ泣いて喜びたくなるような馬鹿な人間にしてしまうのだ。




 アリスティドはつい先ほどまでゲオルグの大きな手に包まれていた自分の指先をそっと撫でる。ゲオルグの太く節のはっきりした傷だらけの男らしいそれとは似ても似つかない、細くて柔らかい、あまりにも貴族らしい軟弱な指。今夜アリスティドはゲオルグと自分の手を見比べて、生まれて初めてその差が恥ずかしいと思った。
 あの手や指にあったいくつもの新しい擦り傷や切り傷は、間違いなく山から下りてきた時に負った傷だ。
 あの暗い山の上でゲオルグは冷たい雨に全身濡れながらどんどん失われていく体温と蓄積されていく疲労と戦い、暗く足元も覚束ない山道を足手まといでしかない二人の下級生を連れて無事戻ってきた。それがどれほど彼を肉体的にも精神的にも疲れさせたか、想像に難くない。
 なのに彼はアリスティドのために自らの疲労をおして、わざわざこの部屋に来ては浴槽に湯を張り、眠るアリスティドを抱えて丁寧に汚れを洗い落としては強張る身体を労わってくれた。
 なぜ彼がそこまで自分にするのか、相変わらず理由はわからない。彼が何を考え、自分をどう思っているのか見当もつかない。だがもうそれはどうでもいいことだ。

 あの男はアリスティドに何度も「これは奉仕だ」「学院がアリスティドのために用意した、受け取って当然の権利なのだ」と言った。つまりこれまで二人の間であったことはすべて彼にとって奉仕委員としての仕事でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。ならばアリスティドがあの行為にそれと異なる意味を持たせてはいけないのだ。


 アリスティドは自分に触れていたゲオルグの手の感触を思い出してはそれを追いかけ、愛おしむ。
 これが最後だ。
 もう二度と、アリスティドが彼をこの部屋に招くことはない。
 己を弱くし、己の命取りになるかもしれない男を、これ以上近づけるわけにはいかない。それが貴族たるアリスティドが必要とする処世なのだ。

 アリスティドはバスタブの中で一人膝を抱え込み、その中に顔を伏せてそっと息を吐く。
「………………よかった」
 生きて、無事で、本当に良かった。
 アリスティドの誰も聞くことのない呟きは、すっかり冷めてしまった湯に溶けて消えた。
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